過去のこと
※暴力的・強姦を連想させる表現があります。ご注意ください。
男女の性差による力の差というのは圧倒的で、騎士になりたての頃のニコラはいつも悔しかった。
今はある程度、力に頼らない戦い方を覚えたが、やはり純粋な力では勝負にもならない。
いや、今はそんな話ではないか。
振り返らないままニコラの手を引いて、脱衣場まで連行した団長は、ガシガシと荒い手つきでニコラの髪を拭いた。
あとは自分でとタオルを渡され、よくわからないまま身体を拭いて着替える。
そのまま寮を出て、無人の戦士団待機所の団長室に入り、何やら書き置きをしてまた部屋を出る。
為す術もなく……というと、語弊がある。
団長の手は、決して拘束するわけでもなく、ぬくもりを分ける程度の強さでしかない。
ほどかなかったのは、きっとニコラの方だ。
団長に手を引かれ、少々駆け足になると、気づいた彼がやんわりと歩幅を縮める。
いつも、こうだっただろうか。そうだった気もする。
戦士団に入ってから、ニコラは、自分の性別を必要以上に負い目に感じなくなった。
それは、団長を始めとした同僚たちの誰もが、ニコラに歩幅を合わせてくれていたからなのだろうか。
ニコラの持ち味の素早さや身軽さを、当たり前のように戦力として使ってくれる。
そのくせ、純粋な力が必要な場面では、補佐としての役割を与えてくれた。
「……団長」
どこかの立派な屋敷の鍵を開けて入り、手を離して鍵をかけ直す団長の広く大きな背中に呼びかける。
ぴくりと動いた気もしたが、気にならなかった。
「ニコは、戦士団に、いる……です」
意識して話そうと思うと、どうしてか頭で考えたことをうまく発語できない。
首を傾げつつ、相手が黙っていることにも構わず、ニコラはうんうん考える。
「戦士団が、いいです」
「……」
「ニコは、戦士団で、よかった。です」
「…………そうか」
はらりと額にかかる淡蒼の髪に隠れて、同色の長い睫毛が伏せるから、ライラックの瞳が見えない。
────この人の前は、怖い。
すべてを見透かすようなライラックに、丸裸にされてしまいそうで。
すべてをさらけ出してもなお受け止める深すぎる懐に、たぶん、ニコラは恐怖している。
この人には敵うまいと、本能が告げる。
この人とは敵対しても、ましてや思慕してもならない。
飽くこともなく、満ちることもない渦に、ただ呑まれるだけだと知る。
恐ろしくて慕わしくて、焦がれるほどに。
無意識に伸ばした日に焼けない小さな手は白くて、団長の猛々しい頬にはあまりに不似合いで、それなのに。
「……ありがと」
あの灼熱の中、救ってくれたのが誰の手なのか、ニコラは知っている。
この人が知られたくないと思っていることも、ずっとわかっていた。
重ねられた無骨な手が、痛いほどにニコラの手を握る。
頬に押しつけられた手を濡らす雫は、きっと気のせいだ。
「知ってる。……ごめんね」
どう言えばよかったのだろう。
ニコラはこの先何度も、この浅い朝の雫を思い出すのだろう。
騎士団に入団して半年と少し過ぎた頃。
数少ない女という生き物で、若年でそれなりの見目をしていたニコラは、模範的でない騎士仲間からよく揶揄混じりの下心を持たれていた。
想定していたことでもあり、入団時に騎士団長自ら忠告されていたこともあって、ニコラはさほど気に留めていなかった。
今とは違い、投げられる軽口に言い返したり、時には口論もした。
今よりも幼く、そして自身の〝特技〟に気づいてもいなかった。
その日も、確か数人の先輩騎士に囲まれて、卑猥な言葉や蔑みを投げつけられて、つい言い負かしてしまった。
やりたいならやってみろ、と叫んだ気がする。後悔させてやる、と。
本当に青臭い、本当に甘ったれた子供だったのだ。
当然のように同じく若い騎士たちはいきり立ち、数人がかりで襲いかかられて、力では敵わないことも、普段手加減されていたことも知った。
暴力的で乱暴な行為だったと思う。
ただひたすら、痛みと悔しさが心の中で暴れて。
灼熱の塊に焼かれているような、身体が内側からバラバラに砕けるような苦痛に、意識すら朦朧としていた。
さんざん殴られた後だったから、血も足りていなかったのだろう。
痛みの中、この状況を招いたのが自分の〝特技〟の効力なのだと、どこか冷静な頭の隅で理解した。
そうして、どれくらいかの時間が経ち、突然扉が開く音と怒声と足音と、とにかく騒がしい音が響き渡って。
霞む視界に、ライラックを見た。ただそれだけ。
次に見つけた時その色は、新しく配属された戦士団を統べる長のものだったから。
あれ以来、ボコボコにしてやろうと探し回っていた先輩騎士たちが見つからなかった理由とか。
まだ新人騎士なのに、他の騎士団から一目置かれている部隊に配属された理由とか。
だけど、ライラックの人はいかつめらしい顔で『初めまして』の挨拶をするから。
ニコラはあれ以来、自ら課した決め事を頑なに守ることで、信頼に応えようと思った。
本当に、ニコラにとってしてみれば、ただそれだけのこと。
辱められたと思うことはなかったし、落ち度は青臭く無知だったニコラ自身の特異さにもあると知った。
それだけの、こと。
「……大丈夫。大丈夫」
次にこの人に会ったら、言おうと決めていた。
今にも泣きそうに潤むライラックを、どうしても忘れられなくて。
「あなたは、正しい」
暴き立ててしまったと、騒ぎ立てて知らしめてしまったと、思わなくていい。
「大丈夫。あなたは、優しい」
あの時確かに、ニコラは救われたのだ。
あの時からずっと、救われ続けているのだ。
だから、大丈夫。




