第三部 音の行き先
十八歳の春、彼女はまだその青年の名前を知らなかった。ただ音だけを知っていた。あの日、演奏会で聴いた音。静かで柔らかく、それでいて不思議なくらい心に残る音だった。授業の最中も、食事の合間も、そしてピアノに向き合っている時でさえ、その余韻は幾度となく耳の奥で蘇った。とりわけ一人でピアノの前に座る夜、ふっとあの演奏が静かに蘇ってくる。たった一度聴いただけなのに。自分でもどこかおかしいと思いながらも、彼女はその音を求めていた。
ある日、大学の廊下を歩いていると、向こうからその人が歩いてきた。思わず声が出そうになって、彼女は咄嗟に口をつぐむ。知らない人に声をかける理由などどこにもない。ただ、一度演奏を聴いただけの相手なのだから。すれ違いざま、廊下の空気が僅かに揺れた。
「こんにちは」
穏やかな声が通り、彼女は驚いて振り返った。
「……えと、こんにちは」
「この前、演奏会にいましたよね?」
「あ、はい」
「聴いてくれて、ありがとうございました」
感謝されるような覚えもなく、彼女はほんの少し戸惑う。
「……こちらこそ」
青年はふっと目を細めて笑った。
「どうでした?」
その問いに、胸の奥が微かにざわめく。彼女は少し思いを巡らせてから、言葉を零した。
「……好きでした」
青年が小さく瞬きをする。
「え?」
「演奏が……」
頬が熱くなるのを覚えながら、彼女は続けた。
「すごく、好きでした」
青年はしばらく何も言わなかったが、やがて柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
その言葉はごく普通のものだったはずなのに、胸の奥に不思議な温もりが広がる。それをきっかけに、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
最初は音楽の話ばかりだった。好きな作曲家、惹かれる曲、理想の音色。同じ曲でもどうしてこんなに違う音になるのか、なぜ同じ楽譜なのに人によってまったく違って聴こえるのか。二人で話していると時間はすぐに過ぎていった。彼はよく彼女に尋ねた。
「どうしてその音が好きなの?」
「分からない」
「分からないの?」
「うん。……好きだから」
彼はおかしそうに笑う。
「それ、いいね」
「そうかな」
「うん。理由なんてなくても好きって言えるのは、すごく素敵だ」
彼女は少しだけ考え込み、視線を上げた。
「あなたは?」
「僕?」
「どうしてピアノを弾くの?」
彼は少しだけ黙って、静かに口を開いた。
「分からない」
今度は彼女が笑った。
「ふふっ、同じじゃん」
「そうだね」
二人の笑い声が静かに流れていく。そんな穏やかな時間が、少しずつ増えていった。講義が終われば一緒に帰る、練習の合間に他愛もなく話す、賑やかな学食で昼食を取る、時に演奏会があれば一緒に聴く。特別なことは何一つなかったが、彼女にとってその日常は心地良かった。何より彼の前では、自分のピアノについて言葉で飾る必要が無かった。
ある日の夕方、二人は大学の練習室にいた。彼がピアノを奏でている。彼女は少し離れた窓辺で、その音に耳を澄ませていた。その音を聴いていると、いつもどこか遠い場所へ連れていかれるような不思議な心地になる。
演奏が終わると、彼が鍵盤から手を離して振り返った。
「どうだった?」
彼女は小さく微笑みを浮かべた。
「好き」
「それだけ?」
「うん」
「もうちょっと何かない?」
「ないよ」
彼は困ったように眉を下げ、微笑んだ。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。そのことが彼女には嬉しかった。彼女が何を感じているのか、それを彼女自身に任せてくれる。そんな静かな優しさに満ちた時間が、少しずつ増えていった。
ある夜、二人は大学からの帰り道を歩いていた。夜の道には、二人の足音だけが静かに続いている。ふと彼が問いかけた。
「君って、演奏するとき何を考えてる?」
彼女はふっと足を止めた。昔なら答えられた。一位になりたい、上手いと思われたい、もっと褒められたい。けど、今の自分は――。
「……最近は、何も考えないようにしてる」
「何も?」
「そう」
「それって難しくない?」
「難しいよ」
彼女は苦笑い混じりに息を吐く。
「でも、何かを思いながら弾くと、その通りになっちゃうから」
彼は黙り込む。彼女は言ってしまったことに気付いた。
「……ごめん。変な話だよね」
「いや……君が前に言ってたこと?」
「うん」
しばらく考えを巡らせていた彼が、静かに尋ねる。
「それって、怖い?」
彼女は少しだけ考えた。
「昔は、怖くなかった」
「今は?」
「少し怖い」
「どうして?」
「……人が、自分の思った通りになってしまうから」
前方の闇を見つめながら、彼女は言葉を重ねる。
「それって、本当にその人が思ったことなのか、分からなくなるでしょ?」
彼は何も言わず、彼女の横顔を見つめていた。
「だから、最近は思うの。……音楽って、もしかしたら、相手を自分の思い通りにすることじゃないのかもしれないって」
「……じゃあ、何だと思う?」
彼女は少し間を置いた。
「分からない」
「また?」
「そう」
二人は顔を見合わせて笑った。しかし、彼女はそのあと静かに続けた。
「ただ……。自分の中にあるものを、音にして置いていくことなのかなって」
「置いていく?」
「そうなの」
ゆったりと歩きながら、彼女は想いを乗せていく。
「私はこう感じる。この曲は私にはこう聴こえる、だから……こう弾く。でもそれを聴いた人がどう受け止めるのかは、その人に任せるの」
彼は黙って聞いていた。
「悲しいと思ってもいいし。楽しいと思ってもいい。何も感じなくてもいい。嫌いでも、好きでもいい。それは、その人のものだから」
彼女は自嘲気味に、けど優しく微笑んだ。
「……そういうのが音楽なのかもしれないって」
彼はしばらく無言のまま歩いていたが、やがて深く頷いた。
「それ、素敵だね」
「本当に?」
「うん」
「どうして?」
「君がそう思ってるなら、それが君の音楽だから」
その言葉が届いた瞬間、彼女はそっと目を伏せた。胸の奥が温かくなる。
「……ありがとう」
それ以来、彼女の演奏はさらに変わった。自分の中にある純粋な感情を探し出し、それを余すことなく音に託す。そして、そこで止める。聴いた人の心まで、自分の意思で決めようとしない。それは思っていたより難しいことだった。長い間、彼女は相手を動かすことに慣れすぎていた。だから、演奏中にふと『ここで感動して欲しい』と思ってしまう。その瞬間、彼女は手を止めたくなる。でも少しずつ、その気持ちを手放せるようになった。こう聴こえる、それだけを弾く。こう感じる、それだけを音にする。あとは聴いた人に渡す。それで良いのだと心から受け入れられるようになった頃、彼との距離感も移ろいを見せていた。
二人で過ごす時間が自然と増えていった。彼女が彼の演奏を聴く。彼が彼女の演奏を聴く。二人で音楽について話す。時には何も話さず、ただ同じ部屋にいる。そうしているだけで、心は満たされていた。
ある日、彼女は自分の演奏を彼に聴いてもらった。最後の音が消えても、彼はしばらく沈黙していた。彼女も感想を求めなかった。以前の自分なら、不安に駆られて尋ねていただろう。けど今は、ただ静かに待つことができた。やがて彼が深く息を吐いて言った。
「……好きだな」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「前より好き」
「前より?」
「うん」
彼は少し考えてから続けた。
「前は上手かった」
彼女は可笑しそうに苦笑する。
「それ、褒めてるの?」
「もちろん」
「じゃあ、今は?」
「今は……」
彼はまっすぐな瞳で彼女を見つめた。
「君が弾いてる感じがする」
「……私?」
「うん」
彼女は言葉を失い、ただ静かにその重みを受け止めていた。ずっと探してきた自分の音。何年も、何度も迷い、間違いながら、ようやく訪れたこの瞬間。やっと誰かに『君が弾いている』と言ってもらえた。嬉しさと共に、溢れんばかりの安堵が体を満たしていく。自分の奏でる音が、少なくともこの世界で一人には『自分の音』として確かに届いた。ただそれだけで、すべてが報われた気がした。
やがて二人は、互いにとって大切でかけがえのない存在になっていった。それが恋なのかどうか、彼女は答えを出そうとはしなかった。ただ、彼と一緒にいると音楽の話がしたくなり、彼の紡ぐ音を聴きたくなった。自分の音も聴いていて欲しかった。そして何より、彼の前にいる時だけは、偽りのない自分自身でいられた。それで十分だった。
二十二歳の春、大学卒業が近づく頃。彼女はリサイタルを開くことにした。決して大きなホールではないし、客席も多くない。でも彼女にとってはとても大切な演奏会だった。
曲目を決めた。どれも幼い頃から何度も弾いてきた曲だ。小さな手で懸命に練習した曲、高揚と挫折を味わったコンクールでの課題曲、十代の葛藤の中で繰り返し弾き直した曲。そして、今の自分がもう一度、真っ直ぐに向き合いたいと思えた曲。
演奏会を明日に控えた前夜、彼女は一人で練習室にいた。曲を弾きながら、昔の自分を思い出していた。
一位になりたいと思った自分。すごいと思って欲しいと思った自分。誰よりも上手くなりたいと思った自分。あの頃の幼い自分。
彼女は微笑んだ。間違っていたとは思わない。あの子はあの子なりに一生懸命だった。だから、否定する必要なんてどこにもない。ただ、今の自分はもう、あの頃とは違う場所を見つめている。
リサイタル当日。開演直前、彼女は舞台袖にいた。客席のざわめきが心地よい雑音となって響いてくる。昔のような緊張はなかった。怖くないわけではない。でも、心の中に一つだけ固い決意があった。今日は何も望まない。素晴らしいと思って欲しい、感動して欲しい、最高だと思って欲しい。そんなことは考えない。ただ、この曲は私にはこう聴こえるということを、弾くだけ。
舞台へ足を踏み出すと、温かな拍手が起こる。彼女は静かに一礼し、ピアノの前に腰を下ろす。鍵盤の白と黒を見つめ、深く一度だけ息を吸い込んだ。
一瞬の静寂の後、最初の音を鳴らした。音は、波のように澄んだ空間へ広がっていった。彼女は弾き続けた。一音、一音、自分の中にあるものを、音にしていく。力強く、静かに、近く、遠く、時には激しく情熱を高ぶらせて。でも、そのどこにも、『こう思って欲しい』という意図はなかった。彼女はただ、『私はこう聴こえる』と弾いていた。曲が進む。客席に座る一人一人が何を抱き、どんな情景を描いているのか、彼女には知る由もない。知る必要すらなかった。ある人は悲しいかもしれない、ある人は何も感じないかもしれない、ある人は不安を抱くかもしれない、ある人は愛おしさを覚えるかもしれない。そのすべてが正解だった。音は、彼女の中から出ていく。そして、最後の音が静かに空気の中に溶け去った。彼女は優しく鍵盤から指を離した。
音が完全に消えた、完璧な静寂。一瞬の間を置いて、割れんばかりの拍手が起きた。彼女は静かに立ち上がり、客席を見た。たくさんの人がそこにいる。だが、今まで感じていたものとは何かが違っていた。拍手がどう聞こえるか、観客たちがどんな顔をしているか、もはやそんなことは考えなかった。ただ、無事に届けることができた。そのことが嬉しかった。音は今、完全に自分の手から離れていったのだと感じた。
彼女は舞台を降り、楽屋に戻る。一人きりの空間。椅子に深く腰を下ろし、しばらく何も考えなかった。やがて、小さく微笑んだ。
「……行ったんだね」
誰に言うでもなく、そっと呟いた。自分の中にあった音。それが今、もう自分のものではない。聴いた人の中に、それぞれの形で残っている。彼女はそれが嬉しかった。
数日後、彼女は家にいた。朝の柔らかな光が差し込む中、いつものようにピアノの前に座る。演奏会のためでもなく、練習のためでもない。ただ、弾きたかったから。鍵盤に指を置く。一音、二音、三音。澄んだ響きが部屋に流れ、自然と旋律が紡がれていく。しばらく弾いて、彼女はふと胸の奥から湧き上がる想いに気付いた。
(もっと、この音を聴きたい……)
(もっと、自分の音を――)
誰かに称賛されるためでもなく、誰かに認められるためでもなく、一番になるためでもない。ただ自分自身がこの音を愛し、聴きたいから弾く。彼女は柔らかく微笑んだ。それはかつて、十三歳の夜に初めて感じたものと、よく似ていた。
「私、本当にピアノが好きなんだ」
今度は迷いなく、はっきりと分かった。そして昔の自分より、少しだけその意味が分かるようになっていた。ピアノが好きだから弾く、弾きたいから弾く。誰かが耳を傾けてくれても、誰もいなくても、好きだと称えられても、嫌いだと言われても、上手だと持てはやされても、拙いと切り捨てられても。それでも、私はこの音を奏でたい。だから弾くのだ。
彼女はもう一度、鍵盤に指を置いた。小さな音が鳴った。ささやかな音。でもその音は、確かに彼女のものだった。そしてその音はまた。彼女の中から外へ出ていった。誰かの心を縛ることもなく、誰かに強要することもなく。ただ、美しい音として、どこまでも自由に。
彼女は弾き続けた。今日も、明日も、きっとこの先の未来も、ずっと。




