14、前奏曲
亡命作曲家、レフ・ハリアビンに殿下が依頼した新作。
要するに誰も聞いたことのない曲で、わたしが世界最初の演奏者となる。
ぶっちゃければ、適当に弾いても絶対にバレない。わたしはじっと、ミセス・デイジーを見つめた。
わたしはこの女性に全く記憶がない。
パーマー家はリーデンシャーに領地があると言うから、わたしの故郷のストラスシャーとは方向違いだ。
なのに、彼女はわたしが実家でピアノばかり弾いていたことを知っている。そして殿下が、リンドホルム城の庭の一部を買おうとしていることも。
庭の売買に関する情報の入手元と言えば、思いつくのはダグラス・アシュバートンだけだ。ダグラスは三年前まで王都の法律事務所で働いていて……そうだ、たしか商家の夫人と不倫問題を起こして事務所をクビになったはず。
商家……ミセス・デイジー・フランクの夫は貿易商で、デイジーもまた不倫問題を起こして……。
信じられない偶然だけれど、ダグラスの不倫相手はおそらくデイジーで、二人は最近、よりを戻したか、少なくとも連絡を取ったのだ。――ダグラスは絵入り新聞やゴシップ記事から、わたしとアルバート殿下の関係に気づき、王都の伝手を辿ってデイジーに連絡を取る。そしてデイジーの昔の婚約者の弟が、アルバート殿下の側近だと知った。
ダグラスが何を企んでいるのか、わたしは不安に駆られるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
わたしはミセス・デイジーを意識的に無視し、ヴァイオレット夫人とマールバラ公爵に向かって言った。
「弾いてもよろしいですけれど、皆さま、退屈ではないかしら。本当に前衛的な曲ですもの」
「まあ! さすがはアルバート殿下の思い人ですわね!」
ヴァイオレット夫人やマールバラ公爵が何か言う前に、ミセス・デイジーが大げさに言う。
「さあ、どうでしょう。でもそろそろ、会を再開なさってください」
わたしは曖昧な微笑みを浮かべ、殿下と並んで元の座席に座る。
「大丈夫ですか? 突然……まさかデイジーがあんな……」
「す、すみません、わた、わたしが……」
カーティス大尉とシャーロット嬢が、身内の裏切りに青い顔をしているのに、わたしはあえて明るい表情で言った。
「どうせ、わたししか知らない曲ですもの。間違えても誰もわかりませんのよ」
「……もしかして、この前弾いていた、アレか?」
「もしかしなくても、アレですわ。最近、アレしか練習していませんので、アレ以外弾けません」
さすがの殿下の眉間にも皺が寄っている。
「憶えているのか?」
「ええ、暗譜は得意ですのよ。最近、暇があれば練習していたので、弾くだけなら弾けると思います。ただ……」
問題は、わたしの楽曲解釈が個性的過ぎること、そして極めて前衛的な曲ということなのだが。
音楽会は再開され、プログラムが進んで、ご令嬢がたの演奏が続く。
可憐な小夜曲、艶やかな夜想曲。技量はそこそこだけれど、女性らしい選曲は貴族の夜会に相応しいと言える。
楽譜があればわたしも弾けるけれど、でも、わたしのような弾き方をする人はいない。普段、わたしが弾くのと全然、別の曲に聞こえる。
(……大丈夫よ。ペダルも覚えたし)
何せ、わたしのために作曲を依頼した曲なんだから、わたしと作曲者以外、誰も知らない。間違えても誰もわからない。大丈夫、とにかく弾けばいいんだから。
「次は急遽、演奏をお願いした方で、ミス・エルスペス・アシュバートンです。曲はレフ・ハリアビンの練習曲」
名を呼ばれてわたしが立ち上がると、殿下がわたしの腕を掴み、手を取ってキスをした。
「間違えてもバレない、適当に弾いとけ」
「ええ。……ああ、それからこれ、預かっておいてください。さすがに弾くときに気になるので」
わたしは左手の薬指からサファイアの指輪を抜き、殿下に渡す。殿下がもう一度わたしの薬指にキスをし、わたしは殿下に微笑みかけ、自分が弾くわけでもないのに、今にも倒れそうなシャーロット嬢の横をすり抜け、ゆっくりとピアノに向かう。
「楽譜は?」
「持って来ていませんの」
ピアノの横に世話役のような顔で立っているデイジーが、わざとらしく尋ねてくる。持ってきてるわけないじゃない、馬鹿なの? て顔で答えれば、一瞬、複雑そうな表情をした。まさか弾くのを了承すると思ってなかった?
わたしがあくまで辞退して、場の雰囲気を悪くさせるつもりだったのかしら?
――まあ、弾いたところで、場の雰囲気が微妙になるのは間違いない。
これから弾くのは、世界で誰も聞いたことのない、恐ろしく前衛的な曲だもの。
でも、わたしのせいじゃないし、どうなっても知らないんだから。
そんなつもりで、わたしはデイジーの存在など無視してゆったりとピアノの前に座り、充分に時間を取る。ピアノを前にすると全ての雑音が消えるのはいつものこと。わたしは瞬く間に音楽に没頭した。
とにかく、ピアノがいい。
調律も完璧で、鍵盤のタッチも滑らか。響きも文句ない。
さすが、名門貴族マールバラ公爵邸のピアノだった。
音楽が流れだせば、わたしの脳裏にはどこまでも続く、北国の雪原が浮かぶ。冷たい吹雪に煽られて、それでも、生きるのを諦めないのは、愛しい人がいるから。殿下に会えなかった時間の鬱憤を、左手の激しい動きで叩きつける。情熱の全てをぶつけるように、両手で激しい和音を刻んで。
激しく、かつ複雑な左手は、なかなか弾けなくて頑張って練習した。努力の甲斐あって、ミスタッチもなく滑らかに動いてくれる。――これまでのご令嬢たちの曲と全然違うけれど、わたしはこれしか弾けないって言っているのに、無理を言うんだから、別にいいわよね?
両手が鍵盤の上を滑るように動き、最後の難所を終える。上手く行った!
最後の和音が消え、わたしが我に帰ると、大広間はシーンと静まり返っていた。
……やってしまったのかしら?
だから前衛過ぎるからやめた方がって、わたしは……。
パン、パン、パン……と誰かの拍手が聞こえ、そこから突如、万雷の拍手が鳴った。
「素晴らしいわ、ミス・アシュバートン! 驚いたわ!」
「前衛というよりは、むしろ情熱でした! 感動しました!」
ヴァイオレット夫人とゴードン卿がこもごも感激を表してくれ、露骨に引き攣った表情で拍手をするデイジーに、ものすごく溜飲が下がる。貶そうにも、誰も聞いたことがない曲だし、前衛曲だから上手いか下手かさえ、わからないだろう。わたし自身は思いっきりピアノが弾けて、大満足して席に戻る。
「すごい、あんなにお上手だとは想像していませんでした。びっくりして声も出ません」
カーティス大尉が言い、シャーロット嬢も目を潤ませて頷く。
「そうですか?」
「そりゃ、あんな曲をいきなり弾き出したら、誰でもビックリするさ」
殿下が苦笑し、わたしは首を傾げる。
「だって、今、暗譜で弾けるのはあれだけですもの。他のは無理ですわ。……白けてしまったのではないかと、心配でしたのよ」
「いや、まさかの超絶技巧だから、皆、しばらく茫然としていた」
鍵盤に両手を叩きつけるように弾いているわたしの姿に、一堂、驚愕だったらしい。
殿下はわたしの左手を取って、改めてサファイアの指輪を嵌め、これ見よがしに手の甲にキスをした。
「ご苦労様、よくやってくれた。エルシーの精神力の強さにはいつも驚かされる」
「そうですか? 無表情で図太いだけですわ」
わたしが言えば、殿下も満足そうに微笑み、顔を寄せて頬にキスをした。




