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花の記憶

 

 溢れるほどに花が咲いていた。

 それだけは、今も心に忘れがたく刻まれている。


 微笑む少女。

 月と花が美しかった。

 そこでなにか、彼女は男に大切なものをくれたのだ。


 狂気の濁流に呑まれ、曇りゆく意識。

 ……もう心の中ですら辿れぬほどに、その情景も今は遠い。



 ―――


 久々に美味い飯を食ったので、俺は食事に夢中になってしまった。

 それでつい話に耳を傾けるのをおろそかにしてしまっていたらしい。


「ロクさん、聞いてますか?」


 そのむっとしたような声の追及を、俺はへらりと笑ってかわす。


「……へへへ」

「へへへじゃありませんよ。あなたが聞かなければ私の話は独り言になってしまうんですからね」


 よく朝日のあたる場所に置かれた、食事が並べられている木のテーブル。

 俺の対面に腰掛けたセレスは、すねたような半目で俺のことを見つめていた。


「神様は聞いてるんじゃねぇのか?」

「神様はお忙しいのです。祈りならともかく、与太話になど耳をお傾けにはなりませんよ」


 裂かれたベールも新調して、それからなによりいくつもの安宿を経てようやく少しだけいい宿に引っ越せた。

 俺たちはそれを祝うために、宿の食堂から食べ物を持ち込みささやかながらお祝いをしているところだった。


「いや、そんなことないだろ」

「どうしてです?」

「俺が神様なら、祈りばっか聞いてたら絶対疲れると思うから」

「……はぁ」


 俺の言葉にセレスはため息を吐き、大きな長パンを二口分ほどゆっくりと咀嚼して口を開いた。


「いいですか? 世界をお作りになられた後神は千年の苦行を経て……」

「やめろ」

「なぜですか」

「魔人は難しい話を聞くと、死ぬ」

「ふふふ。調子のいい人ですね」


 笑いながら、セレスはさじでスープをすくう。

 それからそれを口に運ぼうとして、スプーンを取り落とした。


「おい、大丈夫か?」


 腰を浮かせた俺を、セレスは左手を突き出して留める。

 そしてポケットからハンカチを取り出し、ゆっくりとテーブルを拭く。

 さいわいスプーン一杯分なので大した手間もなくそれは終わった。


「右手の指がですね、最近。……その、ちょっとだけ震えるんです」

「…………」


 言いにくそうに、あるいは申し訳なさそうにして俺に目も合わせずにセレスはそう言う。

 俺はなにも答えることができないまま椅子に腰を落とし、泥の触手に変わったセレスの右手のことを思い出す。


「……そうか」


 やっとのことでそう言うと、セレスはいつものように明るく微笑んだ。


「まぁ大したことではありません。今はお祝いをしましょう」

「ああ」


 一つ頷く。

 それから俺は自分の皿の厚切りの肉にフォークを刺しセレスの皿に運んだ。


「やるよ、これ」

「わーい!」


 ―――


 俺たちが滞在する街の名は、ルージアという場所だった。

 そこは奪われた神殿の街……アルデシアにほど近く、奪還作戦の拠点となる場所である。

 つまりは使徒ザリド様の念願叶ってということで、まぁ全く喜ばしい限りだな。


「どうしました? なにか嫌なことでも?」

「別に」


 顔色を読まれたのか、横を歩いていたセレスがきょとんとした表情で俺の瞳を覗き込んでくる。


「おいあんた、ちゃんと周り見とけよ。それに、前に立たれると俺も困る」


 今俺たちが歩いているのは魔物の領域、泥に覆われた平原だ。

 日が高く出ているはずなのに霧に覆われどこか薄暗くあたりを覆う空気にもどこか悪意が滲むような、そんな場所。


 だから警戒を怠らないように言うと、セレスは申し訳なさそうに眉を下げる。


「ああ、すみません」


 そう答えて俺の横に収まったセレスは、こちらの気も知らずになおも呑気にため息を吐く。


「いけませんね。あなたといると、どうもお出かけ気分になってしまいます」

「何言ってんだか」


 どこか間の抜けたセレスの言葉に俺は呆れて、しかし視線は前から外さない。

 できるだけ早く敵を見つけて、可能ならば彼女が出るまでもなく済ませたかったから。


 ―――


 魔物を倒しつつ歩を進めた俺達は、やがて城壁が崩れたある大きな街を見下ろせる崖に差し掛かった。


「あれがアルデシアね……」


 俺がふと呟くと、セレスが眉を下げて声を漏らす。


「しかし本当に……聖都の一角が、魔物の手に堕ちるとは……」


 セレスの言葉の通り、まさに街は『魔物の手に堕ちた』と言うしかない有様だった。

 どこかがっしりした印象を受ける石造りの建物の群れは多くが崩れ、また汚らわしい泥が付着している。


 そして人一人としていない街の中には、大小様々数える気にもならないほどの魔物たちが闊歩している。

 なにより遠目にも大きく見える大神殿の屋根には、ひときわ巨大なミミズというか釣り餌のワームというか……そんな魔物が圧倒的な存在感をもってうねっていた。


 ……二十メートルはありそうだが……もしかすると今度は、あれと戦うことになるのだろうか?


「それにしても、あまりに数が多すぎますね」

「ああ。……目分量だが、一万ってとこか?」


 数える気にならないにしても、数えなければ偵察が成り立たない。

 だから遠目に見える魔物の数をなんとか推測したのだが、口に出すと暗澹あんたんとした気持ちにならざるを得ない数だった。

 あの街にいる魔物の全てがスライムだとか、そんな舐めた話はあり得ない。というか見て分かる。

 恐らくはただの人間なら百人で戦わなければならないような魔物もわりかしいるはずで、しかもこちらの使徒は二人なのだ。

 否が応でもセレスを酷使しなければならない、厳しい戦いになるのは簡単に予想できる。


「……ロクさん」

「なんだ?」


 不意に呼びかけられて、俺は答える。


「どうかしたのか?」

「あまり、無茶をしないでくださいね。あなた、私のたった一人の友だちなんですからね」


 冗談めかしてそんなことを言うセレス。

 俺はそれに何も言わず、ため息を吐いて背を向ける。


「もう十分だろ。戻ろうぜ」

「はい」


 ちょっと微笑んで、セレスは俺についてくる。

 俺はそれを確認して、注意深く周囲に気を張りつつ歩きだした。


 ―――


 ルージアの街は、あまり活気のない街だった。


 今や魔物の巣窟であるアルデシアに近くなったことで、それに伴う魔物の数の増加の影響をモロに受けているからだ。

 城壁にも数え切れないほど穴が空き崩れ、処理しきれない魔物の死体が泥の重なりのようになって街の外の地面にへばりついている。

 流石に街の中にまで被害は及んでいないものの、物資の困窮や精神的負荷によって夕暮れの街を歩く人々の表情は一様に暗く陰っていた。

 こんな状況だから当然街から抜け出す市民も多かったそうなのだが、今はまだ使徒がアルデシアを取り戻すと信じる人たちの手によりなんとか街の機能は保たれているらしい。


 夕暮れの人気のない街道を歩きながら、小さく伸びをしたセレスが深くため息を吐く。


「今日も疲れましたね」

「ああ、そうだな」


 俺たちの仕事は決して偵察だけではない。

 作戦の着手に先駆けて、できるだけ魔物の数を減らしておくこともまた厳命されている。

 だから今日も数え切れないほどに魔物を殺してきたのだ。


「あんた、これからどうするんだ?」


 俺がそう問いかけると、セレスは口をへの字に曲げて少し言葉を詰まらせる。


「……偵察の報告も兼ねて、クロード様たちのところに伺うつもりです」


 そう言うセレスの表情は、前よりもずっと無理をしているのが分かりやすく現れていた。


「……報告なら、俺もいたほうがいいだろ」

「失礼な。それくらい、私一人でもできますよ」

「でも」


 しかしそれでも、セレスは頑なに俺を連れて行こうとはしなかった。


「いいんです。……本当に、大丈夫ですから。それじゃあ」

「…………」


 気丈に笑うセレスに押し切られて、俺は結局踏み込むことはできない。

 分かれ道の先に進む彼女の背を、ただ見送ることしかできなかった。


『あんたは、あんたは悪魔の子だ。だから育てたんだ』


 そこでふと、そんなしわがれた老婆の声が脳裏に蘇る。

 もうずっと昔の、近頃は思い出すこともなくなっていた言葉。


「…………」


 そんなものを今さら思い出してしまった俺は、多分恐れていた。

 戦役が終わって、セレスはきっと普通の日々に帰る。


 そうしたら俺は忘れられてしまうのかもしれなくて、だから俺はあと一歩、どうしてもセレスの方に踏み込めずにいた。


 ―――


 一月ぶりの休日、すなわち安息日の昼の前頃。

 人々は皆教会に消え、静まり返った宿の中で俺はセレスに文字を教わるため部屋のテーブルに向かっていた。


「今日はここまでにしましょう」

「ああ」


 隣に座るセレスが広げていた本を閉じて、だから俺は先の尖らせただけのインクも何もないペンを置く。

 そして蜜蝋を固めた筆記板に刻んだ文字を見下ろしてみる。汚かった。


「ロクさんは、中々スジがよろしいですね」

「比較対象は修道院のちびっこか? 気が滅入るからやめてくれ」


 セレスの賛辞に、俺はげんなりとそう返す。

 しかし、彼女は心外だと言うように首を横に振った。


「いえいえ。ちびっこの吸収力は、まさに乾ききった真綿のようなものと言えます。侮ってはなりませんよ」

「……そうか」


 そう答えつつも、俺は内心参っていた。

 どうも文字というものは、大変難しいようなのだ。


 遥か昔に魔物という絶対的な悪を迎え、戦いを重ねる中でこの大陸からいつしか国や民族という概念は消え去り、やがて一つの人類というくくりが生まれ今の世の中の形が生まれた……らしい。

 そしてそれにより文字やら文化やらも無秩序に混ざり合い、日常生活だけならまだしもまともに本を読むためには三種類の文字を覚えなければならなくなった。

 何故ならそれは三つの文字を組み合わせて文が紡がれているからであり、よって文字を覚えるということは、一番簡単な文字しか読めない……書くことはできず読むことしかできなかった俺には大変な苦行なのだ。


「俺、なんでこんなことしてんだろなぁ」


 ぼそりと呟き、ろう板を脇に置く。

 全く上達しない、忌々しい文字を見ていたくはなかったのだ。


「どうしてそんなことを言うのですか」


 いっそ不思議だと言うように首を傾げる彼女に、俺は深くため息を吐いた。


「別に俺、読みたいものとかないんだ」


 その辺の民草の間では最も平易な文字しか使われないし、それだって読めれば事足りる。

 生きるために限定するなら、文字を覚える必要などは全くなかった。


「そうなんですか? では戦役が終わったら、私がいろいろと紹介してあげましょう」


 にこにこと口にする彼女に、俺はまたため息を吐く。

 すると不意に表情を陰らせて、セレスはおずおずと語りかけてきた。


「……あの、迷惑でしたか?」

「は?」

「いえ、その……。元々、むりやり始めてしまいましたから……」

「……別に、迷惑とかじゃねぇよ。使えりゃ便利なのは間違いないしな」


 そんな言葉を返して、それから俺はわしわしと頭をかいた。


「まぁ、ちょっと上手く行かないから嫌になっただけだ」

「ゆっくりでいいんです。ロクさんの人生、まだまだ先は長いんですから」

「なんだそりゃ」


 不意に年寄りのようなことを口にするセレスに俺は苦笑する。

 すると彼女も歯を見せてすくりと席を立った。


「では参りましょうか」


 そう言ってびしっと部屋の出口を指差すセレス。


「参る? どこにだ? やめとけ」


 突然妙なことを口走るセレスを、俺は訝しむ。


 大体、まともな市民の大半は家を空け教会に出向く安息日だ。

 あまりうかつに外に出れば、街を見回る憲兵に空き巣扱いされるのがオチだろう。

 しかしセレスは、わりに頑なな決意を固めているようだった。


「いえ、行きましょう。私、ピクニックしたいんです」

「うーん……」


 俺は再三ため息を吐いて、しかし今度はそう憂鬱でもなかった。

 どう転ぶかは分からないが、ただ家に引きこもるのもつまらないしな。


 ―――


 繰り返すが、今日は安息日だ。

 宿にも店番の主人しかおらず、飯を食えるような場所もほとんど全てが閉まっている。

 だから明日の食事にと、俺とセレスで昨日の内に買い込んだパンやらなんやら。

 それらをバスケットに収めて俺が持ち、それから二人で宿を出ることにする。


「…………?」


 安息日だというのに教会に行っていなかった俺たちを怪しむように主人が視線を向けてきて、けれど追求の言葉までは放たれなかった。

 それをいいことに俺たちは早足に宿から出て、人気のない街道に足を踏み入れる。


「……憲兵に見つかったら」

「大丈夫です。きっと」

「まぁ、そうだな……」


 別にやましいことをするつもりはないし、仮にしててもいざお縄になったらあのクロードやらが舌打ちの一つでもしながら渋々助けてくれるに違いない。

 俺たちは、せいぜい無責任にほっつき回ることとしよう。


「しかしまぁ、この街は壮観ですね。在りし日のアルデシアの威容がしのばれます」

「ああ」


 アルデシアに近いせいなのか、このルージアは崩れ去ったかの聖都の面影を宿していた。

 建物は、少なくとも表通りにあるものについてはほとんどがしっかりとした石造りで、主に明るい色の塗料で涼やかに塗装されている。

 そして石畳の道は広く、またそれらが合流するちょっとした広場には勇ましい銅像やら噴水やらがあり、アルデシアほどではないのだろうが十分に発展した様子が伺えた。


「なぁ、あんた。ピクニックってどこに行くつもりなんだ?」

「ロクさん、ルージアにはそれはもう素晴らしい花畑があるのです」

「来たことがあるのか?」


 まるで勝手知ったる場所のようにして口にするセレスに俺は首を傾げる。

 すると、彼女は笑って否定した。


「いいえ、昔見た詩で語られているのを目にしただけです」

「へぇ。どうする? 沼になってたら」

「あはは。沼でピクニックしましょう」


 そんな風に言葉を交わしつつ歩いていると、俺のまぁまぁ優秀な耳はかすかに遠くの足音を聞き取った。

 どうやら人の数は多くて、セレスにも聞こえたのだろう。

 彼女はちょっと微笑んで右手の人差し指を立て、静かにするように手で示す。

 そしてそれから、空いた左手で俺のローブを着た腕を掴み建物の陰へと引きずり込んだ。


「……おい、あんたなんのつもりだ」


 憲兵かも知れないので隠れるのはまぁ分かるが、ずいぶん楽しそうじゃないか。

 だから目をきらきらと輝かせるセレスに尋ねると、彼女は顎を撫でつつなにやら考え込む。


「あー、えっと……。……いいですか? 今の我々は世を忍ぶ巡礼です。異教の徒に追われているのですよ」


 なんだそりゃ。

 こらえきれず噴き出すと、セレスは心外だと言うようにため息を吐き腰に手を当てる。


「ロクさん、こういうのは気分が大事なんです。どうせ隠れるなら楽しい方がいいじゃあありませんか」

「あんた、想像力たくましいんだな」

「なんとでもお言いなさい」


 わざとらしく鼻を鳴らして、それからセレスはそろそろと建物の陰をそれこそ泥棒のようにして潜みつつ行く。


「その……異教の徒に捕まったらどうなんだよ」


 すっかりなりきっているセレスに呆れつつ俺は普通について行く。

 そしてそんなことを問いかけると、セレスはまた楽しげに考え込む。


「……そうですねえ。異教の徒はきっと暴食の邪神を崇拝しているので、お腹いっぱいで泡を吹くまでホットケーキを食べさせられるのでしょうね」

「あんたやっぱアホだよな?」

「いいえ、シスターセレスですよ」


 潜めた声で、しかしきっぱりと否定された。

 それから彼女はまた建物の陰から外を伺い、すばやく顔を引っ込めて踵を返す。

 どうやらまた憲兵がいたらしい。

 来た道を戻りつつ、セレスは小さな声でふと呟く。


「しかしなんですね、お腹減りましたね」

「ああ、俺も減った」


 よく晴れた空を見上げれば、もう日の巡りは頂点を過ぎている。

 つまりは昼過ぎだ。それは腹も減ろうと言うものだろう。


「少しぐらいここいらでつまみ食いしてもいいんじゃないか?」


 俺がそう聞くと、セレスはにっこりと否定する。


「だめですよ」

「そうか」


 それからまたしばらくこそこそと行くが、どうにもゴールが見えてこない。

 まさかこいつ、場所を知らないのではないかと俺は思い始める。


「なぁ、あんた」

「はい、なんでしょう」


 相変わらず馬鹿みたいにこそこそとした声で答えるセレスに流石に呆れつつ、俺は続ける。


「場所わかってるのか?」

「そうですねぇ」


 今度は難しそうな顔で考え込み、やがてセレスは口を開く。


「詩の記述では、街の西だとか」

「…………」


 言われて俺は、すぐ近くの家の影を見る。

 今は恐らく午後なので、影は東側にできるものだ。

 それで今進んでる方向が……。


「おい、まるっきり逆じゃねえか」

「え? あ、すみません……。特に何も考えず歩いてました。楽しかったので……」

「はぁ?」


 このダメシスターがと心中毒づき、俺はさっさと方向転換する。


「グダグダだな」


 そう言って俺がため息を吐くと、セレスは笑った。


「でも、一緒に歩くの楽しかったですよ」

「…………」


 俺はそれになにか答える気がしなかった。

 かと言って、否定しようとも思わなかったが。


 ―――


 その、セレスの言う花畑とやらにたどり着いた。

 着く頃にはもうまぁまぁ日が傾いていて、俺としても腹が減ったりあてもなく彷徨ったりでそこそこ不満も溜まっていた。


 だがそこに咲く花々は、そんなちっぽけな不満を消し飛ばしてしまう程度にはいいものだった。


「わぁ。素晴らしいですね、ロクさん」


 目を輝かせるセレスに、俺は何も言わずにただ頷く。

 街外れの、五つほどの粉ひき風車が立ち並ぶなだらかで大きな丘。

 そこにある幾筋もの道の間を埋めるようにして、太陽の光を受けて色とりどりの花がこれでもかと咲き誇っている。


 とかく色が多いが、色の洪水だとかそんな印象は受けない。

 もっと繊細な、なにか小さく美しいものが健気に慎ましく肩を寄せあわせているような、そういう優しさが目の前の光景にはあった。


「……すごいな。こんなのは、初めて見た」


 言葉に偽りはなかった。

 俺はこんなにも美しい光景をついぞ見たことがない。

 無学な俺にも、詩人が詩を詠みたくなる気持ちが少し分かるような気さえした。


「歩いてよかったでしょう?」

「そうかもしれん」


 いつもにも増してはしゃいでいるセレスが、軽やかな足取りで道をなぞり歩き始める。

 それに俺は、一抹の不安を覚えて思わず声をかけた。


「……おい、花を踏むなよ」


 それは自分でも思いがけない言葉で、はっとした時にはもう振り返ったセレスが歯を見せて笑っていた。


「踏みませんよ。大丈夫です」

「…………」


 セレスはおかしそうに笑っているが、俺は恥ずかしくて笑うどころではない。

 一体俺は、何をらしくもないことを言っているのだろう?

 いやそもそも俺は、こんな風にちゃんと景色を見たことなんて……。


「ロクさん?」

「……今行く」


 そう言って歩き出す。違和感は拭えないままに。


「ピクニックはいいが、一面花畑だぞ。どこに陣取るつもりだ?」


 セレスの横に並び、そう問いかける。

 すると返ってきたのは、生真面目な彼女にしては珍しくからかうような調子の声だった。


「そうですねぇ。花、踏まないでほしいんですもんね? ふふふ」

「…………」


 俺は何も言わずにセレスの頬をぐいとつねる。


「痛いです痛い! ごめんなさい!!」


 別にそう強くしたつもりもないのだが、セレスはじたばたと大袈裟に反応してみせる。

 そしてそれから軽く頬をさすりながら丘のてっぺんを指さした。


「あそこに行きましょう」

「あそこ?」


 指の先を見れば、風車と風車の間に手頃な日陰ができている。

 ああ。あそこならきっと、花もよく見えるだろう。


「…………」


 と、そこで。

 指さしていたセレスの右手がぴくりと震えた。


「ロクさん?」


 そう言う彼女は、俺が気がついたことを分かっていないようだった。

 恐らくは無意識だろうが下ろした右手にそっと左手を添え、なにかこらえるようにしつつ俺の方をきょとんとした顔で見てくる。


「なんだよ。行こうぜ」


 だから俺も知らぬふりをしてそう言うと、彼女は微笑んでまた歩き始める。


「はい!」


 心もち大股で歩くセレスについていきながら、俺はまた芽生えたての違和感を自覚する。


「…………」


 そう、俺は不思議だった。

 どうしてこんなに穏やかな気持ちなのか。

 どうしてこんなに、セレスのことが心配でたまらないのか。


 見上げた太陽の眩しさに目を細め、前を歩く彼女の背を見つめる。


 もしかすると俺はどこか、変わってしまったのだろうか?


 ―――


 ささやかなピクニックを楽しみ、俺たちは宿に帰り着いた。

 食事を済ませた後もだらだらと居座ったから、宿につく頃にはもうすっかり夕時だった。


「楽しかったですね」


 いつもの机に突っ伏してセレスがしみじみとそう口にする。

 俺は部屋の片隅の壁に背をつけて腰を落ち着かせ、その言葉に答えた。


「まぁ、悪くなかった」


 ぶっきらぼうにそう答えるとセレスはにっこりと微笑んだ。

 俺はそれがなんだか眩しくて、彼女の顔から目を逸らす。


「…………」


 向けた視線の先には、窓から茜色の光が入って来ている。

 外からは小さく人々の声が聞こえるようになっていて、どうやら街には人が戻り始めたようだった。


「あの」

「なんだよ」

「ロクさんには、ご家族はいらっしゃらないんですか?」


 不意に問いかけられたその言葉に答えようとして、俺はふとセレスのことについて思い出す。

 確か彼女、孤児院で生まれ育ったとか。


 だからなのか、机から顔を上げてこちらを見る目はどこか憂いを含んでいるように見えた。


「家族は、いないよ。俺は多分、生まれてすぐ捨てられたからな」


 魔人の髪と瞳の特徴は、両親のそれを一切無視して発現する。

 血なんか見なくても生んだ親ならそれが何を意味するかは分かるはずで、髪が生え始めた頃、あるいは目を開いたその時に俺は捨てられたのだろう。


「じゃあ……どうやって、その……」


 遠慮がちに続けようとするセレスに、俺は言葉を選びつつ一つ唸る。


「ああ……」


 ……まぁ、今さら取り繕う必要もないだろうか。

 思い直して、俺は口を開いた。


「乞食のババアが俺を拾ってな、育ててくれたんだよ」

「乞食……ですか」


 黒髪赤目のガキを拾うのなんてとてつもない馬鹿だけだ。

 それは当たり前なのに、セレスは意外そうに目を見開いている。

 俺は窓から差し込む光にあかあかと染まった板張りの床に視線を移し、さらに言葉を継ぐ。


「そうだよ。二人で物乞いするんだ。俺の頭は捨てられてたきったないペンキ被って染めて。不自然だけど、黒以外に見えたら何でもよかったんだ」

「ええっと……」


 困惑するセレスをよそに、俺は滑らかに舌を動かす。

 特に同情してほしい訳ではなかったが、こんな風に自分のことを誰かに話すのは初めてだったのでやめ時が分からなかった。


「ボロの毛布だけ持って歩き回ってもらえた金はその日に使い果たす。ババアは俺に飯譲ってくれたことなんか一度もなかった。俺が食うのはババアが食ってからなんだ。妙な名前までつけられたし、鬼ババアだよあれは……」


 俺が気負いなくそう語っていると、セレスがにわかに張り詰めた声で俺に語りかけてきた。


「……その方は、今どこに?」


 その問いへ返すべき答えは、実に単純だった。

 だから俺は、一瞬の逡巡もなくそれに答える。


「俺が殺したよ」

「…………」


 はっきりと、セレスが息を呑む声が聞こえた。

 それから長く沈黙し、彼女は椅子から腰を上げたようだった。

 いつしか俺は俯いていたので、見た訳ではないけれど。


「どうしてそんなことを?」


 次の声は俺のすぐ右から聞こえて、俺はゆっくりとそれに振り向く。

 すると、俺のすぐ横に両膝をついた彼女は心配そうな顔でこちらを見ていた。

 俺はどれだけ軽蔑されているのだろうと、そう思いながら振り返ったのだが。


「どうしてですか?」


 重ねられた問いから目を逸らす。


「……決まってんだろ。気に食わなかったからだよ」

「ちゃんと答えてください……」 


 返ってきた震える声に、俺は初めて気がつく。

 こいつ、なんで泣きそうになってるんだ?


「…………」


 訳が分からないし、理解できそうにもなかった。


 どうしてこんなにずかずかと人の心に踏み入れるのか。

 どうして、こんな俺なんかのために泣けるのか。


 そして違和感はずっと、膨れ上がるばかりだった。


 困惑しつつも、俺は仕方がなく重い口を開く。


「邪神崇拝者だったんだよ。歳になったら、俺を邪神の生贄にするつもりだったらしい。それで、ブッ殺してやった。死ぬ訳にもいかねぇからな」

「……そう、ですか」


 六歳になるまで待ったのには、なにかババアの邪神崇拝者としての理由があったのだろう。

 俺はそんなの知ったことではなかったが、あの女が魔人の俺を殺すために育てたのだけは確かだった。


「…………」

「…………」


 セレスはもう何も言わなかった。

 ただ俺の横の壁に背をもたれさせて座って、何も言わずに涙を流していた。


「……なんで、泣いてんだよ」


 ずっとずっと、本当に長くセレスはただ俺のそばにいた。


 そして差し込む茜色がかげり、夜の色が混ざり始めた頃。

 俺がようやっとそう問いかけると、セレスは涙に濡れた声で答えた。


「……悲しいからです」


 すすり上げてセレスはそう言う。俺はさらに言葉を続ける。


「じゃあどうして悲しいんだよ。あんたのことじゃねぇだろ」

「分かりません」

「分かんねぇのかよ。あんたやっぱアホだな」

「アホじゃ……ありません……」


 それを最後に、俺もセレスももうなにも言わなくなる。

 ただずっと寄り添って、セレスは俺のために泣いていた。


「…………」


 俺にはセレスの気持ちが分からない。

 人でなしのロクでなしだから他人のために泣くことなんてできないし、そもそも俺は生まれて一度も泣いたことなんてない。


 だから彼女のことは分からないが、ずっとそばで泣いてくれたことは俺の心になにか残したのかもしれない。


 それからもう少しで夜が明けようかという頃。

 泣き疲れてすやすやと安らかな寝息を立てるセレスに、俺は初めてその言葉を口にした。


「……ありがとな」


 今はまだ、目を見て言える気がしなかった。

 だから俺は囁くように小さく言葉を闇に溶かしてしまう。


 ―――


 戦による轟音が、そこかしこから絶え間なく聞こえてくる。


 魔物が吠える。魔術が閃く。剣が矢が炎が泥が。

 そこは戦場だった。それも最低の戦場。

 霞む目をそれでも開く。夕の空が暗い。


 俺の周囲をひっきりなしに負傷者が衛生兵に引きずられて行く。

 手当は明らかに間に合っておらず、引きずられる者たちの中には既に死んでいる者もいるようだった。

 この一帯には先ほどデカい一撃が叩き込まれた。そのせいで沢山死んだ。そして俺も、束の間気を失っていたようだった。


 ひび割れた黒鉄くろがねの外殻を再構築し、すでに魔人化した俺は眼前の魔物を睨む。

 体長五メートルはあろうかという竜の姿をした、泥の塊を。


 アルデシア奪還作戦は日没前に決行され、第三使徒アリシアの炎と共に開戦を告げた。

 しかしこの通り戦況は芳しくなく、多くの兵士たちが命を落としている。

 そして魔人である俺も、この戦場においては決して死を他人事のように思うことはできない。

 黒の夜空に炎の照り返しが閃く。また竜が、炎を吐いたのだ。

 一挙に十何人と薙ぎ払った火球を俺は()()()()()()、それから竜の頭上に現れる。

 そして大槌に変えた右腕を渾身の力でその脳髄に叩き込んだ。


「あぁぁぁぁ!!!!」


 直撃する。

 魂を絞るようにして叫びつつ、もう一撃叩き込む。すると竜の頭部から泥水のような血が噴き出し、どうと音を立てて倒れた。

 俺はその死体を喰らう暇もなく、槌を消して死体を後にし走り出す。


「ザリド……! あのクソ野郎……!!」


 俺は冷めやらぬ怒りを抑えるようにして低く叫ぶ。

 あいつ、セレスを一人で行かせやがったのだ。

 敵の最奥、ナーガと名付けられたあの巨大な泥虫の元へ。


「消えろ!」


 また泥を斬り伏せる。

 そしてウェアウルフから奪った赤を纏い、風を切り戦場を駆ける。


「…………ここが」


 崩れた城壁、その門の前。

 俺はそう呟いて、それから突如爆ぜた轟音に声をかき消される。


「…………!」


 街の外。開けた平野で。

 泥が全てを押し流している。

 うねり蠢きそのしなるような強靭で触れるもの尽くを薙ぎ倒す、巨大な蠕虫ぜんちゅうのナーガ。

 その周囲を洪水のように泥が荒れ狂い、それに立ち向かうのは一人の少女だった。


「セレス!」


 叫ぶが、聞こえていない。


 指のみならず両腕の半ばまでを無数の触手に変えた彼女は、いっそかき消えるほどの勢いを込めた跳躍で泥の渦をかわす。

 それから神速の触手がナーガの大木のような胴体を貫くが、あまり効果があるようには見えなかった。

 とぐろを巻いた巨体が叩きつけられ、セレスへと迫る。

 彼女はそれを触手の束で受け止め……あろうことか押し返してさえ見せた。

 だがその隙に泥の波がセレスを呑み込む。


「っ!」 


 不意を突かれたセレスはとっさに顔を庇いつつもその膨大な質量に飲み込まれた。

 そしてしばらくして荒れ狂う泥の水面から彼女が飛び出た時には、右腕はあらぬ方向に曲がり左足は力なく引きずられていた。

 しかし、それとて一瞬のこと。軋むような音を立てながら手足が修復されていく。

 当然ナーガも追撃を仕掛けようとするが、それは俺が阻止した。

 うねる巨体の真上に転移し、右腕を変異させた大剣を突き立て思い切り捻る。

 そして開いた傷に左手を突き入れ、皮を剥がしつつ創傷をこじ開ける。


「――――――――!!!」


 奴にしては小さな傷だろうが、それでも傷めつけることだけを念頭に置いた攻撃は多少効いたらしい。

 声とも言えない奇怪な高音を発して、ナーガはばたつき暴れセレスから注意が逸れる。


「…………ッ!」


 突如暴れだした巨体にひやりとしつつも俺はなんとか飛び降り距離を取った。


「ロクさん! どうしてここに……」


 するとそこには駆け寄ってきたらしいセレスがいた。

 俺はどうしてここにいると、そう問いかけられて頭に血が上るのを感じる。


「あんたが! ザリドなんかに言い包められて! 一人で行くからだろうが!!」

「ザリド様は関係ありません! ……私が、あなたを置いていったんです」

「だいたいテメェなんで俺に一言もなく…………は?」


 今こいつ、自分の意思で俺を置いてったって言ったのか?

 愕然とした。分かっている、俺は弱い。

 だが、こいつを守るために俺は何度も何度も魔物の死体を食って……いや、それはいい。

 それはいいが、未だにこいつに気を遣われている自分が情けなかった。


「…………」


 ため息を吐いて、それから右腕の剣をさらに大きくする。

 地を削り、引きずるほどに。


「俺だって、お前の言うことなんか聞かないからな」


 それだけ言って走り出す。体勢を整えたナーガの元へと。


「ロクさん!」


 呼び止める声も無視して赤を纏い加速。

 前方でナーガの頭が地に叩きつけられ、凄まじい揺れに呼応するようにして泥の波が湧き上がる。


「!」


 これは、俺にはかわせない。

 転移し、泥のうねりから逃れるようにしてナーガの斜め後ろに回り込む。

 決してターゲットは逸らさせず、しかし攻撃を食らって早々にリタイヤというのもクソ喰らえだ。

 つかず離れずの距離を取ってヘイトを稼ぎ、後はセレスにぶん投げる。

 それでいいのだ。


「ミミズ野郎、お前美味そうだなぁ!」

「何言ってるんですかあなた!」


 悲鳴のようにしてセレスが背後で叫ぶ。

 トチ狂ったとでも思ったのだろうが、実際嘘ではない。

 あれを食えば俺はまだまだ強くなれる。

 食いでがありそうだが、こちらは食うことに特化した魔人だ。どうとでもなるだろう。

 表皮を斬りつけ離脱する。ウェアウルフならいざ知らず、俺では転移も二十秒に一度が限度だ。

 だから転移する場所とタイミングを間違えればすぐに死ぬ。

 故に転移はまだ使わず、駆け足で離脱しつつナーガの肉弾攻撃は全て逃げに徹してなんとかやり過ごす。


「ッ……!」


 尋常じゃない揺れと衝撃に歯を食いしばり、俺はセレスに視線を向けた。


「おい! なにやってる!! さっさとこいつをブチ殺せ!!」

「分かってます!!」


 高く高く跳躍したセレスが両腕の触手を爆発的に増殖させる。

 天を覆うような密度の触手が殺到し、ナーガの身体を深く深く刺し貫く。

 そして巨体を抉り捻り引き裂こうとしたその時。


「セレス!!」


 細く鋭く圧縮された泥の濁流がナーガの頭部から勢いよく射出され、空中にいたセレスはその圧力で腹に大穴を開けられる。

 すると彼女は力なく失墜し、頭から大地に叩きつけられた。


「クソッ……!」


 低く唸り、歯噛みする。

 分かっている。まだ生きてはいる。

 だが、それでも一度死なせてしまった。

 幾度死ねようが死の重みは変わらない。

 きっと本人にとっては。


「はぁ……! けほっ……!」


 激しく咳き込み、泥に汚れたセレスがよろよろと立ち上がる。

 ナーガの方もその巨体から血を流しているものの、こちらはやはり体の大きさ故かまだ倒れそうにはない。


「…………」


 駆け寄った俺は左手でセレスの背を支え思案する。

 ヤツの能力は恐らく、まるで洪水のような泥を操る力。

 攻撃は大振りだが、広範囲を薙ぎ払う変幻の水流が巧みに隙を埋めている。

 あの泥さえなんとかなるなら……。

 俺がそう考えていると、突如目の前でナーガが炎上した。


「――――――!!!!!」


 俺が攻撃を加えた時とは比べ物にならない悶絶の声を上げて、ナーガが無秩序にのたうち回る。

 そしてやがて燻る体の火が消えた頃。

 俺は夜空に浮かぶ一つの深紅の星……いや、炎を纏う魔女を見た。


「不本意だけど、援護するわ」


 向けられた言葉はそれだけだった。


 風でも操ったのか妙に通る声は不機嫌にそう告げて、次の瞬間には俺たちのことなど気にしているとは思えない様子で炎が降り注ぎ始める。

 具体的に言えば、諸共に焼こうとしているように感じた。

 早くも平原は炎に包まれ、皮肉にもまた氾濫するナーガの泥がなければ俺たちも焼けてしまっているような、そんな始末だ。


「何が援護だ、クソ……!」


 アリシアの炎を、ナーガは渦巻く泥でよく防いでいる。

 しかし、先ほどまでのような泥を利用した変幻の攻撃は最早不可能だろう。


「行けるか?」

「……ええ、大丈夫です」


 蘇生の負担にか苦しげに顔を歪めるセレスだが、確かに頷き腰を落とす。

 そして触手の束をたなびかせ、一瞬で加速しナーガに肉薄しようと駆けだす。

 俺も続きながら、セレスが仕掛けた瞬間を見計らい転移をした。


「あっぶねぇ……」


 転移先のすぐ横に炎が落ちて、けれど気にする暇すら惜しんで俺は跳躍する。

 そしてセレスの触手への応戦に追われている内に、激しく揺れる体に短くした剣を刺しなんとかその巨体をよじ登る。


「頭はどっちだ? ……どっちも潰せばいいか」


 ミミズの頭はどっちがどっちだかよく分からない。

 だから俺は一瞬迷うが、どちらも潰せば関係ないとすぐに思い当たる。

 とりあえずは、鎌首をもたげている頭の方だ。


「…………」


 飛び回り走り回り、セレスはよくナーガの巨体を御している。

 そしてアリシアの方も……認めたくはないが、かなりの火力で氾濫する泥のことごとくを抑え込んでいる。

 よじ登り、時に転移を交えつつ俺はナーガの頭にたどり着いた。


「……死ね」


 ナーガはちょうどセレスに叩きつけを放とうとした所だったようだが、俺の方が早い。

 ひたすらに鋭さをイメージして作り出した槍を頭部に突き立てる。


「――――――――!!!!!!!」


 急所を貫かれ、その頭が激しく振られる。

 しかし俺は左手を返し付きの槍に変え突き立て、どれほど暴れようと離れないようにする。

 そして右の槍を何度も突き刺す。


「クソ……! 暴れん、な!!!」


 転がったり頭を振ったりと俺にも分からないほどに振り回され、さらに攻撃に回したらしい泥で外殻を貫かれたりもする。

 だがそれでも踏みとどまり、俺は腐食の力を纏わせた右手の長槍を強く強く突き立てた。


「死ね……!! 死ね!!!!」


 黒の魔力はナーガの皮膚を溶かし、さらに肉をも侵食する。

 そしてその穂先は恐らく中枢にまで至り……突如ナーガの体から力が抜ける。


「!」


 腹が冷えるような感覚。

 落下した。


「……ってぇな」


 地を揺るがすような衝撃をモロに受けるが、ナーガの巨体が下敷きになったおかげで命に別状はなさそうだった。

 俺は左手の返しを引き抜き、また深く刺した長槍も普通の手に変えてしまう。

 そして燃える平原を見渡し、遠くで膝をつくセレスの方に歩み寄ろうとした……が。


 足が動かない。

 下を見る。すると、なにかが……なにかの腕が、俺の足を掴んでいた。


「なっ……!」


 ナーガの頭の中から、また腕が出てくる。

 それは小さな泥の羽虫がびっしりと固まってできた、おぞましい腕だった。

 しかもこの腕、こうして掴まれても振りほどけないほどに力が強いのだ。


「…………ロクさん?」


 ナーガが倒れたのに、俺が下りてこない。

 不審に思ったのか歩み寄りつつそんな声をかけてくるセレスに、俺はほとんど反射的に叫ぶ。


「来るな、セレス!!」

「え?」


 俺の足を掴んでいない腕が、ナーガの表皮に手をついた。

 そしてその肉の中から這い出ようとするように動き、現れたのは人のシルエットをしたなにかだった。


「クソ、ふざけんな……!」


 終わったと思ったのに、なんだこれは。


 虫の集合体。二メートルほどの、常に羽音をさせる揺らぐ人影。それはナーガの死体から這い出しつつ、握った俺の足をそのまま持ち上げる。

 重金属の塊とも言える俺を軽々と抱えて、その絶えず揺らめく虫の塊の腕で俺の体を振り回し投げ飛ばした。


「が……はっ……!」


 視界が十回転ほどして、叩きつけられたと思ったらもう指一本動かない。

 しかしそれは単に負傷によるものではなく、なにか……意思が遮られているような……?


「ロクさん!!」


 体が動かない謎の、答えはすぐに分かった。

 俺に駆け寄ろうとしたセレスが、突如膝を折ったからだ。


「え……?」


 触手の腕で胸を抑え、セレスが苦しそうにする。

 すると次の瞬間。彼女の腹を食い破りうねり蠢く……ナーガによく似た虫が数え切れないほど現れた。


「……セレ、ス」


 そうしたところでどうなる訳でもないのに、息も絶え絶えに俺は必死にセレスの名前を呼ぶ。


「なん、ですか、これ……」


 しかし彼女の腹は完全に食い破られ、その口からごぽりと血を吐いて倒れ伏す。


 泥が泡立ち、死んだはずのセレスは生き返る。

 すると腹に蠢いていた泥の虫はすべて死滅し、再生の過程で力なく体外に排出される。

 しかし肝心のセレスの顔は、これまで見たことのない表情に……恐怖に染まっていた。

 彼女の心は肉を喰い漁る虫の束に折られてしまったのだ。


「…………」


 羽虫の人影は魔物であるが故に何も言わず、しかし羽音を一際大きくする。

 するとその背から虫の塊で構成された三対の羽が生えて、泥の濁流を従えつつゆっくりと宙に浮き上がった。


「逃げろ……! セレス!!」


 がたがたと震える触手で、セレスは傷が塞がった腹部を憑かれたように抑えている。

 そして最早逃げることもできずに、ただ恐れて泣きながら首を横に振っていた。


「い、いや……気持ち悪い……気持ち悪い……だれか、たすけ……て……」


 恐らくあの魔物の本当の能力は、虫を操ることだ。

 初めはそれを利用することで極限まで育てた虫を操り戦闘していたのだろう。


 しかしそれを潰されたことで本体が這い出して来て、さらに泥の中に忍ばせていた虫を利用して瞬く間にセレスを戦闘不能にした。

 俺には外殻があるお陰でそう多くの虫を送り込めなかったのか、体が動かない程度で済んだ。

 だがセレスにはあまりに分が悪すぎる。

 いくらセレスが蘇生と共に寄生状態を解除できるとは言え、泥に触れればその時点で最悪死が確定するのだ。


 ……それでは勝てるはずもない。


「セレス、戦いなさい!」


 アリシアが叫ぶが、戦意を喪失したセレスにはそれが聞こえていなかった。

 ただいやいやと叫び続けて、するとナーガ……だったモノがセレスの前に降り立つ。


「ひっ……」


 腰を抜かし後ずさるセレスを見て、俺はなんとか這い寄ろうと腕を動かす。

 するとひび割れた腕の隙間から小さな虫が這い出てきて、俺は腕を叩きつけてそいつを殺す。


「クソがぁ……!!」


 動け。頼む、動いてくれ。

 神様頼む。あんたを信じてるんだぞ、あの子は。

 俺が死んだっていい。気休めでもいいから、だから、助けさせてくれ……!


「動け!」


 そんなことを願うが、願いは決して意味をなさない。

 俺は無様に地面を這いつくばって、彼女のために何もすることができないままだ。


「かはっ……」


 セレスは首を掴まれ、人影に掴み上げられる。

 そしてそのままもう片方の手で顔を削られ、死に至る。

 二度目だ。いやそもそもセレスは、あいつは何度死ねるんだ?

 次はもう蘇らないのではないか?

 恐ろしい疑念に気がついて、押し寄せる恐怖に錯乱する。


「アリシア! おい、分かるだろ! あいつには勝てない! セレスを連れて、早く……早く逃げてくれ!!」


 必死に叫ぶが、アリシアは無視している。


 いや、それだけではない。

 あろうことかセレスを置いて一人でどこかへと飛び去ったのだ。

 最早助ける者を失ったセレスに対して、人影は容赦なく蹂躙を開始する。


 立つ気力もないのか這って逃れようとするセレスの腹を貫き殺した。三度目。

 痙攣するばかりになったセレスに歩み寄り、頭部を踏み潰す。四度目。

 そしてセレスの体を蹴り転がし、また殺そうとしたその時。


「……アァァァァァッ!!」


 獣のように叫び、俺は執念で体を動かす。

 体のあちこちから飛び出た虫を引きちぎり、あるいは構成した外殻で圧殺して走り出す。

 殺す。殺してやる、それしか頭になかった。


「死ね」


 俺の身の丈の倍ほどある刃を作り出し、ウェアウルフの残滓で強化しつつ渾身の力で叩きつける。

 するとそれを人影は容易く受け止め、さらに人間にはありえない方向に肘を曲げ斬撃を受け流す。


「なっ!」


 刃を掴んだまま投げ飛ばされ、体勢を整えたところに泥の槍が降り注ぐ。


 かするだけで勝負が決するそれを俺は転がるようにかわし、転移して背後からまた刃を横薙いだ。

 だがそれは弾かれたように加速する羽の機動によりかわされて、俺の間合いから逃れた人影はまた槍を放ってくる。

 その単調な攻撃は、まるで格下と認めた俺を嬲っているような、あるいは嘲ってでもいるようなものだった。


「舐めやがって……!」


 左手を槍に変え突貫する。

 繰り出した突きは蟲の腕で掴まれるが、俺は掴まれた部分の形を変える。

 すなわち人影の手を突如生じた棘の群れが内側から貫き、刹那形を崩したその手から俺は槍を抜く。

 そして大剣のままだった右手を横薙いで、人影の頭部を吹き飛ばした。


 だが。


「ふざけんな……! どうしろって……!」


 霧散し、即座に集合する蟲の群れ。

 犇めき犇めき二秒も間を置かず元の形を取り戻したそれに、俺は戦慄する。


 どうやって倒せばいい?

 虫を全て腐食させるか?

 すると強化は抜かなければならない。

 そしてそうなれば、俺は瞬く間にこいつに倒されるしかないだろう。

 足首を掴まれ、そのまま底なし沼に引きずり込まれるような感覚。

 すなわち絶望が、俺の思考を暗く蝕む。


 俺には、セレスを、守ることができない。


 歯噛みして背後に振り向く。

 セレスはぐったりと倒れ、声もなく泣いている。


「…………」


 逃げるしかない。アルデシアが、世界がどうなろうと知ったことか。

 俺は両腕の武装を解除する。セレスを肩に抱え上げ、人影に背を向け走り出した。


「…………」


 人の形を取りながら、やはりそれは人ではない。

 故に言葉は漏らさず、ただ逃げる敵へと追撃を開始する。


「!」


 人影が羽を震わせ、空へと至る。

 そして上空から矢継ぎ早に泥の槍を放ち、俺たちの背を撃ち抜こうとする。

 俺は蛇行し転がりさらに転移を駆使し、手を尽くしてかわすものの……やはり、一歩及ばない。


 濁流を転移でかわし、硬直した瞬間に槍が放たれた。

 俺ではなくセレスを狙ったそれに、束の間対応を迷った隙が致命となった。

 続く一撃で脇腹を削られ、そこから徐々に感覚が死んでいく。

 構わず走り続け、しかしやがて足がもつれて倒れる。

 セレスの体が投げ出されて、俺はせめて動く内に体を這わせて小さな体の上に覆いかぶさった。


「……ロク、さん…………?」


 涙に濡れた赤い瞳。

 そして漏らされた声は、聞いたことがないほどに弱々しい声だった。

 セレスの小さな体を抱く。何も見せぬように、胸の中に抱き込んだ。

 俺より先に、一度でも死なせるものかと、そんなことだけを考えていた。


「……大丈夫だ」


 嘘だった。俺の声は、震えていた。

 怖いのではない。悔しいのだ。

 どう転んでももう俺にセレスを救う術はない。無力だった。


「…………」


 羽音が近づいてくる。

 腹に激痛が走る。

 恐らくは虫が腹の中を喰い荒らし、あの異様な成長を遂げているのだろう。

 外殻を突き破ることは、できないようだったが。


「………っ」

「ロクさん?」


 また問われる。俺は答えた。


「……気にするな、なにも」


 確実に、俺はセレスより先に死ぬ。

 そしてその後彼女がどんな惨たらしい最期を迎えるのか。

 俺には想像すらできない。せめて楽に殺してやることすら、もう俺にはできない。

 だから少しでもその瞬間を先に伸ばそうと、俺は……。


 しかしそこで。不意にセレスが動いた。

 まるで物のように俺を押し退け、膝を立てふらつきながらも立ち上がる。


「……おい、セレス?」


 触手をだらりと揺らめかせて、まるで呆けたように立ち尽くす彼女。

 それを見上げていた俺は、一つのことに気がつく。

 俯いた顔に表情がない。人形のように表情を失った顔の、ただ瞳だけが……地獄の炎のように深いあかに輝いていた。


「おい……」


 また呼びかけようとして、その声は誰かの……クロードの朗々とした声に遮られた。


「我、古きくさびの契約により汝に一つ命を下す」


 放たれた言葉に、セレスの背中が薄く光を放つ。

 分厚い修道服の裏の光なので詳細までは分からない。

 だがそれは、何かの紋章を象っているように見えた。


「眼前の不浄に、全力をもって鉄槌を下せ」

「…………」


 セレスは何も言わずただ足を動かす。ゆらりと歩き人影の前に立つ。

 それからその腕が、触手が、軋むような音を立てて増殖し始めた。


「……最終封印解放」


 背を向けるセレスの喉が虚ろな声を漏らし、同時に周囲の空気が一変。嫌な予感がした俺は俺はクロードの声がした方に振り向く。

 そしてアリシアとクロードの姿を認め、俺は叫んだ。


「おい、テメェら……! 何を……!!」

「…………」


 彼らは何も答えず、代わりのようにしてセレスの呟きが聞こえてくる。妙に耳に残る、呪いのようなそれが。


「『不死たる真影(エステル=アン)』」


 その言葉で、全てが変わった。


 今やもつれ絡まるほどの密度で蠢く触手だが、それだけではない。

 半ばほどまでが触手に変わっていた腕は、既に肩近くまでもが変異し始めている。

 そして修道服の内側でも何かが蠢き、セレスは着実に、人でない存在に姿を変えようとしていた。


「おい!! セレス!!!」


 俺は彼女の名を呼ぶが、振り向きすらしない。

 ただ人影に向けて、何も言わずにセレスは地を蹴った。


「!」


 殺到する、触手の群れ。

 最早言葉で表せるようなものではなかった。

 一部の隙間もなく空間を圧殺するようにして人影に迫る。

 それは鋭い飛行でかわされるもののただちに静止し、爆発的な加速を伴い反転しつつまた後を追った。

 人影はしばらく触手に追われていたが、やがてセレスの上を取り泥の槍を乱射する。


「…………」


 セレスはそれに無機質に、機械的に対応した。

 すなわち生い茂る触手の壁が容易く槍を蹴散らし、なおも反撃に転じる。


「なっ……」


 思わず声が漏れた。


 あの無敵とすら思えた魔物がなすすべもなく触手に嬲られ散らされている。

 桁外れに数を増したそれらに取り囲まれ、人影は今や容赦ない殲滅に晒されていた。

 しかしわずかな隙間から虫の群れが漏れ逃げて、距離を取り再び人影の姿を取り戻す。

 とはいえ見る影もなく縮み、最早人と同じ身の丈ほどしかない。

 だがようやく人影も本気を出したようだった。

 先ほどとは比べ物にならない霞むほどの速さで飛び、セレスの触手を翻弄する。

 前、後ろと絶え間なく機動を重ね、直線上に立たないことで触手の加速を妨げる。

 それから槍や洪水、果てはナーガが放ったあの鋭い水流も駆使してセレスを遠近から攻め立てた。


「セレス!」


 ついに、セレスの体が泥の水流に抉られる。

 そして予想と違わず十数秒後、その体を突き破り泥虫たちが牙を覗かせる。


「……ガアァァァァァァァッッ!!!」


 しかしセレスは獣のような声で叫び怯みすらしない。


 触手の腕で虫を引き抜き、滂沱ぼうだと血を流しながらも人影に肉薄する。

 繰り出された触手の一撃。

 地を叩き割った衝撃の後、セレスは不意にもがき始める。

 そしてその背からまた泥虫が……いや、違う。

 あれは触手だ。


「アァァァァァァァッッッ!!!!!!」


 狂乱の声を上げて、セレスの体から次々に触手が生え始める。

 それは瞬く間に数を増し、繭のように彼女の体を覆い尽くしてなお増殖は止まらない。

 数を増やし触手から触手が生え枝分かれし太くなりやがてセレスの姿は完全に見えなくなる。


「…………!」


 そして変態を重ね生まれいでたものを見て、俺は最早何も言うことができなかった。


 その異形は、この世に人としてあってよい姿ではなかった。

 何もかもが触手で構成されたその体、けれど人にも似たシルエット。

 絶えず舌なめずりをするように粘性のある触手がうねり、そよめいている。

 それは人の形をした触手の塊だった。

 そうとしか言えなかった。


 冒涜的なその姿はまさに伝承にある魔王の一柱。

 【不死の魔王】エステル=アン。

 最早人間では、ない。


 おぞましい光景を前にして足元が崩れ落ちるように感じた。

 セレスはどこに……いや、あの怪物になったと言うのか?

 俺だって化物だが、それでもあれは……あまりにも……。


「セレス……」


 人影に相対する怪物に這いつくばったまま手を伸ばす。

 けれど何も掴むことはなく虚しく空を切った。

 戦闘が再開する。


 ……いや、あれは戦闘などと呼べるものではなかっただろう。

 単なる死の応酬としか呼べないものだった。


 泥の槍が怪物を滅多刺しにする。

 すると触手も人影に対して蹂躙を開始した。

 槍が貫き血飛沫が舞う。

 虫が怪物の体を食い破った。

 しかしその虫もすぐに体を覆う触手の密度に圧殺される。

 幾度蟲を送られようと怪物は止まらない。

 触手が蟲を蹴散らす。

 逃げ道を圧倒的な手数で潰した触手は、決して鏖殺の手を緩めない。

 そうして互いに傷つき傷つき攻撃を重ね、やがて限界を迎えたのは人影の方だった。

 群体としての個を保てなくなり、蟲の死骸の山として完全に死に絶えた。

 そして撃破を確認すると怪物も……セレスもその体をぐらりとかしがせ地に倒れた。


「セレス!」


 同時に体内の虫が力を失い、俺の体は自由を取り戻す。

 腹の痛みをこらえて地を蹴り、倒れた彼女の傍らに急ぐ。


「おい! あんた!」


 呼びかけつつも続ける言葉は思いつかなかった。

 何を問おうとも答えが帰ってこないような気がしたからだ。

 だからただ必死にセレスの触手をかき分ける。

 目に馴染んだ彼女の姿を探す。


「……! セレス!」


 すると指先に、柔らかな感覚が触れた。

 ぼろぼろと崩れ落ちつつある触手の塊を払い除け、俺はついに彼女を探し当てた。


「…………ああ」


 そうして露わになったセレスの肌は死人のように冷たく青白かった。

 四肢も顔も服が破れ露出した体も、その全てが泥にまみれ生気を失っていた。

 息も絶え絶えで、弱りきっていることが否応なしに伝わってくる。


「おい。……そこをどけ」


 背後から聞こえたクロードの声に、俺は反射的に掴みかかる。

 こいつのせいでこうなったのだということは、何よりもよく分かったからだ。


「テメェ!! よくも……よくも……!」


 自分でもどんな顔をしているのか分からなかった。

 殺意に言葉を詰まらせ、ぎりぎりと法衣の襟首を締め上げる。するとクロードは抵抗もせずに醒めた視線を返した。


「この女に情でも移ったか? だがな、俺が処置しなければアレは死ぬぞ。今のセレスは、力を使い果たしているからな」

「……っ」


 それは、確かにそうなのだ。

 なんとか怒りを飲み込みクロードから手を離す。

 すると奴は乱れた着衣を軽く手で払い直し、セレスの横に屈み込み手をかざす。


「まぁこれで、死にはしないだろう」


 しばらくして平坦な声でそう言い、腰を上げたクロードは俺たちに背を向ける。


「俺はこれから、ザリドの加護を取り戻すために動く。だから明日になったらまた俺の元に来るようセレスに言っておけ」

「…………」


 俺がそれに何も答えず睨みつけると、振り向いたクロードは鼻を鳴らし嘲笑った。


「忠誠心は一人前か。お前は思ったより、いい犬のようだな」


 そう言ってクロードは瓦礫の街へと歩き始める。

 アリシアもそれに続き、後にはぴくりとも動かないセレスと俺だけが残された。


 ―――


 深い夜、宿で目が覚める。


 戦闘の疲労のせいか俺はいつしか寝てしまっていたらしい。

 ベッドにもたれさせていた背を離し、俺は腰を上げた。


「…………っ」


 刹那走った腹の痛みを堪えて俺はセレスの姿を探す。

 だがそれは、どこにも見つかることはなかった。

 この部屋もベッドは一つで、だからいつもは二人揃って床で寝ていたのだが流石に今日はセレスをベッドに寝せていた。


 しかしそれがいなくなっている。

 宿に戻ってからもずっと、目を覚まさなかったというのに。


「おい、どこに……」


 そう言いかけて、俺はベッドの上に泥の汚れがあることに気がつく。

 セレスの体は寝せる前に拭いて着替えさせただけに奇妙だったが。


「…………」


 俺は夜目が利くので、たとえ夜でも目を凝らせば大体のものは見ることができる。

 だから泥の水滴を注意深く見つめると点々と続いていることがすぐに分かった。

 汚れを辿り始める。

 するとそれは、やがて寝室を出て部屋の外へと俺を導いた。


「……セレス?」


 泥の汚れと消えたセレス。

 嫌な予感がした。俺は暗い廊下の奥へと目を向ける。

 そして彼女を追うために歩き始めた。


 ―――


 外に出ると月が明るかった。

 せきとして中天に輝く月が街に明暗をもたらし、迷路のような光と影が石畳の上に横たわっている。


 そして息を潜めたような静寂の中、俺は一つの確信を持って足を進め続ける。


「セレス」


 思い違わずセレスはいた。

 かつて二人で呑気に出かけた、粉挽き風車の狭間はざまの影に。


「……帰ろう」


 言いつつ背を向けている彼女へと俺が手を伸ばすと、その手は思いがけず払い除けられた。

 手ではなく……泥の触手で。


「…………」

「…………」


 俺はあまりのことに何も言えなかったし、セレスもなにも言わなかった。

 そうして沈黙が流れて、耐えかねた俺はなんとか口を開く。


「なんで、戻さないんだ?」

「……戻らないんです」


 低く抑えた声で口にしたセレスの修道服の右袖からは、泥の触手の束が絶えずうねっていた。


「言ったでしょう? 私はもう……」


 人の姿の左手で服の胸元を握り締め、セレスは言葉を詰まらせ俯いた。


『……ほら、あなたも見ましたでしょう? こんな体ですから。もう、化物ですから……』


 そこで、不意にかつて聞いた言葉が脳裏をよぎる。

 俺はどこか、あの意味を軽く考えていたのかもしれない。

 事実としてセレスの右腕はもう人のものではなかった。


「あんたのそれは……なんなんだ?」


 問いかける。

 返ったのは簡潔な言葉だった。


「……魔王です。私はかつて聖剣に封じられた魔王、エステル=アンの残滓を受け継いでいます」


 顔を上げ、風車が作る影の中でセレスがそう言う。


「…………」


 魔王は聖剣により討伐され、その刀身に魂を囚われる。

 そして【雷の法石】が祀られる第一神殿にその刃は安置され、少しずつ少しずつその不浄を清められるものなのだ。

 二十二番目の魔王であるエステルも同様に封じられたはずだが、その残滓を受け継いでいるとは一体どういうことなのか。


「残滓を受け継ぐ……?」

「……はい。私の体には、聖剣より解き放たれた魔王の魂が封じられています」

「魔王の魂だと? ありえない」


 俺はセレスの言葉を否定する。

 だってそうだろう。

 魔物の魂ですら、人に混じったものが余りに強力であれば理性なき魔物憑きが生まれるのだ。


 人間の自我が魔王の魂と溶け合い耐えられるはずがない。

 だから俺がそう言うと、セレスは小さく声を震わせる。


「その通りです。やがて私は、魔王に呑まれます」

「なっ……」


 ではどうすると言うのか。

 それはこの世に魔王を復活させるようなものではないのか?

 俺の疑問に、セレスは最悪の形で答える。


「しかし私の体に服従の呪印を刻めば、私の中にある魔王もまたそれには逆らうことができません。……私の役目は、魔王を縛る拘束具となることです。自我の有無は、さして問題ではないのです」

「…………!」


 戦いの最中さなか、クロードの言葉に浮き上がった光の紋章を思う。

 今考えればあれはセレスに服従を強いる呪いで、そしてそれを利用してクロードはエステルをぎょしてみせたのだろう。


「じゃあお前は……!」


 たまらず俺が叫ぶと、セレスはくしゃりと顔を歪める。

 それは俺が続けようとした言葉への、なによりの肯定だった。


「ええ。……私は、いずれ死にます」


 やがて魔王はセレスの体を奪う。

 だがその体は既にクロードの支配下にあり、魔王はセレスに成り代わった時点で奴の傀儡と化す。

 しかし、そこにセレスの生存の余地はなかった。


 セレスが消えることでしか、クロードの計画は完成しないのだ。


「ふざけるなよ……ふざけるなよ! 俺はあんたのために働くと言ったんだ!! なのにそのあんたが死ぬだと……? 俺はそんなこと認めねぇぞ!!」

「……じゃあどうしろと言うのですか!」

「っ……」


 どうすればいいのだとそう問われて、そして何よりセレスが泣いていたから俺は言葉に詰まる。

 声を荒げた彼女はその頬を涙に濡らし、鼻をすすりながらまた叫んだ。


「私がやらなければ、みんな死ぬじゃありませんか!! 神殿が全て堕ちれば世界は終わるんですよ?!」

「世界がどうなろうが知ったこっちゃねぇんだ! 今すぐやめろ!!」

「なんですかその言い方は! あなたには……あなたには分からないんです!!」


 見たこともない剣幕で怒鳴り、そして一つ息を呑んでセレスは泣き崩れる。


「私だって……本当は、嫌です……こんなの……」

「…………」


 セレスは座り込み、左手で濡れた目元を覆っている。

 けれどもう一方ではずるりと触手が地を舐めていた。

 ……それは、大層救いようがない光景だった。

 彼女は犠牲になるのだ。


 世界などと言う曖昧な概念のために。


「……なぁ、あんた」

「…………」


 呼びかけに、セレスが顔を上げる。

 俺はそんな彼女の右手を……泥の触手を引いて立たせた。

 多少ふらつくが、俺が支える。

 そしてぬめりを帯びたおぞましい触手の感触を手に感じつつ、言葉を続けた。


「あんた、寂しくて仕方がないから俺を助けたんだろう?」


 思い返すのは、一人で魔物を殺す日々が辛かったのだというセレスの言葉。

 そして弱い俺になにかできることがあるとすれば、心当たりは一つだけだったから口に出す。


「どういう、ことですか?」


 理解しかねているセレスに、俺は語気を強める。


「いいから答えろ」

「……それは、そうかもしれませんが」

「だったら」


 言って、俺はセレスを真っ直ぐに見つめる。


「……それが今のあんたの救いになるのかは分からないが、それでも俺は側にいてやる。あんたがどうなっても、戦役が終わっても、ずっと側にいてやる」


 救うと言った訳でもない。代わりになると言った訳でもない。

 けれどセレスは、その言葉に呆気にとられて何も言わなくなる。

 そしてしばらくすると、彼女はまた泣き顔になった。


「……側に、いてくれるんですか?」

「ああ」


 俺はそう答える。

 セレスの頬を涙が伝った。


「わたしが、ばけものになっても……?」


 声は震えていた。

 俺はまた頷く。


「当たり前だ」

「わたしが……わたしで、いられなくなっても……?」

「約束する」


 俺がそう言い切ると、セレスは人の手で口を塞いで嗚咽を抑えようとする。

 しかしそれもやがてはこらえ切れなくなって、彼女は大声をあげて泣いた。

 まるでずっと我慢していたことを吐き出すように、俺の胸に顔を埋めて泣き続けていた。


 ―――


 ややあって泣き止んだセレスと二人で風車の影に腰を下ろす。

 そして、ずっと長い間月に照らされる花を見ていた。


「ロクさん」


 ふと、俺の右に座っていた彼女が語りかけてくる。


「なんだよ」


 俺が答えると、セレスはもじもじと恥ずかしげな様子で口を開いた。


「あのですね、実は私、重大な発見をしたんです」

「そうか」

「ええ。……あなたの名前に、ついてなんですが」

「俺の名前?」


 その言葉に流石の俺も意表を突かれる。

 たった二文字。

 しかも意味は悪魔の数字とかろくでなしとかそんなもんだ。

 今さら何か発見があるとも思えなかったが。


「俺の名前がなんだよ」


 ともかく俺が聞き返す、とセレスはにっこり笑って咳払いを一つする。


「いいですか? ろくでなしとは言いますが、それがどういう意味かあなたは考えたことがありますか?」

「ゴミ野郎ってことか?」


 俺はなんの気もなく気安く答える。

 すると彼女は慌てて首を横に振る。


「い、いえ。そういうことじゃなくて。そうじゃなくて、『ろくでなし』っていうのは、『ろくじゃない』ってことなんですよ」

「……つまり、どう言うことだ?」


 頭がこんがらがってきた俺が訝しみながら言うと、セレスは得意げに頷いた。


「『ろくじゃない』のは悪い意味。つまり『ろく』は、本来良い意味なのです」

「はぁ……」


 なんとなく話が読めてきた。このお人好しはまた下らないことを考えているらしい。


「そしてその『ろく』の意味とは『まっすぐな心の持ち主』。つまりあなたはろくでなしのロクではなく、まっすぐな心のロクだったのです!」

「ばっかじゃねぇの」


 ない胸を張ってそんなことを言うセレスに、俺は心底呆れ果てる。


「俺を殺すために育ててたババアが、そんな意味で名前つける訳ねぇだろ」


 俺が鼻を鳴らして言うと、セレスはなにかむきになって言い返してきた。


「では私が名付けます。シスターセレスの名において、あなたを今日からまっすぐな心のロクと呼ぶことにします」

「やめろバカ」


 そんな風に呼ばれたんじゃむず痒くて早晩死に至るだろう。

 だから俺が拒絶すると、彼女は口をへの字に引き結んでむくれていた。


「…………」


 俺はなんだかおかしかったので噴き出して、それから頭をかきつつ視線を合わせた。


「……ま、でも、ありがとな」


 今度は彼女の目を見てそう言えた。

 セレスは嬉しそうに笑った。



 俺は生まれて初めて、生きる理由を見つけた。







 花の記憶・完



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