4、聖夜
わたしは驚愕のあまりバランスを崩し、尻もちをついてしまった。
「エルシー! 大丈夫?」
アグネスがわたしを助け起こそうとするけれど、彼女もふらついている。
「だ、大丈夫よ、アグネス。一人で――」
が、わたしの腕を大きな手が掴み、引き上げられる。
「は、離して――」
「話があるんだ」
「誰? お知り合い?」
アグネスが不安そうにわたしに抱き着く。
「今は彼女の付き添いをしているんです。困ります」
「でも、この機会を逃すと話ができない」
ハートネル中尉がわたしの腕を掴んだまま言うのに、わたしは必死に首を振る。
「離してください、中尉。人を呼びますよ」
「僕はもう、軍はやめた。今は金融街で働いている」
軍を辞めたとは聞いていた。確かに彼は軍服ではなかった。――ツイードのチェスターフィールド・コートに、中折れ帽、以前よりも少し痩せて、榛色の瞳がギラギラしていた。
「わたしに、話はありません!」
「僕は君を諦めるつもりはない」
子供の前で何て話を――! わたしは眩暈がして、もう一度転びそうになる。そのぐらついた背中を、誰かが支えてくれ、わたしはびっくりして振り向く。
「この女性に、何か? 手を離したまえ」
ラルフ・シモンズ大尉が鋭い眼光で睨みつけ、ハートネルは仕方なく手を離す。
「……アグネス、ジェニファー夫人のところに戻りましょう」
「う、うん……」
シモンズ大尉に守られる形で、わたしはジェニファー夫人が待つリンクの端に戻る。
振り向けば、凍った池の上から、ハートネルがじっとわたしたちを見つめていた。
「何があったの? アグネス?」
「知らないおじちゃまが、エルシーに声をかけて……あの人、エルシーのことが好きなの?」
わたしがぐっと答えに詰まると、シモンズ大尉が何事もない風に応えた。
「そうかもしれない。嫌われているのに、しつこく言い寄るヤツはどこにでもいる。お嬢ちゃんも気を付けないとな」
「エルシーは美人だものね」
わたしたちはスケート靴を履き替えてスケートリンクを離れ、移動遊園地の方に向かう。屋台の食べ物などはあまり口にするべきでないのかもしれないが、ハートネルに会ったショックで、身体がすっかり冷えてしまった。ジェニファー夫人についてきている従僕がアグネスにホットチョコレートを、わたしとジェニファー夫人にホットワインを買ってきてくれて、それを飲んでようやく、人心地つく。
ラルフ・シモンズ大尉がついてメリー・ゴーランドに乗るアグネスに手を振っていると、ジェニファー夫人が言った。
「ごめんなさいね、わたくしが呼び出したばかりに」
「いいえ、そんなことは。一人でいると滅入ってしまって。嬉しかったです。スケートも久しぶりで」
まさかハートネルがあんなところにいるなんて。……もしかして、ずっと後をつけて?
ぞっとして、つい自分の両腕を抱き締める。
「さっきの人は……」
「……求婚、されたんですけれど……その直後に祖母が入院してそれどころじゃなかったし、わたしはその、殿下と――」
客観的には祖母の入院費目当てにアルバート殿下の愛人になったので、彼とはそこで終わりのはずだ。……始まってもいなかったけど。
「……今日の汽車で、マールバラ公爵が帰国なさったそうよ。今夜は国王陛下への復命と、帰国祝いの晩餐だそうで。非公式なものなので、わたくしは遠慮したの。――その席で、公爵閣下はレコンフィールド公爵令嬢と、アルバート殿下の婚約に対し、陛下に反対の意を表明する手筈になっているそうよ」
耳元で囁くように言われて、わたしはハッとした。
マールバラ公爵は、アルバート殿下に次ぐ王位継承権を持つ、王室の重鎮だ。貴族院議員の一人でもある閣下の不在の間に、王族の結婚の承認を議会にかけるなど、認められない。そう、陛下に伝える。明日にも貴族院に異議を申し立てたいところだが、聖誕節の休暇に入ってしまうので、正式な異議申し立ては年明けになるだろうと。
ジェニファー夫人はわたしの手に手を乗せて、ギュッと握ってくれた。
「味方はいるわ。きっと、お父様とおばあ様が見守ってくださるわ。――そして神様もね」
夕暮れが近づき、移動遊園地に灯りが灯り始め、レングトン公園は幻想的な光景に包まれていった。
翌日は聖誕節の前夜。わたしは刺繍の最後の仕上げをして、火熨斗を当てて綺麗に畳み、包装紙で包んで買ってきた万年筆の包みに添える。
「……カードを買ってくるべきだったかしら」
買いに行くことも考えたけれど、昨日、ハートネルに会った恐怖を思い出し、外に出る気が起きない。ジュリアンに相談したら、常備してある綺麗なカードやレターセットを出してくれた。
まず、マリアン・ブレイズに簡単な手紙を書き、購入しておいた石鹸に添え、タイプした書類と一緒に、司令部に送ってもらう。それから、殿下へのカードを書こうとしたけれど――。
何を書いたらいいかわからなくて、わたしは小一時間、自室の書きもの机の前で悩んでしまった。
――リジーへ。愛しています。 E.A
悩んだすえに、それだけを何とか書いて、わたしはそそくさとカードを封筒に仕舞う。
顔を上げると、暖炉の上には薔薇園の絵と、造花の花束、そして木彫りの馬。ぜんぶ、殿下のくれたもの。――どんな宝石よりも、ドレスよりも、一緒に過ごす時間と思い出が、何よりも欲しいものなのに。
今夜も彼と過ごすことはできないのだろう。
わたしはプレゼントの包みを暖炉の上の、木彫りの馬の隣に置いた。
王宮では王太子殿下ご一家を含めた、ご家族が揃っての夕食が恒例だとかで、殿下ももちろん、そちらに参加なさるので、わたしは一人で夕食を摂る。――味気ない。
聖誕節の前夜は、教会のミサに出掛けたりで忙しく、どの家も、夕食はそれほど豪華ではない。わたし一人のテーブルには、パンとシチューと、豆のサラダ。デザートは自作のジンジャーブレッドマン。
通いのノーラは、明日のご馳走を作るのにてんてこまいして、配膳だけ済ませると明日は一日休むと言って帰っていった。彼女の息子に、と言って、わたしが山ほど作ってしまったジンジャーブレッドマンを一包み、持たせてやる。少しだけ減ったジンジャーブレッドマンの山を見て、うんざりした気分になる。
一人でぐずぐず考えるよりは、ピアノでも弾いた方がマシだと、わたしは聖夜をピアノの練習に費やすことにした。複雑な左手の動きに手を焼きながら、何度も何度も練習し、右手のメロディと合わせる。
熱中し始めると周囲の雑音も、雑念もすべて消え、わたしは北国の雪原を思い描きながら、ひたすらピアノに向かった。
「きゃん、きゃん!」
聞き慣れぬ犬の鳴き声に、わたしがハッとして手を止める。
見ると、ピアノの足もとにぬいぐるみのようなモコモコした仔犬が座り、舌を出してわたしを見上げ、盛んに尻尾を振っている。両耳から目の辺りが黒く、鼻から額にかけて白くて、頬が茶色い。仔犬ではあるが前脚は立派な太さで、これは相当な大型犬になるのでは……。
というよりも、なんでここに犬が? まさか――。
「きゃん、きゃん!」
「リジー? もしかして、本当に犬になっちゃったの?」
ちょうど居間に走り寄ってきた誰かが、ずるりと滑る音がする。
「何でそうなる!」
見れば、コートを抱えて帽子も被ったままの殿下が、片脚をついてがっくりと項垂れていた。
「リジー? 今夜は来られないかと――」
「兄上の家族や父上と飯を食ったって面白くないだろう。とっとと抜けてきた。……ちょっと、手間取ったけど。遅くなって済まなかった」
後ろからやってきたジュリアンが殿下からコートと帽子、それからステッキを受け取る。
「お食事は済まされたのですよね?」
「まあ、付き合わされた。……ブランデーと、煙草を頼む」
「承知しました。……その犬は?」
「ああ……」
殿下が肩を竦める。
「明日の、聖誕節のプレゼントにしようと思って隠しておこうとしたら、一目散にエルシーの元に走り込まれてしまったんだ」
「躾けは済んでいるんですか?」
「ああ、王宮の猟犬係からもらってきたから、基本的な躾けは大丈夫だ。……ジュリアン、お前、犬は得意だろう?」
「殿下のお世話で慣れていますからね。狂犬もどんとこいですよ」
わたしはピアノの前から立ち上がって、仔犬を抱き上げる。ふわふわで、そしてずっしり重い。嬉しそうに尻尾をピコピコ振って、とても人懐っこい。
「これ、わたしに?」
「うん。……安全を守るのに、番犬が必要かと思って。俺が側にいられない時も多いから」
殿下が眉尻を下げて言い、わたしを抱き寄せて額にキスをした。
「……さっきのえらく前衛的な曲は……もしかして、ハリアビンの?」
「ええ。いただいた楽譜です」
「まあ、お前が作曲者以外では、世界最初の演奏者だし、好きに弾けばいいけど……」
何か不満があるのだろうか、と思うが、抱きしめられた状態で、腕の中で仔犬が暴れるので、ちょっとどうしていいのかわからない。
殿下に腰を抱かれて暖炉の前のソファに移動し、並んで腰を下ろす。膝の上の仔犬は相変わらず尻尾を振り、わたしを見上げている。パチパチと暖炉のはぜる音がする。
「きゃん! きゃん!」
「てっきり、リジーが犬になってしまったかと思ったわ」
「どんな魔法だ」
わたしは仔犬の柔らかな毛を撫でながら、殿下に尋ねる。
「名前は?」
「好きにつけたらいい」
「じゃあ、リジー二号」
「やめろ。それにメスだ」
「まあ、女の子でしたの!」
わたしが仔犬をまじまじと覗き込む。
「お前の周りの雄犬は、俺一匹で十分だ」
殿下はそう言って、わたしを抱き寄せてキスをした。
「よろしかったの? わたしのところなどにいらっしゃって。王宮でご家族と過ごす夜なのでしょう?」
「俺は、お前と家族になりたいと思っている。だから、今夜と明日はお前と過ごしたい」
殿下がそう言って、もう一度わたしを抱き締め、唇を塞ぐ。暖炉の焔の熱のせいか、顔が熱い。膝の上で、仔犬がゴソゴソと暴れて、わたし達の間に割り込んでくる。
殿下が諦めてわたしを離すと、仔犬は誇らしそうにわたしの腕の中で身を捩る。
「こいつ、俺とエルシーの邪魔をしようとするつもりか」
「……聖誕節の贈り物だから……ユールはどうかしら。昔の言葉で。ユール!」
わたしが言えば、仔犬は嬉しそうに、ちぎれんばかりに尻尾を振った。




