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2話

「まぁそうね。私たちはこれ以上ないほどの成果を手に入れたわ。もちろんこんな魔道具ではなくね」


 アーノルドはその言葉に神妙に頷いた。


「だからこそ、私達が製作する必要はないだろう。これ以降はいま私に付き従っている職人どもにこれをやらせるつもりだ」


 アーノルドはここ4年間で武術や研究だけをしていたわけではない。


 武芸を磨くための遠征の傍らに商人や職人など、才ある者をアーノルドの配下として集めていた。


 当然有能な者は既に誰かの紐付きであることが多い。


 特にダンケルノ公爵領にいて、優れた能力をもっているにもかかわらず不遇な目にあっている者など存在しないと言っていい。


 アーノルドは何らかの理由があって世に埋没している素質ある者をコツコツと集めていった。


 斬新な手法を思いついているのにそれを実行する力や金のない者を。


 伝統的な方法とは違うからと試すことすら許してもらえない若者を。


 お金がなく家族を養うためにその才を生かせていない者を。


 だが、アーノルドは既に有能とされる者をヘッドハンティングすることはなかった。


 ダンケルノ公爵家お抱えともなれば、それこそ一平民にとってはいま居る場所を、そして地位を捨ててでも来る者は多い。


 だが、アーノルドはそれはしない。


 アーノルドに必要なことはいまある優れた技術ではなく、未知の技術を、未知のものを活かせる才能を持つ者達なのだから。


 そういう未知なる技術に挑む者達にとって何よりも大事なのはパトロンである。


 代々受け継がれてきた伝統を守るような職人や商人達は保守的であり、いまあるものを変えようとはしない。


 貴族達も成功するかどうかも分からないものに対して出資するようなことはない。


 そもそも平民など、ある程度実績を積まなければ貴族本人に会うことも直言することすらできないし、貴族の目に留まるようなことなどない。


 ほとんどの貴族にとって職人や商人など、ただの自身の権威や力を満たすための道具。


 話すような機能など持ち合わす必要すらない。


 何一つ自身を煩わせることなく、ただ金を出すだけの装置であれば良いのだから。


 そもそも成果も実績もなく口だけの者など相手にすらしない。


 この世界はある意味実力主義だ。


 実績ある者だけが評価され、ない者は当然ながら評価などされない。


 だが、いまのこの世は評価されぬ者がその実績を作る機会すら与えられないという矛盾した世である。


 実力などではなく、家柄など選ばれた者だけが実績を作ることができる。


 どれだけ下っ端や新人程度の者がいくら言い募ろうが、大商会の商会長や職人達の親方がリスクを取ってまで新たな提案を受け入れることなどない。


 もはや確立した手段というのはそれだけ甘美なのである。


 生活の危機もないのにわざわざリスクを取りはしない。


 自分の手法を信じているからこそ成功してきているのだ。


 それを下っ端程度に言われた程度で変えようなどとは微塵も思わない。


 自身を脅かすものが存在するからこそ技術の進歩は生まれるが、ここ数百年、数千年、人類を脅かす存在などそうはないのだ。


 中には面白そうだと試してみるような奇特な者もいるだろうが、成功するかどうかはまた別問題であり、仮に成功したとしても金を出したのは上の者だ。


 それが提案した下の者の実績になることはない。


 それに長い年月が掛かるようなものならば尚更そんな成功するかどうかわからぬものにお金をずっと投資することは出来ない。


 良くてアイデア料がもらえるだけ。


 悪ければただアイデアを盗まれるだけだ。


 だが、この世ではそれこそが道理。


 弱者は搾取され、強者こそが全てを手に入れることができる。


 他者のためではなく自分自身の欲に貪欲な者こそがこの世では大成できるのだ。


 だがそんな仕組みであるからこそ、この世界の文明は前世に比べれば遅れていると言わざるを得ない。


 魔法があるため、利便性においては少しは相殺できているがそれでも前世の文明の利器と比べれば大分劣っているのは考えるまでもない。


 一部の天才がごくたまに現れ、時代の趨勢を一気に進めて行くことはあれど、それに続く進化というものが見られない。


 アーノルドはそれが我慢ならなかった。


 それではアーノルドが全てを手に入れた後に望む快適な生活が遠退く。


 前世を知っているだけにいまの生活水準の劣りが目につく。


 上の者が押さえつけ、若い者の成長の機会を止めているならば、更に上の権力を持つアーノルドが引き抜き支援してやった。


 金がないから試せないと言うのならば支援してやった。


 家族を養うお金を稼がなければならないから別の仕事を辞められないと言う者には家族の面倒をみてやった。


 当然、アーノルドも慈善事業をしているわけではない。


 見込みのある者に投資をしているだけだ。


 だが、その結果がすぐに実らなくてもそれは仕方がないとは考えているし、今すぐ結果を求めているわけでもない。


 それに収入源も必要だ。


 これくらいのリスクを負わなければ大きく稼ぐなど不可能である。


 もっとも、悪いことばかりではない。


 アーノルドに掬い上げられた者達にしてみれば、無条件で全てを与えてくれた神のような存在。


 掬い上げた者達の家族の面倒も見てくれるし、すぐに成果を出せなどとも言われなかった。


 ただ自由にやれ、とそう言うのだ。


 この世の中ではあり得ないことだ。


 貴族などただ無茶な命令をし、気に入らぬとなれば替えなどいくらでもいると手打ちすら平然とする傍若無人の暴君である。


 環境を整えてくれただけでなく、家族の面倒まで見てくれるとなればその感謝の心は如何程か。


 必然恩義が生まれ、忠誠心が高まるのは自明の理であった。


 そしてマードリーもまた、その職人達がいかにアーノルドを神の如く崇拝しているのかを知っているため、深く頷いた。


「まぁそれがいいでしょうね。下手な職人に任せたら技術が漏洩するでしょうし、あそこまで従順なら問題ないでしょう。まぁどれだけ従順であろうと最終的に信じられるのは自分だけだけどね」


 人間なんて、どれだけ崇拝していようが自身の家族や自分自身の命が危うくなったときに本当に他者のために尽くせるのかなどわからない。


 それこそ、神を崇拝していた者が死の間際になって神を呪うなどという話もよく聞く。


 無条件に自分の命を差し出せる者などそうそういないのである。


 それゆえ、マードリーはいつも薄らと浮かべている笑みを引っ込めて、努めて真剣な表情で幼子に言い聞かせるかのようにアーノルドの瞳を直視しながらそう言ったのである。


 そして何かを思い出したかのように、その場で手にマナを集中させ、あるものを形成した。


「ああ、従順といえばニンデルから連絡が来ていたわよ」


 そう言ってマードリーは魔法で作られた手紙をアーノルドに渡してきた。


 これが扱えるのはこの世界でマードリーとその師匠だけらしいので、秘密裏に連絡をする際には重宝している。


 アーノルドも扱えるように訓練しているが、いまだ出来た試しがない。


 魔法は離れたところにあるほど扱いが難しい。


 だから、その代わりとばかりに遠距離でも連絡が取れる魔道具の開発をしているが、その距離を伸ばすのに苦労している。


 まだそれを実用するのには時間がかかるだろう。


 ニンデルとは数年前にアーノルドが拾い上げた商人であり臣下の名である。


 当時まだ二十代であったニンデルは、商人達の世界ではいまだ若年の商人であるが、その場の流れを読み、何を仕入れるべきか、またどこに行くべきかなどを鋭敏に読み取る商才があった。


 だが、若輩者の成功を面白くないと妬む者はどこにでもいた。


 弱小商会ながらも成功を収めて軌道に乗っていたところをその区域一帯で商売をしていた大商人に疎まれて、そのまま嵌められてしまい無実の罪を着せられ投獄されていたのである。


 役人達も大商人からの賄賂を受け取っており、ニンデルの言葉など聞く耳を持たない状態であった。


 だが、こんなことはこの世界では日常茶飯事である。


 これはニンデルが商人の世界の理を知っていれば避けられたこと。


 その商人に賄賂という名のご機嫌取りをしておけば良かっただけだ。


 この世ではそれを怠ったニンデルが馬鹿であると(なじ)られるだけ。


 だが、それは商人の法でありこの世の法ではない。


 しかしいくらこの世の法ではないとはいえ、何の力もないニンデルではもはや死は免れないという状況になっていたのだ。


 そんな状況の最中(さなか)、たまたま通りがかったアーノルドがニンデルとその家族共々助けたのである。


 アーノルドは別にニンデルを助けようとしたわけではなく、どこぞの商家の子息であると勘違いしたのかこの街に入りたければ賄賂を寄越せと言ってきたこの街のふざけた領地の代官の要求を無視したらその晩アーノルドを襲撃してきたため、その代官を殺したついでに助けたというのが正しい。


 だが、理由がどうあれニンデルにとっては死ぬ寸前で助けられた命の恩人である。


 その後アーノルドの職人達が生み出したものを売らせて、いまや有名商会とも言えるまでに成長したことで、ニンデルのアーノルドへの忠誠心は群を抜いている。


 アーノルドは自身に尽くすニンデルの家族達にも身に余るほどの待遇を与えている。


 そのためニンデルは、それこそ足を舐めろと言えば二つ返事で本当に舐めるだろう。


 そんなニンデルはいま、1年前からトライデント魔導王国に自身の商会の支店を出し、その国の内情を探るために潜入している。


 いつもはトライデント魔導王国内の情報などを送ってきているが、今回はそうではないであろうことは容易に想像できた。


 アーノルドが造った暖房機、それに関することだろう。


「はっ、まぁ予想通り、随分とハイエナ共が群がってきているな」


 予想通りの内容にアーノルドは顔を顰めて悪態を吐いた。


 アーノルドはいくつかの魔道具を作り出したが、そのほとんどは売りになど出していない。


 だが暖房機だけはニンデル経由で売りに出していた。


 アーノルドは自身の領地の村人が昨年薪不足が原因で死んだという報を受けて、それを造ったのが始まりだ。


 この世界の冬は薪がなければ簡単に凍死するような世界である。


 需要が高ければそれだけ売れる。


 それも人間という発電機があれば、いつでも補充することができるのだ。


 ニンデルのおかげでいまのアーノルドは一切お金に困るようなことはないが、金は稼げるときに稼いでおかなければならない。


 金はある意味権力よりも上であるとも言える。


 金なき権力者など商人ですら見向きもしないのだから。


 金のない者に擦り寄ってくるのは詐欺師のような者だけ。


 それにいまやアーノルドの配下もそれなりには増えている。


 自身に尽くす者にひもじい想いをさせるつもりはなかった。


 だからこそ、大金を得れるであろう暖房機を売りに出した。


 だが、暖房機に詰め込まれている技術は誰もが理解できぬ革新的技術だ。


 だからこそ、膨大なまでの問い合わせがニンデルにくるのは予想に容易い。


「当然でしょうね。トライデント魔導王国に唯一抗える手札を表向きはただの商人が持っているのよ? 手に入れない手はないでしょう。あの国の魔道具すら理解できない連中が私たちの造ったあれを理解出来るはずもないもの。研究するだけ無駄ってもう分かっているでしょうね」


 マードリーは考えるまでもないといった態度で、その問い合わせをしてきている者達を嘲弄するかのような笑みを浮かべてそう言った。


 アーノルドはそんなマードリーに対して鼻を鳴らす。


「どうやら王直々にニンデルに言葉を賜わせた国もあったらしいぞ?」


 アーノルドのその声には若干の不機嫌そうな声色が含まれていた。


「それで?」


「その場で断ったと書いてある」


 ニンデルはアーノルドのためならば喜んで死ねる男だ。


 たとえニンデルが死んだとしてもアーノルドがニンデルの家族を必ず面倒を見てくれると確信しているからだ。


 だからこそ、王に自らに仕えぬならば殺すとその場で言われても、ニンデルは首を縦には絶対に振らない。


 そして、そんなニンデルだからこそアーノルドもまたニンデルのことを信頼している。


 断ったかどうかなど疑うまでもないことであった。


「流石ね。普通、一国の王に仕えよと言われてその場で断るだなんて早々できないわよ? 大事にしてあげないと本当に奪われるかもしれないわよ?」


 マードリーは意地悪そうな笑みを浮かべ、アーノルドを揶揄(からか)った。


 だがアーノルドは少し睨むんでいるかのような真剣な表情でマードリーを見据えて返答した。


「当然だ。それに私のものを奪う奴は誰であれ赦すつもりはない」


 その瞳は何よりも真剣味を帯びていた。



 “何者であろうと己のもの一切を奪わせない”


 命も、家族も、尊厳すらも。


 そのためならば喜んで善良なる他者の命をも生贄とする。


 今のアーノルドにはその覚悟がある。


 嘗てのアーノルドは世界の理を何も知らず、ただ正しいことだけが遵守されると信じていた。


 過去の自分ならば、自己のために他者を虐げるなど悪であると断じただろう。


 だが、正しさなどという曖昧なものでこの世の中は回らない。


 嘗ての世界で現実の非情さを嫌というほど体感したアーノルドは、転生したこの世で生きていくために何が必要か悟った。


 力無き者が語れる言葉などない。


 だが、力しか持たない者が語れる言葉もない。


 自分が望む結果を得るためには、それ相応の”力”が必要だと。


「それならさっさとあの商会があなたのものだと明かしてしまえばいいじゃない」


 マードリーはアーノルドの険とした様子に呆れたようにため息を吐いた。


 あの商会の商会長は当然ニンデルであるが、その商会の真の主はアーノルドである。


 マードリーはそれを明かせば少なくとも有象無象が絡んでくることはないはずだと思っていた。


 だがその分、アーノルドを疎む者や権力に目が眩んだ厄介な者達がアーノルドに絡んでくるのは目に見えている。


 だが、どの道そういう貪欲な者達は明かそうが明かさなかろうが、利を得られるならばリスクがあろうと絡んでくる。


 ならば明かす方が武に疎いニンデルが相手をする数が減り、より楽なのではないかと。


 アーノルドに絡んでくるならば殺せばいいだけなのだから、とマードリーは心の中でそう思っていた。


 だが、アーノルドは極めて利己的な理由により自ら明かす気はないのである。


 アーノルドが望むものの一つに安寧がある。


 誰にも侵されることのない安寧だ。


 だが、いまのアーノルドの力程度ではたとえその主人がアーノルドであると明かしたとしてもあの商会を手に入れようとする者が絶対に存在する。


 それほどまでにあの魔道具の存在は価値のあるものだからだ。


 当然それを明かせばアーノルドのところに煩わしい者達が大勢くるだろう。


 それも自分は賢いのだと思い込んでいるような無能ほど行動に移すのは早い。


 自分ならばどうにかなると、何の根拠もない確信を持っているからだ。


 それにまだアーノルドは幼い。


 周りにいる者達ならともかく本人を手玉に取るのは容易いと考える者もいるのだ。


 それに、ダンケルノ公爵家はある意味プライドが高い家門であるとも見做せる。


 もし騙され奪い取られたと後に気がついたとしても、それを認められないだろうと。


 自分を殺すという選択は、アーノルド自身の失態を認めることになるはずだと。


 そうするくらいならば、交渉の末、円満に商会の権利を渡したことにするだろうと。


 あとは自分の素晴らしい交渉能力でアーノルドから商会を奪い取ればいいだけだと。


 そのように常識に当てはめて考える者が当然いるのだ。


 そんな無能の相手などするつもりはないし、アーノルドはマードリーとは逆にその事実を明かせばニンデルの命はより危険なこととなると考えていた。


 (さか)しい者ほどアーノルドではなくニンデルにその矛先を向けるからだ。


 それも手段など選ばずだ。


 いまは誰も主人のいない商会だと思われているためお互いに牽制しあい、いわば誰がより高い値をつけるか、また誰が先に仕掛けるのかというオークションのような状況だ。


 平民の商会長などに実質拒否権などない。


 断られたという王も、ニンデルが懐柔出来ぬとあれば他の策に移行するだろう。


 だが、まだ標的はニンデルにはなり得ない。


 敵は自分と同じく商会を狙っている者であり、ニンデルではないからだ。


 それにニンデルはあくまでも売る者であり、造る者ではない。


 造る者に辿りつかない限りはニンデルに利用価値があるため殺される心配は非常に低い。


 よほどの馬鹿でない限り殺すなどという選択は取らないだろう。


 むしろ誰かが衝動的に殺そうとすれば、他の見張りどもがそいつを処理してくれることは考えるまでもない。


 だが、アーノルドという主人がいるのならば、話は別だ。


 もはや自分のものになることはないのは必定。


 ただの貴族であるならばともかく、アーノルドの悪名はここ数年でそれなりに知れ渡っている。


 それを知る王や高位貴族ならば、アーノルドが譲らぬことくらいすぐにわかるだろう。


 そうなれば、もはや誰が先にその魔道具を造っているのかという情報の入手、そしてその職人の拉致という趣旨に切り替わる。


 アーノルドを害するより、ニンデルの方が簡単なのは言うまでもないことだ。


 魔道具を造る者さえ手に入れてしまえばあとはこっちのもの。


 魔道具の製作方法はいまやアーノルドと敵対しようとも手に入れるべき代物なのである。


「くだらん小蝿共を処理するには正体を隠している方が都合がいい。こちらに小蝿が群がってきても面倒だしな」


  アーノルドは一応ニンデルの安全も考えた上でそう決断していたのだ。


 あれから数年は暗殺者や毒殺といったことがアーノルドの身に降りかかっていた。


 最初は訓練にもなり、一石二鳥といった感じであったが、次第にアーノルドの成長に対し、暗殺者の質が追いつかなくなり、もはやアーノルドの近くまで迫ることすらなく殺される有り様となっていた。


 煩わしくなったアーノルドはこの国の暗殺者を全て殺す勢いで狩り尽くし、その元締めのような者を捕らえにいった。


 首謀者はおそらく第一王子を害されたことでアーノルドを恨んでいるこの国の王妃一派と思われるが、証拠もなく、暗殺者の矜持からか最後まで首謀者を話すことはなかった。


 それ以降暗殺者もアーノルドを恐れてか、襲撃される頻度も極端に減り、今では全く来なくなったと言っても良いほどだ。


 だからこそ、せっかく落ち着いたというのに、また周囲を煩わしくするのは避けたいというのも本音だ。


「しかし、普段は貴族が商会を持つなど貧者の思考だと揶揄するくせに、こういうときには群がってくるのだな」


 アーノルドはニンデルの手紙に書かれている接触しようとしてきたリストの中にこの国の貴族があるのを見てそう口にした。


 ハルメニア王国の貴族は基本的に自分自身の商会を持つなどということはしない。


 それは自身を下々の者達と同じ土俵に置くことになるからだという理由らしい。


 だからこそ、貴族達は商人達を使うだけで商会を所有することはないのだ。


 それに、何もしなくても商会のほうが貴族達にすり寄り、ご贔屓に、と賄賂を送ってくる。


 むしろ贈らなければ、生意気だ、と不興を買い、その領地で商売など出来ないそうだ。


 だがニンデルに送られてきた手紙には、後ろ盾になってやると書かれていたらしい。


 だがその代わり、とお決まりの文言が書かれていたそうだ。


 中には高価な贈り物を添えているような貴族もいるらしいが、全て送り返しているらしい。


 暖房機を売り出せる商会長も狙いだろうが、それよりも本命は暖房機を造った職人、そしてそれを可能にした研究者を独占するのが目的なのは見え透いている。


 これから確実に利益を生み出す金のなる木であり、魔道具製作を独占しているトライデント魔導王国に対抗できる黄金だ。


 逃す手はない。


 むしろ貴族としての体面すら捨てて群がってくる様には感動すら覚えるとアーノルドは冷嘲した。


「仕方ないわよ。いまやあの国の魔道具がこの世界を支配していると言ってもいいほどだもの。それに対抗するためならば貴族としての体面なんて安いものでしょうね。手に入れれれば、まさしく王にすら匹敵する、いえそれ以上もの権力を手に入れれる手札ですもの。誰であれ独占したいと思うわよ。だからこそ気をつけなさいよ。ニンデルは一般人なんだもの。思わぬことで足元を掬われるかもしれないわよ?」


 どれだけ対策しようが、想定外のことは起こり得る。


 それゆえの忠告であった。


 アーノルドもニンデルの商会や従業員それぞれに当然護衛をつけている。


 元々、ここ最近急激に勢力をつけた新進気鋭の商会である。


 妬みや逆恨みもあるのだ。


 特に前まではまったく上手くいっていなかった弱小商会である。


 そういった商会が突然羽振りが良くなって喜ぶような者はいない。


 現にニンデルはアーノルドに出会う前にそれで一度死にかけている。


 商人にも勢力圏といった利権争いのようなものがあるからだ。


 自身の場所を荒らされて黙っているような者などいないだろう。


 併合して乗っ取ろうとしたり、他国では貴族がパトロンになってやるから便宜を払えなどという横暴もよくある。


 事実上の乗っ取りである。


 だがそれが当然の世界だ。


 そのまま乗っ取られるだけならばまだ良い方であり、自身の利益のためならば、商会長を拉致し、拷問して情報を搾り取った後に殺害し、そのまま商会を乗っ取ろうとするような者も存在する。


 大商会などと言われるような者達の中でもそういった悪どい者は本当に多いのだ。


 法などあってないような世界だ。


 それが倫理観など希薄なこの世界ではそれが最も簡単に成功できる近道である。


 だからこそ商人にとっては情報が命である。


 危険地帯を避けなければ待っているのは“死”という結末だけ。


 いまのニンデルは貴族だけでなく、ただの平民から裏社会の人間など全てが敵に見えるだろう。


 だが、泣き言一つ言わないどころか従順な犬のように今か今かとアーノルドの命令を待っている。


 当然アーノルドもそのような者を無碍に扱うつもりはないし、替えの効く人物であるとも考えていないため手厚くサポートしている。


 ニンデルもアーノルドの信頼にたる臣下の1人なのだから。


 それにニンデルも馬鹿ではない。


 もし仮に他の貴族に靡いてついていったとしても、魔道具の情報を聞き出した後は本当の意味で独占するために謀殺されるのは目に見えている。


 独占とは知る者が自分だけだから出来るのだから。




「いつ出発するの?」


 一通りの作業が終わった後にマードリーがそう尋ねてきた。


 トライデント魔導王国の学院には受験があるため、受けにいかなければならない。


 レイとザオルグは既に出発したという情報が入ってきていたが、アーノルドはいまのこの作業をできるだけ済ませたかったためギリギリまで粘っていた。


「明日だ」


「そう。なら私は一旦故郷に戻るわ。久々に師匠にも会っておきたいしね」


「そうか。いつ戻ってくるつもりだ?」


 アーノルドは自然にそう聞いたが、マードリーはその言葉を聞いて少しばかり口元が嬉しげに緩んだ。


 戻ってくるときを聞くということはアーノルドがマードリーに戻ってきてほしいと願っているということ。


 最初に会ったときの険とした様子からは随分と丸くなったなと感動を覚え、薄っすらと口元に笑みを浮かべていた。


「いつになるかはわからないわ。でもそんなに遅くはならないつもりよ。1年くらいかしらね。どうせ、向こうですぐに研究設備も整わないでしょ?」


 トライデント魔導王国の学院にここから通うわけにはいかないため、設備の調達は必須だった。


「そうだな」


「ええ、じゃあ当分はお別れね」


「……精々気をつけろよ」


 ここ4年間、マードリーはずっとアーノルドのところにいたのだ。


 一応マードリーは教会に命を狙われている身。


 そう易々と死ぬとは思えないが、こんな女でも世話になった身だ。


 自然と心配するような言葉がアーノルドの口から出た。


 マードリーは一瞬呆気に取られたような顔をしてクスッと笑った。


「私よりもあなたでしょう? どこに行っても何かしらトラブルに巻き込まれるのだもの」


「違いない」


 マードリーはもう一度クスッと笑うと「じゃあね」と言い、この部屋を出て行った。


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