25、甘い罠
夕刻にはアルバート殿下のアパートメントに帰った。
殿下は王宮に呼び出されて不在だった。わたしは一人で夕食を終え、入浴も済ませて、例の薄紫色のキモノを羽織り、大きなベッドに所在なく腰を下ろす。
おばあ様の入院騒ぎの後、殿下とは会っていない。
今日は一日中視察で、司令部にはいらっしゃらなかった。
昨日の、あの奥の部屋での出来事を、わたしはまだ消化しきれていない。
あんなことがあった以上、殿下の下で働き続けるべきじゃない。でも――
おばあ様を入院させてくれて、入院費用も立て替えてくれた。
到底、自力では支払えない額の費用がかかっているが、満足そうな祖母の様子を見たら、退院させることもできない。
さすがにそこまで世話になっておいて、辞表を叩きつけるわけにはいかなくなった。
さらに、このアパートメントと言ったら!
豪華な内装と、繊細な装飾付きの家具。薄くて滑らかな絹の寝間着と、三人は寝られそうな、キングサイズの天蓋付きベッド。
今さらながら、どっからどう見ても愛人仕様だ。
ジョンソンの言うとおり、王族とは言え未婚男性の家に滞在するだけで非常識だが、ジョンソンがこの部屋を見たら卒倒するに違いない。
決定的なことが起こる前に、早急にこのアパートメントを出るべきだ。しかし何処に?
そこまで考えてから、祖母の入院費用が自力で支払えない以上、もう詰んでいるのだと気づく。
わたしは今、おばあ様を人質に取られているも同然だ。
殿下にどんな無理難題を要求されても、拒否はできない。
半ば諦めの境地で溜息をつくと、立ち上がって寝室の暖炉に歩み寄り、その上に立てかけた薔薇園の絵を手に取った。
この絵を持ってきてよかった。
わたしの、思い出の絵。城を追い出されてからずっと、心の支えだった。
緑濃い庭の、あちこちに咲き誇る薔薇が鮮やかで、蔓薔薇のアーチをくぐるレンガの小道の向こうには、白い大理石の彫刻の噴水が描かれている。
かつて暮らした城の薔薇園に想いを馳せていると、わたしはふと気づく。
「……これ、わたしと弟だ……」
噴水の縁に座っている白いドレスを着た二人の子供。少し小さい方が弟で、やや大きい方がきっとわたし。
上流階級では、七歳くらいまでは男女ともスカートを穿いて過ごす。全く覚えていないけれど、昔はお揃いのレースのドレスを着せられていたらしい。弟の方が大人しくて、一方のわたしはお転婆で、よく、男女逆に間違われていたそうだ。
もしこれがわたしたち姉弟なら、この絵を描いた人は、今から十年以上前にリンドホルムに滞在したのだ。
記憶を辿れば、イーゼルの前に立つ画家の姿がおぼろげに浮かぶ。あまり背が高くなく、黒髪で――
ジョンソンは、「本名は知らない」と言っていた。……そんなワケアリそうな人を、お父様はともかく、おばあ様が客人として受け入れていたとはちょっと信じられない。
でも、何かがひっかかる。
すごく簡単なことを見落としている――?
そんなことを考えていると、物音がして殿下が戻ってきたらしい。
挨拶に行くべきか、でももう寝間着に着替えてしまったし……とわたしが逡巡するうちに、バタンと居間に続くのとは違うドアが開き、入ってきた殿下が灯りがついていることにギョッとして立ち止まった。
「起きていたのか……!」
「え? で、殿下? どこから?……ってそのドア、開くんですか?」
暖炉の前に立って絵を見ていたわたしは、呆然と立ち尽くす。コネクティング・ドアがあるのは知っていたけれど、開かないものだとばかり思っていたからだ。まさか殿下がそこから出てくるとは……。
「そのドア、どこに続いているんです?」
何となく不審に思ってわたしが尋ねると、殿下は気まずそうに視線を泳がせた。
「……俺の、部屋だ」
「!!」
驚愕のあまり声も出ない。
まさか、自分の部屋と繋がっている寝室を、わたしに宛がっているだなんて。
それはもう、愛人一直線だ。最初から狙っていたとしか思えない。
しかも、さっきの口ぶりでは、殿下は眠っているはずの、わたしの部屋に入ってきたわけだ。
――つまり、昨夜の枕のくぼみは……。
自分が罠に誘い込まれた獲物であることを突き付けられ、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に踏みとどまる。
しっかりしろ。ここで、折れちゃダメ。
わたしは心の中でゆっくり十数えて、大きく深呼吸した。
殿下はしばらく無言だったが、わたしの手の中にあるものに気づいて、不思議そうに言った。
「それ――わざわざ持ってきたのか。そんな、価値のない絵を」
価値がない、と言われ、わたしはムッとして眉を寄せ、ぎゅっと絵を抱きしめる。
「放っておいてください。城から持ち出せた唯一の絵なんですから!」
「……それが、大事なもの、なのか?」
「え、ええ……」
わたしが首を傾げると、殿下がわたしの方に歩み寄り、腕の中の絵を覗き込み、くすっと笑った。
「こうしてつくづく見ても、へたくそだな」
「う……。どうだっていいでしょう? 人の大切なものにケチつけるなんて、失礼だわ!」
「その絵を描いた男が誰か知っているのか?」
金色の瞳でじっと見つめられて、わたしは首を振る。
「い、いいえ?」
「そうか……」
殿下は眉を八の字にすると、わたしからするりと絵を奪い取り、暖炉の上に無造作に置いた。そして絵を奪われて呆然とするわたしの正面に立って、じっと顔を見下ろしてくる。
「エルシー……俺は……」
殿下の手が、そっとわたしの肩に触れる。だがその瞬間、わたしは反射的にビクッと身体を震わせてしまい、殿下の手が行き場を失い、肩のあたりで遠慮がちにうろうろする。わたしは意を決して殿下の顔を見上げ、言った。
「あの……殿下、祖母のことではお世話になりました。宿を提供していただいて、感謝しています」
わたしがまず改まって礼を言えば、殿下は困ったように視線を彷徨わせる。
「ああ。偶然だったが、間に合って、よかった」
「本当に、偶然、なのですか?」
わたしが辛うじて絞り出した声は、自分でも言い訳できないくらい、震えていた。
殿下は、もう一度わたしの肩に恐る恐る触れ、そっと抱き寄せる。
スーツに染み付いた煙草の匂い。大きな手が、緊張にこわばるわたしの背中を撫で、髪にキスをした。
「おばあ様の、発作は偶然だ。……入院は、偶然ではない」
――つまり、祖母の体調はどうであっても、殿下は入院させるつもりだったのだ。わたしを祖母から引き離し、このアパートメントに住まわせるために?
「マックス・アシュバートンに恩義を感じて、彼の母親に、最新医療を受けさせたかったのは、本心だ。ただ、お前があの家に一人になれば、この部屋に連れ込むいい口実になると思ったのも、認める」
殿下が、言いづらそうに言葉を探しているのがわかる。背中に回された殿下の腕にぐっと力が籠る。スーツの胸に抱きこまれれば、煙草の匂いに咽そうになる。
がっちりと硬い身体と体温を感じるが、近づきすぎて、顔は見えない。
殿下は、計画的にわたしをこの部屋に誘い込んだ。
少しずつ少しずつ、甘い餌で手なずけ、餌付けして囲い込み、外堀を埋めて閉じ込める。ドレスや食事、オペラ――最後の仕上げが、おばあ様。
「わたしを、どうするつもりなんです?」
わたしの質問に、殿下がゴクリと唾を飲み込んだ音が聞こえる。
どう答えるべきか迷っているのだろう。その答えを待ちながら、わたしは考えていた。
どう考えてもわたしたちは身分違いだ。
もし、父が存命で、わたしがリンドホルム伯爵の令嬢のままであっても、田舎の伯爵令嬢と第三王子では不釣り合いなのだ。
まして、爵位も領地も財産も失った、ただの没落令嬢エルスペス・アシュバートンの人生と、アルバート殿下の人生は重なりようがない。殿下にだって、それはわかっているはずなのに。
殿下は、わたしに好意以上の感情を抱いているのかもしれない。
一時の気まぐれで、あるいは単に身体の欲を満たすためだけに、ここまで手の込んだことをするタイプの人ではないだろうから。
有り余る富と王子の権力で、適当な女をいくらでもベッドに引き込むこともできるのに、祖母を入院させてまでわたしをここに連れ込んだのは、それだけの気持ちがあるのだ、とは思う。
でも、殿下の気持ちは、ひどい言い方だが、この際どうでもいいのだ。
殿下の愛が真剣だろうが、そうじゃなかろうが、殿下と関係と持ったが最後、その先にはいずれ捨てられて破滅する未来しかない。
きっとわたしの評判は泥に塗れて、二度と這い上がれなくなるだろう。
世間は強い者に媚びを売り、弱い者をさらに叩くことを、わたしは王都で嫌というほど見てきた。
すべての攻撃はわたしに向かい、殿下は傷一つつかないだろう。
わたしは今、抜き差しならないところまで追い込まれている。
すでにおばあ様の入院費用を殿下に頼っている今、殿下が望めばこの身体を差し出す以外にない。
そうなる前に、逃げるべきだと、ハートネル中尉は言った。
でももう、手遅れだ――
耳元で、殿下が絞り出すような声で、言った。
「愛してる、エルシー。責任は取る。俺は、お前が欲しい」




