63、長すぎた春
「大変っすよ! レコンフィールド公爵令嬢が!」
温室続きのアトリエで、わたしはユールと遊び、殿下がそれをスケッチしているところに、ロベルトさんが駆け込んできた。
「ステファニーがどうした」
殿下は心底興味ない、という風に、スケッチブックから顔も上げずに尋ねる。
「駆け落ちしたそうです」
「えええ?」
わたしはびっくりして、抱いていたユールを落としてしまう。あやういところでバランスを保って着地したユールが、「きゃん、きゃん!」とわたしに文句を言う。
「なんだそんなこと。相手はウォルシンガムか? 伯父と姪は正式な結婚は無理だが、背徳感がかえってそそるのかも――」
「相手は、アイザック・グレンジャーですよ! しかも、シュタイナー伯爵令嬢との、結婚式の当日に」
「なんだと?!」
さすがにこれには殿下もびっくりして、慌てて顔を上げる。
「結婚式当日ってどういうことだ?」
「新郎が来なかったんですよ。花嫁のブライズメイドの一人だったステファニー嬢も来なくて、花嫁のミランダ嬢は礼拝堂に待ちぼうけ」
「……いっくら何でも非常識だろ、それは!」
わたしは驚きのあまり声も出ない。殿下が尋ねる。
「ステファニーの意志で、グレンジャーと駆け落ちってことか? 誘拐じゃなくて?」
「ええ、グレンジャーとミランダ嬢の結婚式は、もともと三月の半ばに決まってた。二月の王宮舞踏会で、あんな形で婚約破棄になったステファニー嬢を気遣って、ミランダ嬢は結婚式を延期しても、と言ってたらしいっす。でもそれをステファニー嬢が、予定通りにやればいいって……結婚式はグレンジャーの実家、ギルフォード侯爵領で行われる予定で、ステファニー嬢も数日前にはギルフォード領に滞在していて――」
新郎の不在にギルフォード侯爵家が邸を捜索すれば、も抜けの殻になったステファニー嬢の部屋に書置きがあって、ミランダ嬢への詫びと、「今度こそ真実の愛を見つけた」と――。
ギルフォード領は王国の南部で、ハンプトンの港に近い。捜索隊が駆け付けた時には、二人を乗せた新大陸行きの客船は出航したばかりだったと……。
わたしたちは顔を見合わせる。しばらくして、わたしが辛うじて口にできたのは、
「……それは――ミランダ嬢が気の毒過ぎるわ。そんな形で、婚約者と親友に裏切られるなんて」
だけだった。傷心のステファニー嬢には、新しい恋を見つけて欲しいと思っていたが、まさかそんな――。
その夜、夕食後にオーランド邸の暖炉の前で殿下と寛いでいると、ジェラルド・ブルック中尉が報告に訪れた。ブルック中尉の実家、ジェニングス侯爵家は、ギルフォード侯爵家と同じ王国南部の貴族。結婚式にはブルック中尉の両親、ジェニングス侯爵夫妻も招待されていた。
「大騒ぎですよ。普通のご令嬢が駆け落ちでも大変ですのに。よりによって王子に婚約破棄され、かつ、父親はレディ・エルスペスの代襲相続を無理に邪魔した件の責任を取って、爵位を息子に譲ったばかり。その上、自身が親友の婚約者を結婚式当日に掠奪じゃあ……それまであった、世間の同情も全部、吹っ飛びましたね」
殿下に勧められた一人がけソファに腰を下ろしながら、ブルック中尉が言う。
「うちの両親の話によれば、待てど暮らせど新郎がやってこなくて、おかしい、おかしいって。花嫁は真っ青になって倒れてしまうし。で、そのうち、ブライズメイドの一人が、ステファニー嬢もいないって言い出して。――息子の不始末に、侯爵は蒼白で、侯爵夫人も体調を崩してしまったそうです。レコンフィールド公爵――ステファニー嬢の兄のチャーリー卿ですけどね。爵位を継いだばかりでこんなことになって、それも気の毒だったと……」
殿下はソファのひじ掛けに凭れ、わたしはその隣で、膝の上でユールの毛を撫でていたが、ユールはブルック中尉がお気に入りで、嬉しそうにピコピコ尻尾を降っている。ステファニー嬢とグレンジャー卿の駆け落ちに、わたしは複雑な気分だった。すべてを捨てて逃げた二人よりも、残された人々は本当に大変だろうと同情してしまう。
「そんな直前……というか、式の当日に逃げなくてもいいのに」
わたしが言えば、殿下も眉間に皺を寄せる。
「本当に迷惑極まりないな。……婚約破棄されて傷ついたところを、グレンジャーが慰めたのかもしれんが。俺のせいだなんて、話にはなってないだろうな?」
「婚約破棄された挙句、親友の婚約者を奪ってしまうワタクシ、でも真実の愛を見つけてしまったから……って自分に酔ってそうですよね、ステファニー嬢」
ちょっと高い作り声まで出して、それっぽく品を作ってみせるブルック中尉に、わたしと殿下は思わず噴き出した。ちょうど、ジュリアンが男性二人にブランデーを、わたしにホットワインを運んできて、思わず肩を竦める。――ジュリアンも従軍した仲間であるから、普通の主人と従僕よりも、なんとなく気安いところがある。
「ミランダ嬢とグレンジャーも、ずいぶん長いこと婚約状態だったんだなあ……」
殿下がつぶやいて、わたしも思いつく。ステファニー嬢は、この三月で二十二になると聞いた。ミランダ嬢だってもう、二十歳を越えているだろう。
「グレンジャーも俺より一つ下で……とっくに結婚していると思ったのに」
「グレンジャーは東部戦線で負傷して……怪我の程度が重くて、一年ほど療養していました。それもあって、結婚が遅れていたんです。婚約期間が長すぎると、ダメになることがありますね。長すぎた春って奴ですよ」
ブルック中尉がブランデーのグラスを手にして、一口飲む。
「グレンジャーはミランダ嬢にぞっこんかと思っていたんだがなあ。……わからんもんだなあ」
殿下が呟き、暖炉の火がパチンと弾けた。




