21、大事なもの
アルバート殿下が護衛とともに我が家を出た後、入れ替わりのようにロベルトさんが戻ってきた。そして、祖母は王立診療所ではなく、郊外の森の中にある、王立の療養院に入院が決まったと告げた。
すぐに祖母の着換えを持ったジョンソンが、ロベルトさんの連れてきた殿下の配下の一人に送られて療養院に向かい、わたしはロベルトさんと二人、ガランと人のいなくなった家に残される。
夏の日もようやく落ちて部屋に宵闇が訪れ、わたしは厨房の料理用ストーブの火をランプに移して暖炉の上の燭台に火を入れ、テーブルの上に置いた。
祖母が入院し、執事のジョンソンもメイドのメアリーも祖母に付き添って、わたしは一人きりになってしまった。
ロベルトさんが言う。
「こんな無人の家に、若い女性一人で住むわけにいかないよね。殿下からは、ほら、いつものアパートメントに連れていくように言われているから」
小さいながらも王都の一軒家で、若い女の一人暮らしなんて、想像もできないし、危険であるのもわかる。
「でも、この家を放置するわけには――」
「レディ・アシュバートンは少なくとも二か月は入院が必要らしい。いくらなんでも、君一人で暮らせないよ」
「でも――」
この家は、亡き母から受け継いだわたしの唯一の財産のようなものだ。
ためらうわたしを宥めすかすように、ロベルトさんが言った。
「こんな下町の一軒家に、若い女性を一人で置いておけない。今後どうするかはともかく、今夜は殿下のアパートメントに移ってくれないと、オレが殿下に怒られちゃうからさ。それは、わかるよね?」
無言で俯いたわたしに、なおもロベルトさんが言う。
「レディ・アシュバートンのお見舞いは、明日、オレが連れていってあげるから。今日はいろいろあって、疲れているだろう。あそこのメイドのノーラは、君も顔見知りだろう?」
いつも、殿下の間諜ごっこやレストランでの食事に付き合わされるとき、わたしは殿下のアパートメントに行くし、着替えや身支度を手伝ってくれるメイドもいる。まったく知らない場所ではない。
殿下のアパートメントに時々出入りするのでも、わたしは誰かに見られたらと、ヒヤヒヤものだった。でも、少なくとも泊まったことはない。さすがにあの部屋に泊まったら、傍からはどう見ても愛人だ。
でも、他に行く当てもないし……。
決心がつかないでグズグスしているわたしを、ロベルトさんが根気強く説得する。
「今回、ずいぶんと急な入院になってしまったけれど、殿下はもともと、君のおばあ様をあの療養院に入れられないか、交渉中だったんだ」
「……ええ、殿下もそう言っておられて……」
わたしは、さきほどの殿下とのやり取りを想い出しながら頷いた。ロベルトさんが滔々と説明する。
「あそこのコーネル医師は心臓の権威なんだよ。今回、たまたま、おばあ様が体調を崩した場面に行き会わせて、ちょうどいいと言えば、ちょうどよかった」
「だから、あんなにあっさり入院できたのですか」
「そう、王立診療所の方は急性患者が中心だし、殿下がかなりの金を出しているから、いつでも入院できる。でも、療養院は長期入院の患者が多いから、なかなかベッドが空かなくてね。でも、以前からの根回しが功を奏して、今回、ヴィラが空いていたから捻じ込めたんだ」
「そうだったのですか……でも、なんだか王族用のヴィラだとかなんだか……いくら何でもそこまで出していただくのは……」
「ああ、それはだね……」
わたしが費用への不安を零せば、ロベルトさんが眉尻を下げて苦笑いした。
「殿下にとって、マックス・アシュバートン中佐は本当に恩人なんだよ。いや、ぶっちゃけるとオレにとっても、中佐はいい上司だった」
その言葉に、わたしはハッとして正面に座るロベルトさんの顔を見つめた。
「……ロベルトさんも、父をご存知なのですか?」
「うん……オレは戦地で数か月だけ。でも、殿下はずっと昔から、中佐のお世話になってたと聞いたよ」
……わたしは、父の仕事も何も知らない。父が、どのように戦死したのか、も。
「……さっき、殿下が……父は殿下の盾になって死んだって……」
ロベルトさんが一瞬、眉を顰める。
「あの件は、オレの口からは話せない。守秘義務、って奴で。……そのうち、殿下ご自身からお話になると思うけど」
その守秘義務故に、父の戦死の状況は公にされず、そのために国事に死んだと認められず、わたしの代襲相続は勅許が下りなかった。だとすれば、殿下が父の死と、我が家の窮状に責任を感じるのも当然かもしれない。
「……複雑な事情があってね。殿下はその件でも密かに動いておられる。爵位を取り戻すことは無理かもしれないが、せめて何等かの補償をと、殿下は考えておられる。……だから、おばあ様の入院費や治療費は気にしなくていい」
そうは言っても、王立療養院の特別ヴィラへの入院に、法外なお金がかかるのは間違いない。それの費用を殿下に甘えてしまうのはとても恐ろしい。そうすべきでないと、わたしの中の危険探知が警鐘を鳴らしている。でも、援助を断ることもできない。
あの祖母が一般病棟の大部屋などで我慢できるはずがない。しかし入院して治療しなければ、祖母の心臓はもう持たない。そう、選択肢など、わたしにはないのだ。
「でも――」
ここで殿下のアパートメントに滞在したら、わたしは祖母を人質に取られた状態で、殿下と相対することになる。
昼間の、殿下にのしかかられた記憶が甦って、わたしは無意識に自分を抱きしめていた。
押し黙ってしまったわたしを励ますように、ロベルトさんがいつもの飄々とした調子で話続ける。
「この家なんだけどさ、思い切って人に貸すのはどう?」
「貸す?」
急に話が変わって、わたしは少しだけ驚いて顔を上げる。ロベルトさんの茶色い瞳が、蝋燭の灯で煌く。
「もともと、場所はいいんだ。本来は、ストラスシャーに住む君の母上が、賃料を得るために実家のクロフォード商会から譲られた家なんだろう?」
「ええ。本当はもう、数軒あったのですが、鉄道の線路の予定地に引っかかってしまって、国に譲渡したのです。ですから残ったのはここだけで――」
「で、ここ以外に住む場所もないから住んでた」
「ええ」
わたしが頷く。母が嫁ぐときに持ってきた宝飾品類も、すでに手放して手元に残っていない。この家だけが、母の形見のようなものだ。――宝飾品と違い、住んでいて生活に必要だってせいで、売らずに済んだのだ。
「どのみち、おばあ様が退院するまでは、この家は無人になる。……君が一人で住むのは安全の上からも勧められないし、そもそも無理だ。それに、どうもレディ・アシュバートンはこの家には不満だったようだ。人に貸して賃料を取り、おばあ様の退院後は殿下に別の住居を斡旋してもらえばいい」
祖母がこの家を嫌っているのはその通りなので、わたしは反論もできずに俯く。
「そうと決まれば、必要なものだけ持って、この家を出よう。すぐに仕度をして。だいぶん時間を無駄にしてしまった」
ロベルトさんにきっぱりと言われ、わたしは弾かれるように立ち上がった。
二階の自室から着替えと、必要なものだけを詰めた小さな鞄を持って、さあ、家を出ようという時になって思い出す。
「大事なものを忘れていました。少しだけ待ってください」
わたしはロベルトさんに言うと、ランプを手にすっかり暗くなった食堂へ向かう。
ランプを暖炉の上に置いて、わたしは暖炉の上の壁に掛かっている、薔薇園の額に手をかける。絵自体はそれほど大きくないのだ、額縁が立派で、わたしの身長では上手く外せない。食堂の椅子に上ろうかと思っていると、遅れて入ってきたロベルトさんが言った。
「忘れ物ってその絵? ああ、ちょっと待って、君では無理だよ。どいて、オレが外す」
背の高いロベルトさんはやすやすと額縁を外す。額縁の上には埃が溜まっていたけれど、わたしはそれにも構わず、ロベルトさんから額縁を受け取ると、思わずそれを抱きしめていた。
「ありがとうございます」
「その絵、値打ちものなの?」
「いいえ? 誰が描いたかわからないし、おそらく素人の作品です。でも、昔から大事にしているので……」
額縁を抱きしめるわたしを見て、ロベルトさんがおかしそうに言った。
「それがエルシーたんの大事なもの、だったのか。……じゃあ、今度こそ行くよ。きっと殿下がイライラして待ってる」
わたしはその小さな家に鍵をかけて待っていた馬車に乗る。
――それが、その家との別れになった。




