26、愛人? 恋人?
ふいに、身体がふわりと浮き上がる。
アルバート殿下がわたしの膝裏に腕を回し、軽々と横抱きに抱き上げたのだ。
突然、高くなった視点に戸惑い、わたしは反射的に殿下の首筋に縋りつく。
殿下の思いつめたような顔が、すぐ目の前にあった。
「殿下?」
殿下は無言で、わたしを抱いたまま数歩歩いてベッドの前に来ると、まるで宝物でも扱うかのように丁寧に抱き下ろす。そして自分もベッドに登ってきた。
のしかかるような体勢に、昨日の司令部の、奥の部屋での出来事が甦る。
でも決定的に、今夜の彼には乱暴なところはなくて。
優しい仕草に、このまま自然に受け入れてしまいそうになる。
「待って……」
「エルシー。……昨夜、眠っているお前を抱いてしまおうかと思ったけれど、ギリギリで堪えたんだ。今夜はもう、我慢できる自信がない」
殿下の金色の瞳が、ギラギラと妖しい輝きを宿してわたしを見下ろしている。
――あの時と、同じ目。
「俺は、お前を愛してる。だから、お前のすべてが欲しい」
殿下の告白に、息が止まる。
殿下が、狂おしいほどにわたしを求めている。
ベッドの上で男女が何をするのか、世間知らずのわたしは、具体的には知らない。
殿下のことは嫌いではないから、求められたら、流されてしまいそう。
でも、ここで一線を越えたら、わたしは愛人として生きるしかなくなってしまう。
わたしは最後の矜持を振り絞って、目の前に壁のように立ち塞がる殿下の胸を、両手で押しやった。
「殿下、わたしは愛人はごめんです!」
「違う。愛人にするつもりはない。責任は取る」
「……責任?」
こういう場合の「責任を取る」、とは「結婚する」という意味だと聞いたが、王子である殿下が爵位もないわたしと結婚するなんて、不可能だ。
「世の中にはできることと、できないことがあります! 責任なんか取れっこないくせに!」
わたしの反論に、殿下は微かに眉を顰め焦がれるような目で言い募る。
「エルシー。俺は本気なんだ。愛してる」
力でかなわないわたしは敷布の上に押し倒され、殿下が覆いかぶさるようにのしかかってくる。
抵抗を封じるように、唇を塞がれる。
愛してる――?
本当に? 殿下の言葉にわたしは反発する。
愛していたら、こんなことできるの? このまま殿下のものになったら、純潔を失ったわたしはまともな結婚もできなくなる。
長いキスに蹂躙され、ようやく唇が解放されて、わたしは荒い息の下で言った。
「わたしを傷物にして、捨てるつもり?」
「純潔はもらうが捨てるつもりはない。一生、大切にする」
殿下は知らぬ間に流れていた涙を指で拭い、誓った。
「愛してる。ずっと……お前だけだ」
まだ出会って二か月にもならないのに、この人は何を言っているのだろう?
「こんなことが、おばあ様に知れたら……」
「大丈夫だ……おばあ様ならきっと、わかってくださる」
適当なことを言わないでほしい。あのおばあ様がこんなふしだらなこと、許すはずがない。
殿下の手が寝間着の、胸元のリボンにかかるのに気づいて、わたしは反射的に彼の手を両手で押さえた。
「待って! ダメ……」
殿下がぐっと眉根を寄せ、辛そうに顔を歪めた。
「エルシー……力ずくで奪いたくはない。だが、もう限界なんだ。これ以上拒まれたら、暴走してしまう……」
殿下の顔がわたしの耳元に降りて、懇願するように囁く。
「愛してる。エルシー。……お願いだ。どうしたら、許してくれる?」
耳朶にかかる息が熱い。殿下の唇がわたしの顔中を這いまわり、啄むようなキスが続く。キスに絆されるようにわたしの頭はぼうとなって、何も考えられなくなっていく。
「エルシー。愛してる……俺の……」
キスの合間に彼が何度も囁く。それが、微かな記憶を呼び覚ます。
遠い昔、誰かが、わたしにこうやってキスを繰り返した。
そうだ、これは昨夜の夢――
わたしは目を閉じた。
あの、夢と同じだと思えばいい。
だってもう、逃げられない。
この人はおばあ様の入院代も払ってくれて、何より王子様なんだから。
わたしが逆らえるはずもない。
「エルシー、どうしたら……」
「命令、してください」
殿下のキスが止まり、彼が正面から見下ろしてくる。
「エルシー?」
「業務なら断れません。命令なら――」
見返したわたしの視界は、涙で滲んではっきりは見えないが、殿下の男らしい喉元がゴクリと動くのがわかった。
「エルシー……命令だ。これは業務だ。拒むことは、許さない」
「せめて、優しくしてください……」
「ああ……わかってる。できる限り、優しくする」
その言葉と裏腹に、殿下は荒々しい仕草でスーツのジャケットを脱ぎ、どこかへ投げ捨てる。ついでウエストコートを脱ぎ捨て、わたしに覆いかぶさってきた。
殿下の唇がわたしの唇を塞ぐ。長いキスに翻弄された後、殿下の唇が首筋へ流れ、鎖骨へと降りていく。
わたしは、ベッドの天蓋を見上げながら、言った。
「わたし、殿下の愛人になるの?」
首筋を揺蕩っていた唇が止まり、離れる。そして真上から覗き込んで言った。金色の瞳がベッド脇のランプの明かりにギラギラと光る。
「愛人じゃない。恋人だ。間違えるな」
結論を言えば、殿下は普段の横暴さが嘘のように優しかった。
なんとなく、あの夢の中の誰かに似ている気もする。
わたしの身体のあらゆる場所にキスを落とし、時に怯えるわたしを宥めて、自然にわたしを快楽に導いていった。
初めて目にする男性の身体。
硬く鍛えられて、そしてたくさんの傷があった。
脇腹の、比較的新しい傷に触れた時、彼は言った。
「お前の父親のおかげで、命拾いした時の傷だ」
この人は、お父様が命がけで守った人なのだ。
父の命や多くの犠牲を乗り越え、過酷な戦場を生き抜いて、今の彼がある。
「エルシー。本当に愛してる。愛人じゃないからな? わかってるな?」
何度も繰り返すその言葉に、わたしはおざなりに頷く。
正直に言えば、今、それどころじゃなかったから――
そして彼はわたしを抱きしめて耳元で誓った。
「エルシー、お前だけだ。ずっと、ずっと……永遠に。お前に会うために、俺は戦場を生き抜いたんだから。永遠に、お前だけ」
戦争に行く前にわたしに会ったこともないくせに、調子のいいことばっかり。
でも――
たとえ嘘でも、この行為が愛のためだと思わせてくれるなら。
いつか魔法が溶けて、泡沫のように消えてしまう恋であっても。
これが愛だと信じられるなら。
今、この時だけでも――
初めての行為に疲れ切ったわたしが眠りにつくまで、殿下はずっとわたしを抱きしめて、髪を撫で続けていた。
こんな風に、誰かに抱きしめられて眠ったことがあるような――
でも、思い出せない。
そもそもわたしは、殿下以外と寝たことなんてないはず。
だって、初めてだったんだから――
眠りに落ちる直前に、殿下がわたしの額にキスをする。
「エルシー……俺の、お姫様……愛してる……」
何を……言って……
王子様は、あなたで……わたしは、ただの……
わたしは反論もできないまま、泥沼のような眠りに飲み込まれてしまった。




