63話
「なんだろうここは?」
ロキが扉に入ってまず目に入ってきたのはただただ、だだっ広い空間だった。
10000人は入れるかという凄まじい広さの空間が目に入り、その奥の真ん中に上に登る階段が続いていた。
今まで入ってきた部屋とはまた違う豪華さ、抑えられた豪華さとでも言えばいいのか、実に潚洒な部屋であった。
その広さからダンスホールのようでもあり、この部屋が纏う雰囲気から謁見の間のようにも見える。
だが、何にしろ広すぎる。
人の気配もしない。
ハズレだったかと、ロキがこの部屋を改めて見渡そうと階段の下の方から上へと視線を上げていった。
だが、それも突然体に襲いかかった怖気によって途中で止められた。
そして次の瞬間ロキは自身の軽率さを恨んだ。
「——誰の許しを得て俺を見上げようとしている?痴れ者が」
その言葉を聞いた途端、ロキは無意識に床の上で平伏する姿勢を取らされていた。
人間の生存本能がロキにそうさせたのである。
平伏している床が冷たいのか、体が寒がっているのか、ロキの体は一瞬にして底冷えしてしまっていた。
このまま寒さで死ぬほうがまだマシかもしれない。
それほどいまロキを襲う殺意もないただの重圧が恐ろしくてたまらなかった。
だが、無情にもここの主人はロキに声をかける。
「この俺の領域に無断で侵入し、あまつさえ我が城を弄ろうなどとは・・・・・・よほど死にたいらしいな愚物めが」
言葉の重みに対して怒りの感情は見えない。
だが、それも当然だろう。
虫けら相手に本気で怒るような王など、神など、存在しないだろう。
本物の強者は弱者に怒りの念を抱いたりしない。
軽蔑や嘲笑を浮かべるだけだ。
同じ舞台に立つだけでも屈辱ものだ。
闘争とは同じレベルの者達の間でしか成り立たない。
だからこそ真の強者が弱者に対して怒りという闘争の念を抱くことはない。
戯れを除き、自ら舞台上に降りてきたりはしない。
(馬鹿な・・・・・・!ああ———、これは予想すらしていなかったよ。最悪だ・・・・・・)
ロキは息すら出来ないような凄まじい重圧感に襲われていた。
そして弁解しようと口を開こうとしたのだが、更に重圧が強まり話すどころではなかった。
一瞬でも気を抜けば即座に気絶するであろうことは確実であった。
それほどまでに隔絶した力の差がある。
この存在の前でそんな粗相をすれば間違いなく終わりだ。
心臓の音がやけに騒々しい。
吐き気すらしてきた。
まさしく血の気が引いた状態になっているだろう。
「許可なくしゃべろうとするでないわ。久方ぶりの客かと思い、待ってみれば・・・・・・、自らここに辿り着けすらせぬ凡俗とはな。その上、鑑賞するだけならばまだしも、我が城に手を加えようなど・・・・・・、分を弁えよ」
ロキは久方ぶりに冷や汗と動悸が止まらなかった。
姿すら見ることが出来ぬ声の主人が話す一言一言がロキの心の臓を抉り取っていく。
恐怖とはこういう感情であったなと、まざまざと思い出さされた。
(まずいな・・・・・・。これは勝てる勝てないの次元じゃないな。なんだってこんなところに・・・・・・。死神を呼び寄せたことで次元が交差でもしたのか?)
ロキにはこの威圧感に身に覚えがあった。
かつてロキが死を覚悟したあの時。
(死神と契約した時の威圧感。それよりも更に上だ。あのときあのまま見上げていれば死んでいただろうね。というよりいつ死んでもおかしくないな、ハハハ)
もはや乾いた笑いしか出てこなかった。
人間などがどうあっても抗えぬ存在。
ロキが死神と遭遇したのも偶然であった。
そのときもこのようにひれ伏すことになったのだ。
あれを前に平伏さない者などいない。
ロキが現界させた死神はいわば仮初の体。
本体ならばあの比ではない。
だが、この存在の前ではあの程度の経験は無意味であったなと自嘲した。
明らかに死神とはまた違う強烈な死の気配。
死の王という言葉が似合うが、死の神と呼ばれる死神よりも箔が弱いのはいただけない。
ロキがここに入った時に何故気づけなかったのだと思うほどの濃密な、そして空間が慟哭しているかのような憤怨と厭世の気配。
話せる理性があるだけまだマシと言うべきか———。
(あの死神なら時間稼ぎくらいは出来るのか?僕が戦うなんて選択肢はありえないね)
まだこんな馬鹿なことを考えるだけの余裕はあった。
だが、その心の余裕すらも次の一言で消し飛んだ。
「死神如きと俺を同列で語るとは・・・・・・そこまで死に急ぎたいか?」
不機嫌そうな声が、いやむしろ、もはや不機嫌なのかどうか分かりさえしない声が、平伏すロキの背中に圧力となってのしかかった。
(こ、心が読めるのか?ま、まずい・・・・・・っ)
ロキの表情が崩れ、背筋にゾクっと冷たいものが走った。
本気でまずい。
もはや声だけでもロキを殺せるであろう目の前の化け物相手に、逃げる逃げない勝つ負けるなど考える意味もない。
さらに心が読めるということは下手なことを考えればアウトである。
本当の意味で無心など出来ようはずもないし、もし出来たとしてもこの存在の前でそんなことをすれば間違いなくそのままお陀仏だろう。
王や神を前にして放心するなど不敬以外の何物でもない。
この空間で死んだとしても現実のロキが死ぬとは限らない。
本当にロキの術の中ならば死なない。
だが、もはや自身の術の中とは思えなかった。
もう詰んでいるのである。
ここに入った時点で、いや、この空間の中に入った時点で。
相手の気分次第。
久しくなかった完全に命を他者に握られている状態だった。
そして未来がわからぬ状態にロキの心は体とは正反対にウキウキとしていた。
欲情していたと言ってもいい。
ロキもまた本当にイカれているのである。
そしてだからこそ、あの死神と契約できたのである。
「ほう?この状況に愉悦の感情を浮かべるか・・・・・・。愚物風情が随分思い上がるではないか」
当然実際に表情に出したわけではない。
だが、目の前の存在相手に心を隠すことなどできない。
心の有り様がこの状況を楽しんでいると、ありありとこの存在に伝えていた。
「良いぞ?その程度の肝魂も持たぬものが我が視界に入ることなど許されぬからな。喋ることを許してやろう。この俺を前にして笑みを浮かべた褒賞をくれてやる」
王の中の王とでも言うべき存在か。
なるほど、確かに王に直言するなど褒美でもなければ許されるはずもないか。
それはたとえ神であろうと変わらない。
「では、僭越ながら。この度はこのような褒賞を戴き恐縮至極に存じます。並びに貴方様の居城へと無断で侵入してしまったこと深くお詫び申し上げます」
ロキは決して顔を上げずに、そして敬意を示しながらそう言った。
吃ることもなく、噛むこともなくスラスラと。
こういうところは流石の度胸である。
「まぁ、良いか。だが、足りんな。貴様の契約する死神とやら呼べるのならば呼ぶといい。久方ぶりの客だ。貴様のような凡俗を食らおうが何の腹の足しにもならん。その死神とやらならば暇つぶしにはなろうよ」
心なしか声の主人がニヤニヤと笑みを浮かべているような気がする。
だが、ロキの体に僅かに力がはいった。
相手は暇潰しをしたいと所望した。
しかし、ロキに死神の本体を現界させる力などない。
そもそもこの領域すら何なのかわかっていない。
そして何よりこの暴虐の主人の望みを叶えられないとなれば、どうなるかわかったものではない。
だが、ロキのそんな焦りとは裏腹に、嗤笑の笑い声がこの空間に響き渡った。
今のロキにはそれすら不気味である。
「そう身構えずとも良い。ただの冗談だ。貴様如きにそのようなことなど期待するわけがなかろう。たかだか貴様如きが俺を楽しませようなどという思い上がり、いっそ不敬ですらあるぞ?」
無茶苦茶である。
だが、その無茶苦茶すら罷り通るのが強者の特権、王の権利。
「城への侵入といい、手を加えようとしたことといい、あまつさえこの俺を嘱目しようなどと、身の程を知らぬ者というのは度し難いな。だが、人間とは間違える生き物であるということを俺は知っている。それに愚物風情に粗相をされた程度で激怒するほど狭量でもない。ゆえに、1度の間違いは許そう。1度はな。だが2度目はない。せいぜい賢く生きよ」
その言葉を最後にロキの視界がブラックアウトした。
「—————」
消えゆく意識の中、ロキは何か言葉を聞いた気がした。
ロキの意識が完璧に無くなった後、その存在が手を無造作に振ると、もはや意識もない抜け殻でしかないロキの体は切り刻まれ、跡形もなく消え失せた。
そして男は玉座から立ち上がるとそのまま不機嫌そうにどこかに消えていった。
――∇∇――
「っは⁉︎」
ロキの意識が現実世界へと戻ってくると同時にロキは浮遊魔法を保てず地面へと墜落していった。
ロキを持っていたはずの怪物達は恐れ慄いているかのようにロキから一定の距離を取っていた。
ロキが落下していくのを見ていたクレマンは既に目覚めているパラクとメイリスにまだ目覚めぬアーノルドを任せるとロキの元へと駆けていった。
そしてクレマンが見たものはロキが地面に手を突き吐いているところであった。
あのロキが吐くほどひどい光景を目の当たりにしたのかと思い、すぐに駆け寄り声をかけた。
「大丈夫ですか?」
ロキは極度の緊張状態から解き放たれたことで盛大に吐いていた。
あの存在と直面していたときはなんとか気丈に振る舞っていたが、それが解かれたいま、もう我慢などできなかった。
ロキはチラリとクレマンを見たが、はぁはぁと息を吐くだけでそれに応えることはない。
答えられるだけの余裕もない。
正直今すぐ気絶しても良いくらいだ。
見ていただけのロキがこれなのである。
それを実際に体験したアーノルドは大丈夫かと心配になり戻ろう踵を返した。
ロキが現実に戻ってきたということはアーノルドの試練も終わったということだろうと思ったからだ。
だがそれは、ロキがクレマンの服を掴んだことで阻止された。
「・・・・・・話せますか?」
アーノルドのことは心配であるがパラクとメイリスの2人に任せている。
クレマンが戻ったところで出来ることなど大して変わらない。
ならば、クレマンも実力は認めているロキがこんな状態になった理由を知ることが先決である。
それほどまでにアーノルドが抱えるものは業が深いのかと。
アーノルドへ駆けつけたい気持ちをグッと堪えて、それを聞くことを優先することにした。
「まず・・・・・・、結論から言うと・・・・・・。アーノルド様の世界には入れなかった。いや、入らせてもらえなかったのかもしれない」
震えるような声で話すロキの言葉を聞いたクレマンの表情が困惑げに歪んだ。
ロキの能力は発動してしまえばそれこそ必中であり、その術の中では術者が神に等しい権限を持つといってもいい。
入れないなどというのは最初の段階で術を弾かなければ基本的にはありえないのだ。
精神世界に入ってからロキを拒絶することはクレマンですら出来ない。
そもそも神を人が認識することなど出来ないのだから。
実力がクレマンよりも不足しているアーノルドならば尚更である。
だがそれならば、入ることができなかったロキはなぜこれほどまでに疲弊しているのか。
見たところ肉体的なダメージはない。
精神力でいうと目の前のロキはかなり上の方である。
何があろうと動じず、ふざけた態度で余裕がある。
例えどれだけ傷つき追い詰められようと、その片鱗すら見せない狂気を持っている。
だが、今のロキにはそれが全くない。
常に被っていた表情という仮面すらも落ちてしまっている。
アーノルドの精神世界に入れなかったのなら、なぜそんなことになったのか。
クレマンは緊急事態であると判断した。
ロキほどの者を追い詰める敵がいるのならばそれに備える情報はとても大事なのである。
それも現実ではなく術の中、精神世界の中でなど尋常ではない。
「アーノルド様は——」
ロキが喋ろうとしたその瞬間、ロキの周囲に漆黒の魔法陣が展開した。
血の色を連想させる真紅の色を放ち始めた魔法陣を目にしたクレマンは瞠目し、顔を焦りに歪ませ即座にその場から飛び退いた。
ロキを起点にした魔術の律動である。
「っ⁈」
そのときロキの脳内にあの存在から言われた言葉が再生された。
——『それに愚物風情に粗相をされた程度で激怒するほど狭量ではない。1度の間違いは許そう。1度はな。だが2度目はない』
そして走馬灯のようにその言葉を思い出している間に魔法陣は消えていった。
「い、今のは・・・・・・」
クレマンが額に汗を浮かべながら消えた魔法陣を思い出していた。
魔法陣というのは魔法それぞれに固有の文字、固有の魔術回路で描かれているものである。
理論上その文字を読み解けば相手がどんな魔法を使うのか読み取ることができる。
だが、その文字は未だに解明しきれていない。
解明されているのはほんのさわり部分だけ。
それ以外はまだ未知の領域だ。
だが、クレマンは復讐のために努力を惜しまなかった人間である。
未知の部分も自分なりに解釈し、地雷魔法のようなありふれた魔法陣ならば読み解けるようになっていた。
しかし、そのクレマンをもってしてもいまの魔法陣を読み解くことはできなかった。
とても異質で不吉な気配がした魔法陣。
更にはクレマンが見たこともない文字で書かれていた。
ひとまず安全であることを確認したクレマンは再びロキの所へと戻っていった。
「クレマン様。アハハ・・・・・・、しくじったみたいです」
ロキはべっとりと汗をかき、力なく笑うロキには普段のような余裕など無く、諦念を滲ませたような表情をしていた。
クレマンもそんなロキを見て察した。
「話さないではなく話せないなのですね?」
ロキはこくりと頷いた。
言われるまでもなくありありとわかった。
あれはある種の呪いだ。
不言の誓約の呪い。
魔法陣は読み解けなかったが、それに込められた怨情はクレマンをして震駭せしめられた。
その一端に触れただけでも、体の強張りが取れない。
「わかりました。おそらくあれほどの魔法陣を使えるとなると、どのような手段を用いようと無駄でしょう。それはたとえあなたの命と引き換えにしようとおそらく得られない情報でしょう。あなたが胸に秘めておき、必要な時にあなたが動きなさい。いいですね?」
他の者が情報を得られないのであればその情報を唯一知っているロキがどうにかするしかないのは自明である。
話せなくとも動くことで間接的に伝えることも出来る。
だが、それすらもトリガーになる可能性があるため慎重に事を進めなければならなかった。
あれは最悪の場合、周囲すら巻き込む恐れがある。
先ほどは術が発動し切らずに魔法陣が消えたが、話すのをやめた途端消えたことからもまるで警告のようであり、2度目は話すのを止めても魔法陣は消えないかもしれない。
どう足掻いてもいまそのような危険を冒すことは絶対にできない。
「・・・・・・あの存在を相手にどこまで出来るかはわかりませんけどね。・・・・・・まぁ、やれるだけはやりましょう」
ロキは最初あの存在をアーノルドに全く関係のない存在であると考えていた。
だが、入ったのはアーノルドの世界のはずであり、それと最後にロキにかけられた言葉———いやただの独り言かもしれないが。
その言葉からもしかするとロキと死神との契約関係のようにアーノルドもあれと契約を結んでいるのではないかとロキは考えた。
ロキが契約を結んでいる死神は神とついているが実際には神ではなく亜神と呼ばれるものである。
神には劣るが人の世では過ぎたる力を持つものを亜神と呼ぶ。
そうしたものは知性を持っており運が良ければ契約することができる。
運が良ければというのは、出会えればではなく、殺されなければ、である。
もちろん殺されなかったからと絶対に契約できるというわけでもないので単純に運というのも正しいかもしれないが。
死神も亜神の1人であり、ロキが偶然巡り合い契約に至った存在であった。
しかし基本的に亜神は契約だけしてその後は関わらないことがほとんどである。
そもそも亜神はこの世にほとんど存在しない。
異なる次元に住む生き物と言っていい。
だが、今回通ってきたフォグルの森の奥深くにも亜神の1人が暮らしている。
あの森を荒らさぬ限りは基本的に無害であり、国と契約を交わしていることからもそれなりに温厚で知性のあるものである。
だからこそアーノルド達はあの森で極力暴れることを避けていた。
深層に行かなければ基本的には大丈夫であるが、それでも万が一があるためだ。
だが、絶対的な力を持つ亜神らが、たかが人間などいう矮小な種族に興味などない。
大抵は遭遇した瞬間に殺される。
人間が虫を殺すのと同じように、周りでウロウロしていたならば駆除しておこうとするようなものである。
異なる次元に住めるような亜神がアーノルドの精神世界を住処にしているということはあり得ないわけではなかった。
特に契約しているのならば繋がりが出来るため、より容易になるだろう。
ロキが契約している死神は亜神の中でも戦闘力でいえばほぼ最高峰のクラスに位置している。
生命を司っているのである。
ロキの能力も生命力を司る能力であるためかなり相性も良く、強力な亜神である。
それを軽々と超越するような存在が早々いるとは思えなかったが、あの宮殿内だけでの話ならばそれも確かに可能となる。
あらゆる能力は縛りが強ければ強いほど、発動が困難であればあるほど強くなる性質がある。
あの領域内だけならば、自身が定めた領域だけならば、神にも到達するほどの力を手に入れることも可能なのではと考えていた。
だが、その考えは先程の魔法陣で崩れ去った。
あれは明らかに領域外でのことだ。
何をしようが逃れられないと、抵抗の意思すら消滅させる異彩を放っていた魔法陣。
その禍々しさは上にいる超常の存在である死神に頼んだとしても解除できたのかわからなかった。
クレマンが目を細め、覚悟を決めた顔をした。
「あとは私がやります。あなたは休みなさい」
今にも倒れそうなロキに対してクレマンは休むように指示した。
「申し訳ありません・・・・・・」
ロキは最後の役目をやり遂げたと気を抜いた途端に気絶し地面に倒れたが、地面から突然生えてきた骨の手が地面の中へとロキを吸い込んでいった。
そしてロキが気絶したことで全員にかかっている術が強制的に解け、死神と化け物どもが空の裂け目から引き上げていった。
空間が裂かれていた空が何事もなかったかのように戻っていく様子をクレマンは静かに見ていた。




