34、楓並木
その日、バーナード・ハドソン商会の三階にある特設サロンにお邪魔して、殿下が真珠養殖への投資話をする間、東洋から取り寄せたさまざまな美しい品を見せてもらう。
その特設サロンはまるで、小さな東洋、だった。
壁の絵は大胆な人物画で、画面から飛び出るような迫力があるもの、それから雨に降られた大きなアーチの橋を、珍しい風俗の人々が傘を差しながら渡っていく風景画。衣桁に掛けられたのは、金襴緞子の豪華なガウン――わたしのキモノ・ガウンと同じ形だが、豪華さが段違いだった。その隣には旧ワーズワース邸でも見た、恐ろし気な武具。穏やかな表情の金色の像は、かの国で尊崇を集める神の像だと言う。
わたしは優雅な彫刻の施された大きな木の長椅子に座り、やはり木の、優雅に湾曲した脚を持つ四角い小さなテーブルに、驚くほど薄い、染付の磁器に注がれた紅茶を供された。
見たこともない意匠の、精緻な透かし彫りの衝立に、黒地に虹色の光る装飾を埋め込んだ飾り棚。
「螺鈿、と言いましてね、貝でできているんですよ」
説明してくれるのは、ミス・リーンの店にいた小柄な中年男性だった。彼は大きな地球儀を回し、海の中に長細く連なる島国を指差して言った。
「ヤパーネと言います。私の故郷です。東の果ての、太陽が一番早く上る、日出ずる国です。……隣の大きな国が、カタイ」
我々の今いる王都がここで……と、彼がくるくると地球儀を回す。
「だいたい、船で三か月くらいかかります。……海の状態や風向きにも因りますが」
「三か月!……どうしてこの国で仕事を?」
「船が難破して、旦那様に助けられたんです。西の国にも興味があったので、そのまま通訳をしたり」
わたしはふと、隣室で話し合っている殿下たちが気になった。
「あなたのお国の方が来ていらっしゃるのでしょう? 通訳はいらないの?」
「あの人はこちらの国の言葉が喋れますし、旦那様もそこそこ私の国の言葉が喋れるようになったので。変に通訳が入らない方が、いいこともあるんです」
男性は穏やかに笑う。
「……お名前を伺っても?」
「ミツゴローです」
「……ミチュゴロー? 変わったお名前ね」
「私の国では普通の名前です。今、来ている人はコーキチと言います」
「コーチチュ?」
微妙に発音が違うので、何度か練習したが、結局、彼らの名前を正しく発音することはできなかった。
わたしは諦めて、彼がいろいろと薦める、東洋の美しい品々を眺める。絵画やキモノも素敵だけれど、わたしが美しいと思ったのは、金の蒔絵を施した漆塗りの品々。見たこともない不思議な車に、扇や草花、岩に飛び散る波――。
わたしが螺鈿の手鏡を手に取って眺めていると、商談を終えた殿下たちがサロンに戻ってきた。
「何か気に入った品はあったか?」
「殿下――」
わたしの上にかがみ込むようにして頬に口づける殿下を見て、後ろからやってきた小柄な青年がギョッとして立ち止まる気配を感じる。
「ああ、エルシー、この人がコーキチ……ミッチーだったかな。真珠の養殖技術を確立した人だ。彼の技術に投資しることにしたんだ」
わたしが挨拶すると、青年はわたしが手にする手鏡を見て、言った。
「これは千年ほど前の、我が国の王室の秘宝の鏡の意匠を、復刻したものですね」
「千年前の模様なの――?」
何でもその国の王室は二千年以上続いているという。殿下は、わたしが手に取って見ていた手鏡を、すぐさま買い上げた。
バーナード・ハドソン商会を出て、少しだけ時間があったので、殿下はわたしを植物園に誘った。
「大丈夫なんですか? そんなところに出かけて、人に見られたら――」
「俺とステファニーは婚約者でも何でもない。なぜ、俺が他の女と出掛けるのに、コソコソしなきゃならん? 昼間の植物園での健全なデートに、何の文句がある」
殿下は言うけれど、人に見咎められて非難されるのは、殿下じゃなくてきっとわたしだ。
「ちょうど、楓がいい色に色づく季節だ。俺だって恋人と並木道を一緒に歩くくらいしたい!」
殿下はそう言って、半ば強引に、わたしを馬車から連れ出した。
植物園の楓並木は黄色く色づいて、見事だった。わたしは殿下の腕を取って歩いたけれど、それは通常のエスコートの域を出ない接触で――幸いにもわたしの今日のドレスの紺色の地味なものだったし、すれ違うのも老婦人や乳母車を押した乳母らしき女性などで、殿下の姿を認めて話しかけるような人もおらず、少しだけ、普通の恋人同士のような散歩を楽しむことができた。
「ここは、よく一人になりたい時に来た」
高い梢を見上げて殿下が呟く。わたしもまた黄色く色づいた並木道を眺める。
秋晴れの青い空に、黄葉した楓が鮮やかだった。
「リンドホルムの城にも楓並木がありました」
「知ってる。……いや、その……マックスが言っていたから」
殿下が微笑んで、わたしの手をそっと握った。
ふいに、並木道を遠ざかる馬車の記憶が甦る。
わたしは必死においかけて、そして――
『いや、行かないで! ずっと側にいるっていったのに! 嘘つき!』
『エルシー、ごめん……エルシー』
あれは――誰……?
とてつもなく悲しい気持ちだけがせりあがって、わたしは思わず足を止める。
「……エルシー?」
振り返った殿下が驚いて、向き直る。
「ど、どうしたんだ!?」
「え……?」
気づけば、わたしの頬は涙で濡れていた。
「あ……なんで、わたし……泣いてる?」
慌ててドレスの隠しからハンカチを出し、目じりの涙を拭う。
殿下が焦って、オロオロと覗き込んでくる。
「ご、ごめんなさい。なんでもなくて……ただ――」
なんだかわからないけれど、たまらなく悲しいことを想い出した気がして――
あの、馬車は何だったのだろう。そしてあの人は――
「大丈夫か、エルシー」
「ええ……たぶん、故郷のことを思い出したからです」
わたしが言い訳すれば、殿下はわたしの肩を抱いて、ゆっくり歩き始めた。
「そうか。……ここには一度、二人で来たいと思っていたんだ。並木はいつでもあるけど、紅葉の時期は一瞬だからな」
「そうですね。懐かしい気持ちになりました……」
殿下の肩に頭を預けるようにして、二人寄り添ってゆっくり歩いていく。
煙草の匂いと、コロンの香り。いつしか周囲の人々の存在も意識から消えて、この世界に殿下と二人きりのような、そんな風に錯覚してしまう。
「エルシー……愛してる」
小さな声で囁かれて、わたしも帽子の影から殿下を見上げ、微笑んだ。
「ええ……わたしも」
一通り並木道を歩いたところで、ロベルトさんが迎えに来て、わたしと殿下はここで別れた。殿下はロベルトさんの乗ってきた馬車で王宮に向かい、わたしは元から乗ってきた馬車でアパートメントに戻る。
――はずが、アパートメントの入口で背後から呼び止められた。
「ミス・アシュバートン!」
驚いて振り返れば、立っていたのはツイードのスーツを着た女性。
歌劇場の化粧室で会った、レコンフィールド公爵令嬢の付き添い婦人だった。




