67、副本の紛失
国王陛下が王室長官を振り返り、尋ねる。
「アーサー、あの時、副本の紛失に気づいたのであったな」
「はい。……マックス・アシュバートン卿への勅書は二通ございました。一通は、『いかなる場合も直系への相続を許す』という、相続確約の勅書。これは法務省の司法局資料室に保管いたしました。相続に問題が起きた時、すぐに参照できるように。もう一通、アルバート殿下と、リンドホルム伯爵令嬢との婚姻を認める勅書は、王家の婚姻に関わる極秘の勅書でございますので、陛下のお手元、この執務室の棚に保管されておりました。ごく一部の寵臣、政府の幹部しか立ち入ることの許されぬ場所でございます。それが、二通とも紛失しておりました」
「……それはつまり、レコンフィールド公爵が――」
「あるいは、首相のバーソロミュー・ウォルシンガムだったかもしれんが。二人ともそれについては憶えがないなどと抜かして、認めてはおらぬ」
陛下が苦々しく吐き捨てる。勅書の副本とはいえ、故意に紛失させれば、当たり前だが罪に問われる。しかし何分にも三年も前のことでもあるし、証拠もなく、これ以上の追及は難しい。王室長官が言う。
「原則として、王宮にあるものはあくまで、万一の偽造などを防ぐための副本で、勅書の正本はそれぞれの請願者の元に――この場合であれば、マックス・アシュバートン卿の手元に残ることになります」
つまり、問題が発生したときには貴族の側から異議を唱えなければ、王家が対処してくれたりはしない。
それに対して、アルバート殿下は反論した。
「マックスの勅書は秘密のものだから、家族から申し出ることなんて普通、ないだろうに! 奴らはそれを見越した上で――」
王室長官が頷く。
「そうです。マックス・アシュバートン卿が戦死であることは疑いようもないのに、公爵たちは言いがかりに等しいものでした。その場には首相……いえ、元首相のウォルシンガム卿もおられて、書類がない以上は認められないと一点張りで」
「余は、シャルローでの戦死であるのは間違いがない故、国王の権限をもって決定をひっくり返そうとしたが、ウォルシンガムが拒否した。――シャルローに絡む問題をつつけば、大きな問題に波及すると。つまり、王妃の罪が漏れ、王家および、国家の危機に繋がりかねない。リンドホルムは小さな綻びに過ぎない。そこを守って国の根幹を揺るがすべきでないと」
「……あんの野郎……絶対、殺してやる」
ギリギリと奥歯を噛みしめた殿下の呟きを耳にしたのは、たぶん、わたしだけだった。
「リジー……」
わたしは思わず殿下の上着の裾を掴む。
首相と、レコンフィールド公爵は、父の戦死を利用して、リンドホルムを潰すつもりだったのだ。父が死に、たまたま弟も殺されて、残ったのは年端もいかぬ小娘のわたしと、年老いた未亡人だけ。勅書も手元になく、訴え出ることもできないと踏んで、書類の不備を言い立てて。
――力のない者たちと蔑み、踏みにじった。
わたしは顔を上げ、まっすぐに国王陛下見た。
「レコンフィールド公爵が我が家を恨むのは、わかります。……はっきり申し上げれば逆恨みだと思いますが、それでもまだ、王妃陛下の苦しみは理解できます。でも、首相のウォルシンガム卿がなぜ、我が家を目の仇にするのです?」
わたしの問いに、国王陛下が深い深い、溜息をついた。
「……ウォルシンガムは余がマックスに与えた、アルバートとそなたの結婚を認める勅書が、気に入らなかったのだ。ウォルシンガムはリンドホルム伯爵のような、力のない家から王子の妃を出すべきでないと言い張った。それは貴族の秩序を破壊する、余の恣意に過ぎぬと。勅書の存在を知ったウォルシンガムらは勅書を隠蔽し、婚姻の要件を満たさないよう、そなたの代襲相続を潰したのだ」
「……あの……勅書が……?」
あの日、議会でアルバート殿下が掲げた、父が最期まで胸ポケットに持っていた、血染めの勅書。
わたしと、アルバート殿下の結婚を、国王陛下が認めたあの勅書が――。
「アルバートがあの日、議会で述べた理由は、当たりだったのだよ。――バカバカしいと思うかもしれないが、権力の中枢にいる者にとって、王との距離は権力の源泉そのもの。自らがそれに縋り、権力に固執するが故に、その特権を奪われ、失うことを恐れるのだ」
わたしは両手で顔を覆っていた。
「エルスペス妃」
王太子殿下がわたしに語りかける。
「……なんと詫びていいのかわからないが――いや、詫びる権利すら、ないのかもしれないが。それでも――」
だがその王太子殿下の言葉を、国王陛下が遮った。
「謝罪でなかったことにできるなら、警察は何のためにあるのか――であったな。まったく、我々王族は罪深い。罪深すぎて、もはや法の意味すらなさず、償うことすら許されない。エルスペス。……余は、詫びたりはせぬ。詫びることも、許しを請うこともせぬ。いや、許されぬと申すべきか」
陛下はそう言い、力なく身を起こす。――アルバート殿下に瓜二つのそのお顔には深い皺が刻まれ、顔色はくすんでいた。疲労の色が全身を覆い、怠そうに見えた。体調が悪いのは本当なのだろう。
わたしは言った。
「陛下、お詫びはもう、十分です。あの、謁見の場で詫びていただきました」
その言葉に、陛下は顔を歪める。
「……そうであったな。あれは本来は許されぬ詫びだ」
「父上――」
咎めるような王太子殿下の声に、わたしは薄く微笑んだ。
「正直に申し上げれば、詫びていただいたところで、死んだ者は戻って来ません。今、わたくしは権利を取り戻すことができましたし。――アルバート殿下の、ご尽力のおかげで」
アルバート殿下が首を傾げる。
「……エルシー、いいのか、そんな寛大なことで、それでは――」
わたしは笑った。
「お詫びはもう、十分だと言っただけで、許すとは言っていません。陛下は詫びることもできないし、わたくしの方でも、これ以上詫びていただいても、すぐに許せることでもありませんし。むしろ詫びたんだからお前も許せ、水に流せと言われても困ります」
わたしの言葉に、周囲の人々は困ったような表情で顔を見合わせている。――ここは空気を読んで、「許す」と言うべき場だとはわかるけれど、王家の我が家に対する仕打ちは、簡単に許せるレベルを超えている。
「……ただ一つだけ、お願いがあります」
「余が、叶えることができる願いか?」
わたしは陛下をまっすぐに見つめ、頷いた。




