最終章 「そして、飛鳥へ」
桜が蕾を膨らませ始める季節になった。
朝晩は、まだ時折冷たい風も吹く。しかし、人々の心は既に春を迎える喜びに満ち、寒く厳しい冬に耐えてきた大和盆地のあちこちでは、様々な生き物が活気を取り戻しつつあった。
稲目は一人、摂津の渋川を目指して馬を駆っていた。
供人をつれず、一人だけで出かけるのは、昨今では珍しい。余計なことに煩わされず、存外気楽でいいものだ……とは思ったが、やはり五十歳を越えた壮年の身には、馬での長距離の移動は予想以上にこたえる。
だがそれでも、稲目は家人の反対を押し切り、たった一人で出発した。
--今あの男に会わなければ、もう二度と会う機会はないような気がする。そんな旅立ちの時に、余人を伴っていく気になどは到底なれなかった。
朝のうちに飛鳥の豊浦にある自邸を出発した稲目だったが、目的である渋川の物部邸についた時には、すでに昼過ぎを回っていた。
門の所で馬を下り、轡を厩部の男に預けていた稲目は、そこで思わぬ二人連れに遭遇した。
「……これは、蘇我の大夫どの」
嫡子の守屋を連れた屋敷の主・物部の尾輿は、稲目の姿を見かけると、朗らかに声をかけた。
「貴公がこの渋川までおいでになるとは、珍しい。父を見舞いに来て下さったのかな?」
「荒鹿火どのの病が思わしくないとお聞きしたのだが……お加減は、いかがか?」
「ああ。確かにここ数日、危なかったのですがな。気候が良くなったせいでしょう。今日あたりは、持ち直しておりますよ」
実父が危篤だったというのに、尾輿は平然と答えた。
「--ご子息と……どちらかへ、お出かけで?」
病の父を置いて外出しようとしている尾輿に、稲目はやや非難めいた眼差しを向けた。それに気付き、尾輿はばつが悪そうに苦笑する。
「前々からの約束がありましたのでな。反故にするわけにもまいりますまい。これでも大連ゆえ、色々と付き合いもございます」
四十になる尾輿は、父・荒鹿火から族長の座を引き継いでいたが、同時に宮からも大連の位も授かっていた。
しかし尾輿は、典型的な武人であった荒鹿火とは違い、むしろ政治家としての色のほうが強い。
彼はその生まれ持った資質と手腕を存分に振るい、荒鹿火の隠居後も、宮内において物部が第一の権勢を保つことに成功していた。
「父も、もう八十に近い。随分長いこと生きました。病といっても、自然の成りゆき。あの人は、ご自分の人生に悔いはありますまいよ……。しかし、旧友である貴公が来て下さったとなれば、喜びましょう。ごゆるりと、昔語りなどなさってくだされ」
そういうと、尾輿は軽く微笑んで門を後にした。
「では、大夫どの、失礼いたします」
稲目に丁寧に礼をすると、守屋も父の後に従う。
たしか、彼は今年十八になる青年である。一目見ただけだが、その立ち居振る舞いには隙がなかった。
荒鹿火の武人の血は、子の尾輿よりも、むしろ孫の守屋のほうに濃く受け継がれているのかもしれない。遠ざかる親子を見送りながら、稲目はそう思った。
……やがて屋敷の使用人に案内され、稲目は荒鹿火が寝む別棟へと向かった。
簾をくぐって室の中へ入ると、そこには静かに伏せている荒鹿火の姿がある。
稲目が荒鹿火の傍らに座るのを見届けると、気を利かせたのか、使用人はすぐに退出した。
二人きりとなった静かな室の中で、稲目は目を閉じたままの荒鹿火の姿を見つめる。
年老いた荒鹿火は、小さくやせ細っていた。解いた髪にも既に黒いものは混じっておらず、その顔には幾筋もの皺が走っている。
そこには、かつて豊葦原に名を轟かせた大将軍の面影はなかった。
病が重いと聞いていたので、もっと苦悶に満ちた表情をしているかと思ったのだが、荒鹿火は存外穏やかに眠っていた。
少し安堵し、稲目はそっと声をかける。
「……荒鹿火どの」
彼が目を覚まさなければ、このまま退出しようと思っていた。--だが少しして、荒鹿火はゆっくりと薄目を開ける。
「……おお。稲目どの」
稲目の姿を確認して、荒鹿火は嬉しそうに薄く微笑んだ。その青白い頬に、ほんの少し生気が戻る。
「見舞いに来てくだされたか。ありがたい」
「危篤ときいて、飛んできましたぞ。しかし、お元気なご様子。安心しました」
「……ふん。わしがまだくたばらぬと知って、残念がっておる者ばかりじゃろう」
荒鹿火は気丈に憎まれ口を叩いた。
「しかし、かつては大和にこの将ありと謡われたわしも、落ちぶれたものよ。他人はおろか、我が子でさえ、様子を伺いにも来ぬ」
「尾輿どのは、お忙しいのですよ。立派に大連の職を努めておられるではないですか」
稲目は、先刻遭遇した尾輿たちの姿を思いおこしながら荒鹿火をなだめた。
「それに、荒鹿火どのの武勇を忘れられる者などおりませぬよ。この私も、よく眼裏に焼き付いております。近くで見せていただいておりますからな」
口では世辞を言っていたが、稲目は心の中で荒鹿火に対して哀れを催した。
あれほどの武勇と権勢を誇った男でも、最後はやはり、一人で寂しく死んで行かねばならないのか。
だとすれば、虚しいものだ。今この世を生きている者たちも皆……。
「……それにしても。貴公とは、不思議な縁でござったなあ」
天井を見上げながら、荒鹿火はしみじみと呟いた。
「戦の中でたまたま拾われた子供と、その後何十年にも渡って政を共にすることになるとは。あの時のわしにも予測できなんだ」
「……それなら、私の方こそですよ。恐ろしい大将軍だったあなたと、こうして昔語りできる日がこようとは……」
稲目は可笑しそうに苦笑した。
本当に、人の運命とは分からぬものだ。
--今となっては、何もかもが懐かしい。
後に「葦田葛城の乱」と呼ばれた畿内の大戦を制した「男大弩の大王」は、大和入りした後、磐余玉穂宮を正式な在居と定め、そこで終生政を行なった。
あの乱の後、葛城氏は残っていた全ての所領を召し上げられた。一族は急速に衰退し、やがて没落した。
かろうじて葛城との連座を免れた大伴金村は、一時その権勢の大半を失ったが、それでもしぶとく宮内で生き残り、時の流れの中で少しずつ己の発言権を回復していった。
しかし、「男大弩の大王」の治世の中盤に起こった外交政策の失敗--特に、半島にある任那国の百済への割譲事件を機に金村は政局を追われ、完全に失脚してその後はひっそりと隠居することになった。
「男大弩の大王」は、その政権を盤石なものにするため、彼に協力する有力豪族の姫を多く召し入れて妃とした。その中でも、尾張氏の姫・目子媛との間には、勾の皇子と高田の皇子という二人の兄弟をもうけた。
また大王は、後に諸臣の勧めを受け入れ、「若雀の大王」の異母妹にあたる、手白香皇女を皇后に迎えた。
手白香皇女は、二十四代目の大王・「億計の大王」の皇女である。それ故この婚姻には、一族の傍系であり、ある種の余所者であった「男大弩の大王」が「去穂別の大王」から続く前王統の血脈との融合を果たすという思惑が絡んでいた。やがて二人の間には、広庭の皇子という三番目の皇子が生まれた。
「男大弩の大王」となった深海に連れられて磐余玉穂宮に入った稲目は、始め深海のごく私的な近習として仕えていた。
稲目は真手王の死の際に約束した通り、自分の全てを捨てて深海に尽くした。その内に、自分でも意外だったのだが、官僚的な仕事にも才を発揮するようになった。
成長するに従い、稲目は周囲にその優秀さを認められ、公式な表向きの政にも参加を許されるようになった。
やがて、公私共に大王の最も信頼する側近の一人となった稲目は、正式に「大夫」という位を授かり、通称にしていた地名の「宗我」にちなんで「蘇我」という氏姓を与えられ、飛鳥の豊浦に屋敷を構えるまでになった。
今では、押しも押されぬ朝廷の第一人者の一人である。周囲には、異例の出世を遂げた稲目を妬む声も多かった。特に、その出自は色々と取り沙汰されたものである。
葛城氏の没落以後、稲目は思うところあって、自らが葛城の出身であることを一切周囲に漏らしていなかった物部や大伴は無論、大王でさえも、稲目の出自は知らなかったのである。ただ、「葦田葛城の乱」の際に功あって取り上げられ、以後重用されることになったが、それ以前は卑しい身分であった者、とされていただけだった。
進取の気風にも飛んでいた稲目は、飛鳥に進出していた渡来人たちを保護し、その進んだ技術を積極的に取り入れる事で、富も貯えていった。そんな事から、宮人の中には、稲目を渡来人の出だと噂する者も現れた。それらは根拠のない流言だったが、稲目は構わず放っておいた。むしろ、渡来人だと思われていたほうが、これ以上出自を詮索されることがなくてよいと思った。
「男大弩の大王」擁立の立役者となった物部の荒鹿火は、晩年になっても、筑紫地方で起こった大王の治世上最大の戦・「磐井の乱」を制圧するなど、武人としての生涯を貫いた。
大王は、稲目を信頼し、荒鹿火を尊重していた。二人はそれぞれ立場も年齢も違ったが、共に大王の側近として多くの政に携わり、長い年月に渡って宮内で意見を交わす事となった。
稲目と荒鹿火は、「男大弩の大王」の治世における両輪だったのだ。大王のために互いに協調するその姿を見て、二人をまるで年の離れた友であるかのように錯覚している者達も多かった。
--だが、それは、違う。
確かに晩年になるに従い、荒鹿火は稲目に対して一種の親しみを--長い苦難を共に乗り越えてきた、戦友に対する共感のような気持ちを抱くようにもなった。大王擁立期の混乱を知る、今では数少ない仲間、という意識も彼にはあっただろう。
だが稲目は、荒鹿火に対して心からの親しみを抱いたことは、一度もなかった。 確かに、その手腕には一目置いている。彼の立場も尊重してきた。表だって反目したこ
とは、これまでない。
--だが、稲目は……荒鹿火が何をしたか、知っているのだ。
「……荒鹿火どの。むごいことを言うようですが、恐らくお会いするのはこれが最後になるでしょう。我らが共にお仕えした男大弩の大王も先年病にてみまかられ……皇子が、その御位をお継ぎになられます。時代は次の者たちに移っていくのですよ。ですから……その前に、私はどうしても確かめておきたい」
稲目は静謐な眼差しで、荒鹿火の細い目を見つめた。
「若雀の大王を暗殺した者は……誰だったのですか」
落ち着いた声音で尋ねると、稲目は黙って荒鹿火の答えを待った。
「若雀の大王」暗殺--それは、「男大弩の大王」擁立にまつわる、全ての事柄が始まるきっかけとなった事件だった。
もし「若雀の大王」が急死しなければ、「男大弩の大王」は立たず、「葦田葛城の乱」など起こらず--稲目も、今ここにはいなかったはずだ。
様々な者たちを出会わせ、その運命をかき回し、栄光と滅びを与えた--その起点が、「若雀の大王」暗殺だったのだ。
表向きには、「若雀の大王」を個人的に恨んでいた平群の鮪という男の残党の仕業だったということで決着がつけられている。「男大弩の大王」即位後、その下手人は捕まり、すでに処刑にも処されていた。
--だが、恐らく、真実は違う。
あの事件は、時代の流れをここまで変えたのだ。平群の残党の仕業などであるはずがない。
真相は、きっと、もっと深いところにある。
そして、この男は間違いなくそれを知っているのだ。
真実を抱え、このまま一人で死んでいくなど許さない--。
「……わしだよ」
目を閉じて、荒鹿火は短く答えた。
「正確には、わしの配下がやった。しかし、大王暗殺の指示を下したのは、この荒鹿火だ」
荒鹿火は、弱々しいが、迷いのない口調で稲目に告げた。
「若雀の大王は……彼の持った血脈は、葛城の古い古い蔦に完全に絡めとられていた。葛城と大王家は、腐りゆく比翼だ。古から続くあの淀んだ流れを、誰かがどこがで断ち切らねば、この大和に未来はない。わしは、葛城の枯れた蔦に捕えられた王朝を廃し、新しい歴史をつくりたかった。……葛城は滅び、大王は入れ代わった。わしは、満足だよ……」
荒鹿火は、従容とした様子で淡々と告げた。
もはや死を目前にしたこの今、彼は、謀略と戦火に彩られてきた己の生涯に対し、一片の後いも抱いてはいないのだった。
「そうでしたか。やはり、貴公が……」
稲目は嘆息しながら低く呟いた。
--やはり、この男が、葛城を潰そうとしたのだ。
「……だが、一つだけ、心残りがある」
稲目の方を向いて、荒鹿火は搾り出すように言った。
「男大弩の大王は、後継に長子の勾の皇子を指名してみまかられた。……しかし、末子の広庭の皇子の側に、それを承服しかねる動きがある」
「……広庭の皇子は、皇后所生の嫡子にあたられますからね」
「しかし、まだ幼い。男大弩の大王は、ご自分が即位した時の混乱を鑑みられ、諍いを避けるために、あえて命あるうちに後継をご指名なさったのだ。わしは、その遺志をお守りして差し上げたい。……しかし、もうわしには残された時はない。……蘇我の大夫」
荒鹿火は床の中から、やせ細った右手を稲目に差し出した。
「……どうか、わしに代わって、勾の皇子をお守りしてくれ。頼む……!」
荒鹿火は、震える声で、必死に稲目に訴えた。
大和の猛将と恐れられた男の、これが、本当に最後の願いなのだ。
「……ええ。ええ、確かにお守りしましょう。我らの『皇子』を……」
稲目は荒鹿火の手を取り、力強く頷く。
稲目は、荒鹿火を安心させるように微笑んで見せた。だがその口元には何故か--憫笑に似た蔑みが浮かんでいた。
渋川の物部邸を退去した稲目は、豊浦の自邸に向けて馬を走らせながら、先日の磐余玉穂宮での出来事を思い出していた。
公務を終えた稲目は、宮の奥殿に呼び出されたのだ。
彼を呼び出したのは、広庭の皇子--男大弩の大王の第三皇子にして、唯一の皇后の嫡子だった。
上座についた皇子の前で、稲目は丁寧に拝礼した。
広庭の皇子は、たしか御年まだ十三歳--稲目の息子の馬子と同い年だったが、ひどく利発で、年に似合わぬ威厳を備えていた。
「--蘇我の大夫、稲目か。……面をあげよ」
厳重に人払いした室の中で、広庭の皇子は大王のように命じた。
稲目は、皇子の言葉に従う。しばらく見ぬ間に、また皇子は風格が増したように感じられた。
「お呼びでございましょうか、皇子さま」
「ふん。用があるから呼んだのだ。--勾の兄上が、次の大王になるそうな。そなた、知っておろうな」
広庭の皇子は、単刀直入に切り出した。
「--は。存じております」
「勾の兄上は、人はよいが、ただそれだけの男だ。父上は兄上をかわいく思われたのだろうが、それでは宮は治まらぬ。--大王の、器ではないよ」
皇子は、自分の兄をにべもなく言い捨てた。
「--勾の兄上の次は、高田の兄上だそうだ。あの愚か者の、高田! そこまで、がちがちに順番を決めてどうする? 俺は、奴らが天寿をまっとうするまでなど、待てぬぞ?」
広庭の皇子は苛立ったように床を叩いた。
「父上は、ご自分が苦労されたものだから、よけいな気を回して、間違った遺勅を残されたのだ。奴らは、大王に相応しくない」
広庭の皇子は躊躇なく言い切った。
「大王になるのは、この俺だ。皇后の子だからではない。俺に、その資格があるからだ。若年などということは、理由にもならぬ。--蘇我の。俺は、兄二人を討つぞ。そして、俺が大王になる」
「……」
皇子を見上げた稲目の額を、冷たい汗が流れ落ちた。
広庭の皇子はあけすけに語っているが、これは明らかに武力による政権奪取を持ち掛ける話だ。余人に聞かれたならば、立場はおろか、命すら危ない。
「稲目、お前のことは見てきた。お前は、優秀な男だ。俺につけ。俺を、大王にしてみせろ。そうすれば--俺は、お前を『大臣』にしてやる」
「大臣に……でございますか?」
掠れた声で、稲目は皇子に問い返した。
「そうだ。先の葛城の長が亡くなって以来、ずっと空席のままになっていた『大臣』の座だ。--出自の卑しいお前は、どれほど優れていようと、今のままでは大夫止まりがせきの山だ。だが、俺はそんなことには拘わらぬ。俺の為に力を尽くす者には、最高の位をあたえる」
「最高の位を……」
「ああ。大夫ごときで満足しているようなお前ではあるまい? お前が『蘇我』の始祖となり、以後永代に続く一族の繁栄を築いて見せろ!」
広庭の皇子は、共犯者を脅すように、稲目の瞳を覗き込んだ。
この年若い皇子には、わかっているのだ。稲目が内に抱え込んだ、深い野心の炎が。
稲目の心が揺れたのは、皇子の言った「一族の繁栄」という言葉だった。
確かに広庭の皇子に加担し、成功すれば--そこから、蘇我一族の栄光に満ちた歴史は始まるだろう。
だがそれは、実は「始まり」ではない。稲目の体に流れる「葛城の血」の--誰もが滅んだと思っている、葛城一族の栄光の「復活」なのだ。
広庭の皇子は、「近いうちに返答しろ」と言った。
彼には、確かに凡庸な兄二人とは違った、非凡な才が--一種独特の、人を引きつける能力がある。
だが同時に、皇子は危うい危険性をも孕んでいた。広庭の皇子は、切れすぎる諸刃の剣なのだ。使い方を誤れば、自らの身をも滅ぼす。
稲目は、自分一人では判断できないと思った。
尋ねなければならない、『彼女』に。
豊浦の自邸に戻った稲目は、すぐに裏庭に設けた「神域」へと向かった。
そこには、一本の若い銀杏の木が植えられている。
葛城の所領が没収されるとき、稲目はそれをこっそりと見に行った。そして、何かに呼ばれるようにして葛城山に入り込んだ稲目の眼前に現れたのは、齢数百を経た、と思しき大銀杏の神木だった。
自分でも何故そんなことをしたのか判らないが、稲目は大銀杏の根の一部を掘り起こして持ち帰り、自宅の裏庭に埋めた。根付くかどうか心配だったが、十数年を経るうちに、銀杏は立派な若木へと成長した。
不思議なことに、その銀杏は、一年中金色の葉をつけているようになった。
稲目はこの若木を神木と定め、周囲に注連縄を張って神域を作ると、自分以外の家人が立ち入らぬよう、厳重に言い含めた。
その頃からだった。稲目の前に、『彼女』が現れるようになったのは……。
稲目は、夕日を浴びて金色に輝く銀杏の前に立つと、それに向かって呼びかけた。
「……お尋ねしたきことがございます。来たりませ、我らが守り神!」
稲目の呼び掛けに答えるように、突如として一陣の冷風が吹いた。
一斉に金色の葉が舞う。
「……我は、善事も一言、悪事も一言に言いのべる神。ことさかの、葛城の一言主の大神なるぞ」
稲目が顔を上げると、若木の一番低い枝の上に、奇怪な装束をつけた嬢子が座っていた。
彼女は、膝丈の短い裳をつけ、素足に高歯の下駄を履いている。
少女の長い髪は輝く銀髪で、左手には古い長矛を握っていた。そして、彼女はその顔に複雑な文様の入った仮面を付けている。
「何用かな、稲目」
少女は稲目を見下げながら恬然と言った。
彼女は、十四、五歳くらいに見える。稲目の前に姿を現わすようになってから長いが、その容姿はずっと変わることなかった。
この「一言主」が初めて稲目の前に出現したのは、宮で重用され始めた彼が、己の出自に悩み出した頃だった。
古い葛城の神である「一言主」は、稲目が紛れもなく誇り高い葛城一族の末裔であることを告げ、その上でその出自を隠し続けるよう命じた。
彼女は、事あるごとに稲目の前に現れ、彼の知り得ぬ様々な事柄を教え、迷える稲目を導いてきた。
稲目が宮内で今日の地位を築けたのも、全ては彼女から下された託宣があったからと言っても過言ではない。
「次代の大王について、お尋ねしたきことがあります」
そういうと、稲目は一言主に、広庭の皇子から持ち掛けられた話のあらましを語った。
黙って稲目の話を聞いていた一言主は、しばらく考え込むように俯いていたが、やがて得心がいったように何度も頷いた。
「……『葛城は滅びない。形を変えて、生き残る』か。成程ね……円がやろうとしてたのは、こういうことだったのね……」
ひとり感心したように呟き、深くため息をつく。
「一言主さま、『円』とは……?」
「んー? とね、お前には教えない。お前が知る事ではないから」
そういうと、一言主は、からからと笑った。
彼女は、この世ならぬ生き物である。彼女は磊落で、飄々としていて、掴み所がない。
長い間に、稲目は一言主との付き合い方を心得ていた。とりあえず、彼女が告げる気のない事柄については、深く聞き返しても無駄である。答えは、決して返りはしないのだ。
「一言主さま、蘇我はどうすればよいでしょうか」
稲目は、肝心な事項についてのみ重ねて問うた。
「んー? そうねえ……」
笑いが納まった後、一言主は再び思案を巡らせる。
「……ああ。いいんじゃ、ない? 広庭の皇子って確か、『欽明』になる奴よ。それは、新たな飛鳥の時代の始まりだわ。『継体』は時代を繋ぎ、『欽明』は時代を拓く。……うん、それっていいかも」
一言主は、闊達に託宣と思しきことを告げた。
理解しがたいその発言の内容を、稲目は必死に頭の中で咀嚼する。
「……つまり、広庭の皇子につけと……?」
「そっから先は、自分で考えなさいよ。あたしは、託宣を下すだけよ。その後を決めるのは人間だわ」
いつものように鷹揚に言うと、一言主は焦れたように足をぶらつかせた。
「では……」
稲目が口を開きかけた時、彼の背に声をかける者があった。
「--父上」
稲目は驚いて振りかえる。
何時の間にか稲目の後ろには、息子の馬子が立っていた。
「馬子! ここに来てはいけないと、厳しく言っておいただろう!」
「すみません、父上。宮から急なお召しがあったので、僕が呼びに……でも……」
父に叱責された馬子は、素直に詫びる。
しかし馬子は何故か戸惑うように銀杏の木を見上げ、やがておずおずと稲目に尋ねた。
「父上、あの……あの、木の上にいる、不思議な方はどなたなのですか?」
「--なに!?」
稲目は驚愕して、我が子の顔を凝視した。
一言主の姿は、余人に見えるものではない。
その姿を目にできるのは、葛城の血を引く「長」のみ--そう、一言主から聞かされていた。
「……お前は、あたしが見えるの?」
不意に、枝の上から一言主が馬子に声をかけた。
「……はい」
馬子は上目遣いで、恐る恐る答える。
「そう。……じゃあ、お前に託宣をあげるわ。--こっちにおいで」
一言主は、馬子を手招きする。
馬子は困惑して、傍らの父の顔を見上げた。
「父上--」
「おそれることはない。あの方は、我が一族の守り神だ。とても、尊い御方だよ。そしてお前も、古い一族の血を引くものだ。……さあ、お行き」
稲目は、息子の背を押した。馬子は、ゆっくりとした足取りで、一言主の方に近づく。
眼下に立った馬子の姿を一瞥した一言主は、不意にその口元に鮮麗な笑みを浮かべた。
「--お前は……必ず、物部を討て」
「物部を……!?」
馬子は驚嘆したように、目を丸くする。
「お前は、成長したのち、必ず物部を討て。--今ここにあるお前は、ただの一個の存在ではない。お前の後ろには、背負った血の連鎖がある。物部を討つのは、お前の運命であり、一族の宿願であり……でもって、ちょっとは、あたしの恨みでもある」
一言主は重々しく厳然とした態度で告げていたが、最後になると、急に砕けた口調になった。
微苦笑を浮かべる彼女の姿を見たとき、稲目は長い間ずっと気にかかっていた事を聞いてみたくなった。
「一言主さま」
「なに」
「私は幼い頃、一人の葛城の姫と出会いました。彼女とは、わずかな間行動を共にしただけですが、あの姫との出会いが、私が私になる……『蘇我』が生まれる、全てのきっかけだったように思います。その姫は、倭文姫と言いました。--一言主さまは、倭文姫と何か関係がおありですか?」
稲目は、そわつく心を制しながら尋ねた。
倭文とは、瀬田の戦いで離れ離れになって以来、一度も会っていない。深海から、彼女はあの時の戦いで、戦死したのだと聞かされていた。
稲目は、あの姫が好きだった。放っておけない姉のような親しみを感じていた。
倭文姫とは、出会ったばかりだった。これからずっと一緒にいて、色んなことをしてあげられるのだと思っていた。
しかし、彼女は突然稲目の前から消えた。共にあるはずだった未来は、突如奪われたのである。
行き場を失った稲目は、その空洞を埋めるように深海に仕えた。そう、稲目にとって深海とは、倭文の代わりに過ぎなかったのである。
倭文は、葛城の姫だった。彼女もやはり、葛城を襲った敗北の渦の中で、運命を共にする存在だったのかもしれない。
だが……。
--だが一方で、稲目には、どうしてもあの姫が死んだとは思えなかった。
あの不思議な姫は、今もどこかで生きているような気がする。葛城の血が稲目の中で生きているように。あの姫も、きっと。
稲目は、枝の上の一言主を見上げた。
彼女は、倭文姫とは、まったく似ていない。
年も、姿も、髪の色も、口調も何もかも--けれど、それでもどこか、稲目の中では、一言主と倭文の印象が重なるのだ。
「--お前には、教えてあげない」
しばらくの沈黙の後、一言主はわざと意地悪そうに言った。
「お前は、あたしを継ぐ者ではないから。あたしの常若の呪いは遅い。恐らく、次の後継者が現れるのは、あと三、四世代後のこと……」
独言のように呟くと、一言主はにっと笑って唇の両端をつり上げた。
「……でも、稲目。その子、お前の少年の頃にそっくりね」
再び、突風が吹いた。稲目も馬子も、思わず目を閉じる。
次に瞳を開けた時--気紛れな一言主は、そこから姿を消していた。
「……父上、今のは……」
「あの方は、葛城の一言主。葛城の一族を見守る、託宣の神だ」
「葛城?」
「……そうだな。お前にも、話してあげよう。けっして滅びない、誇り高い古い一族のことを……」
馬子を伴いながら、稲目は屋敷へ向かって歩を進めた。
(この子には、一言主さまが見えた……。では、息子たちの中で、『蘇我』を継ぐのは、この子なのだ)
稲目は歩きながら、心の中で、一族の次の長を馬子と決めた。
屋敷へ戻ったらすぐにも支度をし、宮へ伺わなくてはならない。--広庭の皇子に、決意のほどを伝えるために。
動乱が始まる。--また、新しい時代を迎える為の動乱が始まるのだ。
昔とは違い、今は、政治も文化も人もみな、全てが飛鳥へと向かって集まりつつあった。
この飛鳥を中心とした、今までにない、新しい時代が始まるだろう。そしてその誕生に行き合うのは、この自分と……自分のあとを継ぐ「蘇我馬子」なのだ。
この戦を勝ち抜き、蘇我は栄光の時を迎えることが出来るだろうか。--いや、きっと勝って見せる。
そして、永代に続く、「蘇我」の繁栄を築いて見せよう。
ああ、そして、その「蘇我」の栄華の中には。
新しい時代の覇者である「蘇我」の中には、古い古い「葛城」の血が息づいているのだ。
葛城は、滅んでいない。
何度謀略を仕掛けられ、何度敗北を迎えようとも、決して葛城は滅ぶことはない。
誇り高い「葛城」の血脈は「蘇我」へと形を変え、これからどこまでも続いていくのだ。
そして、きっと、次の時代の華となるだろう。
【完】
長い話をお読みいただき、ありがとうございました。
この作品は、過去オフラインで制作してきた一連の「オリジナル古代ファンタジーシリーズ」の、オンライン版の第一弾になります。
この他にも、古代吉備国や神代の出雲、神武東征期や高天原の物語など、オフでの様々なストックがありますので、また折を見て、ゆっりとオンライン化していけたらいいな、と思っています。




