2、憂鬱な帰り道
司令部から家まで、徒歩で四十分ほどの道のりだ。布製の鞄を下げて、慣れた道をサクサクと歩いていると、背後から声をかけられた。
「ミス・アシュバートン、今帰り?」
舌打ちするのを、危ういところで堪える。仕方なく振り向けば、赤い髪を綺麗に撫でつけ、帽子をあみだにかぶったニコラス・ハートネル中尉がニヤニヤ笑いを浮かべて立っていた。彼は戦地では補給を担当していたそうだが、休戦協定の締結直後に傷病兵を移送して戻ってきて、そのまま司令部付きになった。――はっきり言えば、わたしはこの男が嫌いだ。
「……ええ、そうです、ご機嫌よう」
会釈だけして再び歩き出そうとしたが、あちらはしつこく話しかけてくる。
「相変わらず歩いて帰ってるの? 僕も馬車を呼ぶから、一緒に――」
「いえ、結構です。健康のためにも歩くようにしていますので。では失礼します」
若い男と馬車に同乗などしたら、何を噂されるかわかったものではない。わたしは彼を振り切りたくて、さっさと歩き始めたが、ハートネル中尉は意に介さず、当たり前のように並んで歩いてくる。
「鞄、持つよ?」
「いえ、結構です。お気遣いなく。――わたしに構わず、馬車でお帰りください」
馴れ馴れしく声をかけてくるこの男、帰る方向が同じで、本当にしつこい。並んで歩いているのを人に見られたくなくて、わたしはなるべく彼を避けているのだが……。
速足で振り切るように歩いていくが、職業軍人であるハートネル中尉の方がどう考えても足が速く、やすやすとついてくる。むしろわたしの方が息切れしてきた。
「ずいぶん、急いでいるんだね。……やっぱり馬車を」
「いえ、結構、です」
誰のせいで速足になっていると思っているのよ、と心の中で悪態をつきながら、わたしはまっすぐ正面を見据えてずんずん歩く。
「……そう言えば、マクガーニ中将が退任されるって聞いた?」
「……ええ、聞きました」
「君はどうするの」
「どう……って?」
思わずちらりとハートネル中尉を見上げれば、頭一つ背の高い彼は、わたしの顔を覗き込んでいる。
「ほら、後任はさ、君も聞いたと思うけど、アルバート王子殿下だろ? 事務の補佐官を雇ってくれるかな?」
何が嬉しいのかしらないが、妙にニヤニヤして鬱陶しい。わたしはついと視線を前に戻し、正面を睨みながら言った。
「いえ、退職することになると思います」
「へーやめるんだ。やめて、どうするの?」
「……さあ、そこまでは。歳も歳ですから、祖母からはそろそろ結婚しろと言われていますし」
「結婚……するあてあるの?」
ハートネル中尉はわたしの父が戦死していることも、弟が死んだおかげで爵位を継承できずに領地を追い出されたことを知っている。わたしは自分からは喋っていないけれど、わたしが元リンドホルム伯爵令嬢で、爵位を失って落ちぶれたのは有名な話だったから、どこかで聞き込んできたのだろう。
「さあ、どうでしょう。……祖母と相談いたします」
わたしがまっすぐ前を睨みながら歩いていくと、耳元で上から囁くように彼が言った。
「俺が、もらってやってもいいよ?」
「はあ?」
思わずギロリと中尉を睨みつける。冗談にしても質が悪い。
「俺はこう見えても子爵家の三男で、爵位は継げないけど、家柄はまあまあ。……どうかな?」
「お断りします」
間髪入れずに切り捨て、わたしはさらにスピードを上げた。以前からこの男は妙にわたしに絡んでくるが、心底鬱陶しい。
「……つれないなあ。でも、悪いけどさ、君は爵位も領地も財産も持参金も、ついでに可愛げもないじゃないか。俺よりマトモな男は厳しいと思うけどなあ。成金の後妻にでもなるかい? でもその愛想の無さじゃあ、それも厳しいんじゃないかな? 自慢の美貌で戦時景気で焼け太りの成金ジジイを捕まえる?」
ハートネル中尉の言葉は全くその通りなので、わたしは内心カチンときた。
「ええ、わたしは爵位も領地も財産も持参金も、ついでに可愛げもありませんので、あなたの元にお嫁に行こうなんて、身の程知らずなこと、考えもしませんでしたわ。美貌かどうかは存じませんが、成金のハゲでも捕まえますから、放っておいてくださる?」
わたしはある四つ辻ではっきりと言い切ると、彼に対して辻の一方を指さし、言った。
「中尉のお邸はあちらですね。わたしはこちらですので、ここで失礼します」
「どうせなら家まで送るよ」
「結構です。若い男性などに送られて帰れば、祖母がかえって心配いたしますので。では」
わたしはまだ何か言いたげなハートネル中尉をその場に残し、振り返りもせずに角を曲がった。
家に帰ってくると、ちょうど玄関を祖母の主治医であるウィルキンス医師が出てくるところだった。
「先生、今日は往診の日でしたか?」
わたしが挨拶をすると、ウィルキンス医師もわたしに気づき、白い髭に覆われた顔をわたしに向けた。
「ああ、エルスペス嬢、今帰りかね。……いやね、奥様が気分が悪いと騒がれたそうで……まあ、暑気あたりだよ。このくらいの時期はよくある。水分をたくさん摂るようにね」
「わざわざありがとうございました」
わたしは丁寧に礼を述べて、医師を見送る。玄関まで見送りに来ていた執事のジョンソンが、医師が去った後でわたしに囁いた。
「……その、たいしたことではないのですが、気分が悪いと……」
「ええ、わかるわ……」
貴族のプライドだけで生きてきた祖母に、王都の下町の暮らしはよほど我慢のならないものなのだろう。ときどき、我儘を言って周囲を困らせる。ウィルキンス医師はそのあたりのことも理解してくださり、こまめに往診して祖母の愚痴を聞いてくださるのだ。……それでも、薬代は馬鹿にならないのだけれど。
わたしは小さく溜息をつき、ジョンソンにただいまを言って家に入る。
家はかつて住んでいたリンドホルムの城に比べれば、十分の一もないような小さな家だけれど、わたしと祖母、そして使用人が二人住むには十二分な広さだった。
だがこの家はもともと、貴族ではなかったわたしの母が実家から相続したものだ。子爵家の出で、リンドホルム伯爵に嫁いだことを何よりも誇りに思っていた祖母は、豊かな商家ではあったが、中産階級出身の母が気に入らなかった。もともと、父の妻には祖母の遠縁にあたる女性を迎える予定が、上手く行かなくなったせいだとも聞いた。結局のところ祖母にとっては、蔑んでいた息子の嫁の遺産で細々暮らすこと自体、耐えがたい屈辱なのだろう。
「おばあ様は、お部屋?」
「ええ、今は落ち着かれて……ですが、今夜はもうおやすみになると仰っています」
「そう……」
祖母は身体を悪くしているから、夕食を一緒に摂れないことは多い。マクガーニ中将が司令部を退任し、職を失うことは夕食の席で話しておくつもりだったが、今夜は無理そうだ。
わたしはもう一度溜息をつく。
祖母は、わたしが軍で働いていることも、よくは思っていない。良家の子女が、それもリンドホルム伯爵の娘だったわたしが働くなんてとんでもないと、二年前は最後まで反対した。でも実際問題、わたしの給金がなければこの家は成り立たない。祖母に話せば仕事はやめろと言うに違いないが、その後の生活の手段をどうするのか、考えたりはしてくれない。
「……どこかに妻を亡くした、成金のデブはいないかしら……」
無意識に呟いた言葉を、近くにいたジョンソンが聞き返す。
「何か仰いましたか、お嬢様」
「いえ、何でもないの。いつもありがとう。ロクな給金も払えないのに」
ジョンソンは痩せぎすの背の高い男だが、顔をくしゃりとさせて笑った。
「いいえ、わしら夫婦は奥様とお嬢様のお世話ができれば、それだけで十分でございますよ」
彼に礼を言って、わたしは小さな家の中央にある階段を上った。




