第四部 あなたのものになる音
大学を卒業してからも彼は彼女の隣にいた。何か特別な約束をしたわけではない。卒業式の日にこれからも一緒にいようと言ったわけでもない。気が付けば一緒にいることが増えていて、いつの間にかそれが当たり前になっていた。彼女が練習している部屋に、彼がふらりと足を踏み入れる。
「まだ弾いてるの?」
「そうだよ」
「何時間?」
「分からない」
「またそれ?」
彼が小さく肩を揺らして笑い、彼女もまた柔らかく微笑み返す。そんな穏やかな日々の繰り返しだった。
彼女は卒業後、ピアニストとして演奏の仕事を始めた。最初は百人も入ればいっぱいになるような、小さなホールでの演奏ばかりだった。教会の一角を借りた演奏会、学校から呼ばれて行う小さなコンサート、音楽祭の中のほんの一時間ほどの演奏。決して大きな舞台ではなかった。しかし、彼女はそのくらいが好きだった。客席が見える。一人一人の顔までは分からなくても、人がそこにいることが分かる。咳をする人、少し身体を動かす人、目を閉じて聴いている人。演奏が終わったあと静かに拍手する人。少し遅れて拍手を始める人。何もせず、そのまま立ち上がって帰る人。全部が違っていた。そしてそれが嬉しかった。以前なら客席を見るだけで、彼女の中には一つの願いが生まれていた。『上手いと思って欲しい』、『また聴きたいと思って欲しい』、『一番だと思って欲しい』。そんな願いだった。だが、今は違う。演奏する前に何を思えばいいのか分からないことすらあった。でも、それで良かった。むしろ、その何もないという感覚が、彼女には大切だった。
ある日、小さな教会での演奏を終えたあと、一人の女性が彼女のところへ来た。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、聴いてくださってありがとうございました」
女性はどこか迷うように、僅かに言葉を詰まらせてから口を開く。
「なんだか……昔のことを思い出しました」
「昔のことですか?」
「はい。何を思い出したのかは、うまく説明できないんですけど」
そう言って、女性はどこか気恥ずかしそうに笑った。
「不思議ですね」
「ふふっ……そうですね」
彼女はそれ以上聞かなかった。昔の彼女なら聞いていたかもしれない。でも今は違う。その人が何を感じたのか、それはその人のものだから。彼女の音を聴いて、その人の中に何かが生まれたのなら、それだけで十分だった。その生まれたものまで、自分のものにする必要はない。そう自然と思えるようになっていた。
やがて彼女の紡ぐ演奏について、少しずつ噂が広がっていった。
「一度聴いたら、どうしても忘れられないんだ」
「あの人は、すごく変わった音を出す人だよ」
「なんだか、深く惹き込まれてしまうの」
「音がすぐ耳元にあるみたいに、近い感じがするんだ」
「何というか……とても特別な感じする」
語られる言葉は人それぞれだった。当の彼女自身は噂などあまり気にしていなかったが、周囲はそれを放っておかなかった。演奏会の主催者から声が掛かることが日を追うごとに増えていった。
「もう少し大きなホールで弾きませんか?」
「海外の音楽祭へ参加してみる気はありませんか」
「今度企画している特別公演に、ぜひ出演していただきたいのですが」
新しい仕事の話が来るたび、彼女は一つずつ丁寧に考えた。そしてその多くを辞退した。大きな舞台が嫌いなわけではない。ただ、自分がそこでどのような音を鳴らし、何をすればいいのかが、まだよく分からなかった。観客を増やすこと、名前を広めること、評価されること。それらを目的にしてしまえば、昔の自分に戻ってしまうような気がした。
彼にその話をすると、彼はいつも同じように答えた。
「弾きたいなら弾けばいいんじゃない?」
「……簡単に言ってくれるよね」
「だって、そうでしょ」
「怖くないの?」
「怖いよ」
彼はあっさり答えた。
「君が大きなところで弾くの、僕も緊張する」
「あなたが?」
「するよ」
「どうして?」
「君が緊張してるかもしれないからね」
彼女は思わず笑った。
「私はそんなに緊張してないよ」
「なんだ、じゃあ僕だけ損してるじゃん」
「ふふ」
そんな他愛のない会話をしながら、彼女はいつも心の中で噛みしめていた。この人がこうして隣にいてくれることが、どれほどありがたいことか。彼は彼女の音を褒めるだけではなかった。時には、何も言わないことすらある。演奏を聴き終えたあと、ぽつりとこんなことを漏らす日もあった。
「今日は長かったね」
「感想、そこ?」
「うん。長かった」
「それだけ?」
「それだけ」
彼女は顔をほころばせる。そんな飾り気のないところも好きだった。彼は彼女の演奏を評価する人ではなかった。彼女がどんな音を出したかを、ただそのまま受け止めて聴いている人だった。そして彼は彼女の力を知っていた。全部ではない。でも、彼女が昔から抱えてきたものについては、既に知っているのだ。かつて彼女は一度だけ、彼に全てを話したことがある。
幼い頃、自分が『こう思って欲しい』と思って弾いた通りに、人の反応が変わってしまったこと。祖母には効かなかったこと。十三歳の時、何も思わずに弾いてみたこと。その時初めて、自分がピアノを好きなのだと分かったこと。そして今も時々怖くなること。自分が本当に何も願っていないのか。自分の音は、本当に誰かを操っていないのか。話し終えた時、彼はしばらく黙っていた。そして、静かに言ったのだった。
「それでも、君は弾くんだね」
彼女は少し考え、深く頷いた。
「うん」
「じゃあ、僕は聴くよ」
ただそれだけの、短い言葉。それが彼女にとっては何より嬉しかった。
そして、彼女が二十三歳を迎えた年。ある大きな国際音楽祭から、正式な出演依頼が届いた。これまで彼女が断ってきたものとは比べものにならないほど大きな催しだった。世界中から名だたる演奏家が集い、客席は満員となる。新聞や雑誌にも取り上げられる大舞台。
依頼のメールを読み終えたあと、彼女はしばらく画面を見つめていた。
「どうしたの?」
隣でくつろいでいた彼が尋ねる。
「……これ」
彼女は静かに画面を見せた。彼は視線を滑らせる。
「大きいね」
「うん……」
「どうするの?」
「分からない」
彼女は正直に答えた。
「怖い?」
「少し」
「じゃあ、やめておく?」
「……それも、なんだか違う気がするの」
彼はそれ以上言わず、黙って彼女の横顔を見つめた。彼女はそっとメールを閉じる。
「私、やってみたい」
「うん」
「でも、怖い」
「うん」
「どうしたらいいかな」
彼は少しだけ可笑しそうに笑った。
「それ、僕に聞くの?」
「聞く」
「じゃあ……弾きたいかどうかだけ考えればいいんじゃない?」
彼女は黙り込んだ。弾きたいという気持ちはあった。大きな舞台だからではない。有名になりたいからでもない。ただ一度、その場所で音を出してみたいと思った。どんな風に響くのか、どんな音になるのか。それを自分自身の耳で聴いてみたかった。
「……やる」
「うん」
「出るね」
「うん」
「怖いけど……」
「知ってる」
「あなたも来てくれる?」
彼は穏やかに笑った。
「もちろん」
こうして、彼女の出演が決まった。
音楽祭当日。出番を待つ舞台袖の空気は冷たく重かった。客席はこれまで見たこともないほど果てしなく広がっている。照明の向こう側に、幾重もの人の影があった。想像を絶する数の人。彼女は一度目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
昔の自分ならここで一体何を考えていただろう。『一番になりたい』、『すごいと思われたい』、『誰よりも上手いと認められたい』、きっとそんなことを思っただろう。そして、その願いを音に込めたのだろう。でも、今の彼女の中には、そうした濁りは一切なかった。ただ、ピアノがある。今日ここで弾くべき曲がある。その曲を自分は何度も何度も指に染み込ませ、耳で聴いてきた。その音が、今はただそこにある。彼女は小さく息を吐き出した。
そして、舞台へ足を踏み出す。万雷の拍手が会場を包んだ。ピアノの前に腰を下ろし、鍵盤を見つめる。人生で何千回、何万回と目にしてきた景色。彼女はそっと鍵盤の上に両手を置いた。そして静かに鍵盤を押し込んだ。
音が、解き放たれて広がっていく。一音一音が輝きを帯びながら、空間の奥へと消えていく。彼女はその去りゆく音を追わなかった。観客が今どう感じているかも、自分がこの音で何を伝えたいのかも考えない。この曲はこう聴こえる。自分にはこう聴こえている。だから、こう弾く。ただそれだけだった。音楽は、彼女の手を離れて空間へと流れていった。一つ、また一つ。音が生まれては消えていく。彼女はそれを見送るように弾いた。
最後の音が溶けて消える。一瞬だけ、完全な静寂があった。そして、爆発のような拍手がホール全体を揺らした。大きく、どこまでも長い拍手だった。
彼女は静かに立ち上がり、客席に向かって深々と頭を下げた。割れんばかりの歓声が重なり、拍手がさらに大きくなる。彼女は少しだけ笑った。胸の奥から込み上げる嬉しさがあった。しかし、それは昔の嬉しさとは違った。一位になれた時の嬉しさではない。上手いと言われた時の嬉しさでもない。大きな拍手をもらったから嬉しい、というだけでもない。ただ、無事に弾き終えた。そして、自分の音が歪みなくこの空間へと置かれた。そのことが、ただただ嬉しかったのだ。
舞台を降りると、静かな楽屋へと戻る。彼女は椅子に深く腰掛け、しばらくぼんやりしていた。手に目をやると、微かに指先が震えている。
「終わったのね……」
小さく呟いたその時、楽屋の扉が軽く叩かれた。
「はい」
扉が開いた。そこに立っていたのは、同じ音楽祭に出演している演奏家だった。彼女は少し驚いた。
「どうしました?」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
男性は中に入ると、少し離れたところで足を止める。そして彼女の顔をじっと見つめ、何か言葉を探すように少し迷った後、静かに口を開いた。
「不思議な演奏でした」
彼女は少し目を瞬かせた。
「……不思議、ですか?」
「はい」
「どういう意味でしょう」
男性は少し困ったように、けどどこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「うまく言葉にできないんです」
「そうなんですか」
「技術的に素晴らしい……というのは、もちろんなのですが」
男性はそこで一度言葉を切った。
「それだけではないんです」
彼女は何も言わず、男性の次の言葉を静かに待つ。
「聴いている間中……自分が何を考えているのか、分からなくなってしまったんです」
「…………」
「悲しいのか、嬉しいのかも分からない。ただ、ずっとその音の中に浸っていたくて」
男性は小さく笑った。
「でも演奏が終わった時、なんだか自分の中に、確かな何かが残っているような気がしたんです」
彼女は男性の言葉を聞いていた。心の中で何かが静かにほどけていくようだった。
「そうですか」
彼女は温かな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、良いものを聴かせていただきました」
男性はそう言って深々と頭を下げると、静かに楽屋を去っていった。
一人になった楽屋で彼女はしばらく動けずにいた。不思議な演奏、それはこれまで聞いたことのない言葉だった。上手い、素晴らしい、感動した、また聴きたい、すごい。どれもこれまで何度も言われてきた称賛だ。でも、不思議という言葉は、まったく違う響きを持っていた。彼女の音を聴いて、その人が自分自身の中で何かを感じた。彼女が望んだ感情ではない、彼女が決めた感情でもない、その人自身のもの。
彼女は椅子の背にもたれて、そっと目を閉じた。脳裏にいくつもの記憶が蘇ってくる。
五歳の自分、初めて鍵盤に触れた日。七歳の自分、一番になりたいと思っていた日。十一歳の冬、『上手だったよ。でも、それだけかな』と言われた日。祖母の病室、『あなたは、ピアノが好き?』と優しく尋ねられた日。十三歳、誰にも何も思わせようとせずに弾いた夜。十四歳、小さな練習室に閉じこもった日。十六歳、昔の自分の録音を聴いて、『……上手』と言いながら、『でも、私じゃない』と思った日。十八歳、彼の演奏を初めて聴いて、泣いた日。二十二歳、演奏会のあと、自分の手から音楽が離れていくのを感じた日。そして今、大きな舞台で弾いた。何も望まずに、何も決めずに。ただ、自分の中にある音を弾いた。その音が誰かの心へと届き、染み込んでいった。そしてそこから先で何が芽吹くかは、もう自分のものではない。
彼女は静かに微笑んだ。
「……そういうことなんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。音楽は、自分の手を離れた瞬間に完成するのではない。むしろ、その瞬間から、誰かの中で始まるのかもしれない。自分が悲しいと思って弾いた音を、誰かが晴れやかな気持ちで聴いてもいい。自分が美しいと描いた音を、誰かが歪だと感じてもいい。何も感じなくてもいいし、嫌われても構わない。もう一度聴きたいと願われてもいい。それは全部、その人のものだ。自分はただ、自分の音を弾く。
彼女は意を決したように立ち上がると、楽屋の鏡に映る自分を見る。少し疲れていたが、笑っていた。その時、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「入っていい?」
「うん」
扉が開き、彼が足を踏み入れる。彼女の顔を見るなり、彼は短く言った。
「お疲れさま」
「ありがと」
「どうだった?」
彼女は少しだけ思案し、答えた。
「……楽しかった」
「そっか」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。彼女も何も説明しなかった。二人で少しだけ静かに過ごす。やがて彼女がそっと口を開いた
「ねえ」
「うん?」
「私、今日、ちょっと分かった気がする」
「何が?」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「音楽って、渡したら終わりなんだね」
彼は少しだけ考えてから、深く頷いた。
「うん」
「それでいいんだね」
「うん」
彼女は優しく微笑んだ。外ではまだ人の声が聞こえていた。拍手の余韻も、足音も、誰かの笑い声も。その活気溢れる気配の中で、彼女は静かに思っていた。
自分の奏でた音は、もう自分のものではない。むしろ、そのために弾いているのかもしれない。自分の音を、自分の中だけに閉じ込めないために。誰かを自分の思い通りにするためではなく、誰かの心の中に小さな何かをそっと置いてくるために。そして、その置かれた種がどんな花を咲かせるのかは、全てその人に委ねればいい。
彼女は静かに楽屋の扉を開け、外へと踏み出した。その日から少しずつ、彼女の名前は以前より少しだけ広く知られるようになった。しかし彼女は相変わらず、まだ毎日ピアノを弾き続けている。有名になりたいからでも、評価されたいからでも、誰かに勝ちたいからでもない。ただ、そこに音があるから。そしてその音を、自分自身が心から聴きたいと願っているから。今日も、明日も、きっとこの先の未来も、ずっと。




