45、婚約破棄
三曲目が終わると、殿下は踊りをやめ、脇によって給仕から発泡ワインを取って、わたしにも手渡す。たくさん踊って喉が渇いていたわたしは、本音では一気に飲み干したいくらいだったけれど、淑女らしくゆっくりと喉を潤す。
わたしが飲み終わるのを待って、殿下はわたしの腰を抱き、ゆっくりと玉座の方に向かう。
「何をなさるおつもり?」
「婚約破棄」
「は?」
「エルシーは黙っていてくれればいい」
殿下が玉座のすぐ下まで来ると、状況を察したのか、今までフロアに紛れていた関係者が玉座付近に集まってきた。王太子ご夫妻、マールバラ公爵、カーティス大尉、ブルック中尉、今日は警備を担当すると言っていた、マクガーニ中将閣下も。……後ろの方には護衛として控えている、正装の軍服姿の、ロベルトさんとラルフ・シモンズ大尉までいた。
そして当然ながら、レコンフィールド公爵とステファニー嬢も。彼女は真っ青な顔で、姉のマッケンジー侯爵夫人アスリンが寄り添っていた。
すでに音楽は鳴りやみ、舞踏会場に詰め掛けた貴族たちも、|固唾〈かたず〉を飲んで見守っている。
「……父上。いえ、国王陛下。お願いがあります」
「バーティ、今、ここでせねばならぬことか」
「ここで、多くの証人の前でなければ、また以前のように有耶無耶にされてしまいます。俺は以前、ステファニー嬢との婚約話を白紙に戻すように父上にも、公爵にも了解を取り、政府広報にも出た。にもかかわらず、戦地から戻ってみれば、ステファニーとの婚約がまだ生きていた。そんなバカげた失敗を二度と、繰り返したくないのです」
殿下は、わたしの手を強く握りしめ、さらに一歩前に出た。
「父上。レディ・エルスペス・アシュバートンとの結婚をお許しいただきたい」
「殿下! お待ちください。殿下の婚約は議会でも承認がなされております。それを簡単には――」
横から鋭い声が飛び、背の高い紳士が進み出る。さきほど、謁見の間でわたしを厳しい表情で見つめていた人だ。
「バーソロミュー・ウォルシンガム卿。少し黙っていてもらおう」
殿下は紳士をぎっと睨みつける。見たことがあると思ったら、首相だった。殿下は国王陛下に向き直り、言った。
「俺はステファニーとの婚約はしていないつもりだ。俺は戦争前にステファニーとの結婚話は白紙に戻して戦場に行った。四年間、兵士に混じって塹壕に籠り、泥に塗れ、ステファニーとは一度も手紙すら交わさなかった。だが王都では、ステファニーと俺は相思相愛で、彼女は俺を待ち続けたんだから、責任を取って結婚しろと!――俺の意志を完全に無視する形で!」
殿下は玉座の前に立つ、ステファニー嬢をまっすぐに見た。
「帰国して、俺はステファニーとは結婚しないと何度も言った。婚約する気もない、と。だが、公爵もステファニーも、そこの! 首相までが父上から裁可をもぎ取り、知らない顔で議会にかけ、承認を取り付けた。そして議会の承認を盾に、婚約は成立していると言い張る。俺は婚約した覚えもないものを、最大限に譲歩して、婚約の円満な解消を申し出た。何度もだ! それなのに、ステファニーも公爵もそれを拒む。無理を押し通せば俺が我慢すると思ったら、大間違いだ!」
殿下の金色の瞳はギラギラと光り、怒りに燃えて公爵とステファニー嬢、そして首相のウォルシンガム卿を睨みつける。レコンフィールド公爵が一歩前に出て、言った。
「……もともと、そういう約束なのです。国王陛下と、我が姉、王妃陛下との間の!」
「そんなのはもう、無効だ!」
「バーティ!」
ステファニー嬢が叫ぶ。
「わたくしはバーティを!……いえ、殿下を愛し、お慕いしております。だから四年間、殿下のお帰りをお待ちしたのです!ですから……!」
ステファニー嬢は誇り高く顔をあげ、殿下をまっすぐに見た。
「思い出してくださいませ、わたくしはずっと、殿下の婚約者としてお側におりました。殿下はわたくしに優しくしてくださった。四年待ったのですもの、何年でも待てます! ですから……!」
「はっきり言うが、昔からお前のことなど愛していない。王妃に言われて仕方なく付き合っていただけだ。子供の時は我慢したが、俺はもう、お前たちの言いなりになる人形じゃない!」
「殿下!」
ウォルシンガム卿が諭すように言う。
「このような場でなさることとは思われません。場所をお考えください」
「俺がいろいろ気を使い、ステファニーの名誉を傷つけないよう、事を表沙汰にしないできた結果、お前たちはそれをいいことに、俺の意志も気持ちも全部、押し潰してきたんじゃないか。白紙にした婚約をまだあると言い張り、白を黒と言いくるめ、ステファニーとの婚約解消に同意せず、議会を盾に俺を縛り付けようとする。言っておくが、わざわざ、今この場を選んだんだ。秘密を暴露されて困るのは、俺じゃない」
殿下は胸を張り、朗々たる声で宣言した。
「アルバート・アーネスト・ヴィクター・レジナルドは、レコンフィールド公爵令嬢ステファニー・グローブナーとの婚約を破棄する! たとえ全財産と王子の身分と引き換えにしても、ステファニーとは結婚しない! そしてここにいるミス・エルスペス・アシュバートンと結婚する!」
殿下の宣言が、王宮の舞踏会場に高らかに響き渡った。
舞踏会場にはしわぶき一つ漏れず、完全な沈黙が下りる。
アルバート殿下は金色の瞳でまっすぐにステファニー嬢を睨みつけている。そして左手はわたしの手を握り、その手は微かに震えていた。
婚約の破棄。――円満な解消ではなく、一方的な破棄。
王子の婚約が破棄されることが、どんな意味を持つのか、この場にいるものはみな理解している。
「お待ちください、アルバート殿下。そして、国王陛下」
重苦しい沈黙を割って進み出たのは、首相ウォルシンガム卿。
「アルバート殿下。第三王子であり、第二位の王位継承権を持つ、あなたの婚約は国事です。そのような勝手な宣言など、認められません」
「ならば王子の身分も、継承権も放棄しよう。俺には必要のないものだ」
「バーティ!」
王太子殿下が叫ぶ。
「待ってくれ、落ち着いてくれ。今は、継承権を放棄されると困るんだ、ブリジットをこれ以上、追い詰めないでくれ! バーティ!」
王太子殿下の横で、ブリジット妃殿下が真っ青な表情で震えている。――もし、アルバート殿下が継承権を放棄すれば、現行、王家には王位を継承できる男児がいなくなってしまう。
「アルバート、継承権の放棄は許可できぬ」
国王陛下の言葉に、殿下は言い切った。
「先ほども申し上げましたように、俺には継承権も、王子の身分も必要ない。俺は自分の力で金を稼げる」
「ならば何を望む」
「ここにいる、我が唯一の愛、ミス・エルスペス・アシュバートンとの結婚を」
殿下の金色の瞳には、ひとかけらの迷いもなかった。




