(12)終わった後のがめんどくさい
黒鼠の大氾濫。
後にそう呼ばれるこの大事件の犠牲者は数百人に及んだ。
それは決して少ない数ではないが、発生から数時間で終息したこともあり、規模の割に被害は少なかったと言えた。
その上、ネズミに噛まれた者達のうち、黒鼠病を発症した者がほぼゼロであったことを考えれば、被害は僅少と言っても良かった。
ただ、そのあまりに唐突な終わり方に、そもそも氾濫自体が無く、何者かによる幻覚だと主張する者も居たが、実際に被害が出ているため、その意見を取り合う者はほとんどいなかった。
街の領主は冒険者ギルドに原因の究明を命じ、下水道内に調査隊が送られ、女王黒鼠の巣が発見された。しかもそれは一ヶ所にとどまらず、複数の場所で同時に女王が生まれていた形跡があった。それならばあの黒鼠の数にも納得がいくが、他の黒鼠同様、女王の姿もまた無く詳細は不明なままであった。
同時期に複数現れた女王と同時多発的に起きた氾濫。それが偶然によるものか、何者かの意志があるのか、なにも判らないまま事件は唐突に終息した。
この事件には多くの謎があり、全貌を把握している者は誰一人いないが、事件がどのよう終息したかを知る者はごく少数ながらいた。
だがその者達も決して理解できているわけではなかった。いやむしろ、余計に困惑しているといえよう。
領主の家令の証言により、黒鼠を消し去ったのは浮浪女児であることらしいと思われたが、あまりに荒唐無稽な状況に、報告を聞いた領主も信じ切れずにいた。
女児と行動を共にしたギャングたちも彼女の名前すら知らず、何やら事情を知っているらしい黒ヒョウもいつの間にか姿を消していた。
そして領主によって確保されたその女児の功徳が異常に低いーー莫大なマイナスーーであることが知れると、その扱いが保護から拘束に変化した。
* * *
「複数の女王黒鼠が同時に出現したのは偶然ではない。悪を見過ごす領主の甘さ、未必の故意が招いた必然だ!」
若い男の言葉にあちこちで同意の声が上がる。男の仲間達、ようするにサクラだ。
「因果応報。悪しき行いには悪しき結果が訪れる。しかしそれは当人だけでなく周囲も巻き込んで不幸を呼び寄せる。悪を為すマイナスの功徳持ちは居るだけで、皆さんのような善良な人々に不幸を振りまくのだ。降りかかる火の粉は払わなければならない!」
サクラ以外の一般聴衆は話の方向が判らず戸惑っている。
「此度の異常な黒鼠の氾濫を招いたのはたった一人の悪行持ち、即ち負の功徳持ちがこの街にやってきたことが原因だ」
功徳。良い行いで増え、悪しき行いで減ずるそれを知らぬ者はいない。
しかし、必ずしもその値の過多が当人の人格に寄らないことも多くの人が理解していた。
が、しかし、
「かつて、己が欲望のために10人を殺した殺人鬼がいた。業の深い悪魔のような男だが、その男の功徳はマイナス1000にも及んだという。恐ろしい、信じられないような数値だ。だがこの街に不幸をもたらした悪行持ちの功徳はそれとは比べ物にならない。マイナス12億だ!」
その聞いたことも見たことも扱ったことも数字に誰もが首をかしげる。
「12億。それは10人殺し殺人鬼の千倍の千倍以上だ! 人が為すとは想像もつかぬ悪の重みによって、この街に来たたった二月余りでこの街に甚大な被害をもたらした。この街はいままさに、奈落に墜落し続けているのです!」
理解はできずとも、いや理解できないからこそ想像を絶する業の深さ、悪行の重さに、人々は状況の異常さを感じとり、何が起きてもおかしくない不安を覚え、真偽よりも自分と家族の安寧を求めたとしても、それは仕方のないことであった。
想像の埒外に位置する負の功徳。それは即ち人知を超えた悪行を為した証左であり、人知を超えた事態が起きても不思議ではない。そして事実、黒鼠の大氾濫という形でそれが現れたばかりだ。
それを当然と思わせる程にマイナス12億という値は人知を超えていた。
「他者を貶め、悪行を為した負の功徳持ちは、日々真面目に働く皆さんの上前を撥ね、皆さんに寄生し、最後には自身の因果の応報を自身ならず周囲にまで押し付ける恥知らずな連中だ! 正しき人が正しく報われるために、負の功徳持ちの存在を許してはならない!」
サクラたちにより突然沸き起こる歓呼と称賛の声に、多くの人は始め戸惑っていたが、やがてその熱に飲まれ、一緒に称賛を口にすることで得られる一体感に酔っていった。
「悪行持ちは私達、善良な人々を不幸にする。私達の家族を守るため、奴らの存在を許してはならない!」
若い男が突き出した拳に、聴衆は等しく拳を振り上げて応えた。
* * *
「憶えていません」
浮浪児アーヤマーナは目の焦点の合わぬ様子でそう答えた。
投薬により意識レベルが低下し、魔法により嘘偽りが言えない女児に再度問いが投げかけられる。
黒鼠の大氾濫から街を救ったのはお前ではないのか。
「わかりません。その時のことは憶えていません」
黒鼠の大氾濫を起こしたのはお前か。
「よくわかりません」
大氾濫が起きた時、お前はそこにいたな。
「はい」
その後、お前の姿は消えた。どこにいた。
「憶えていません」
その後、現れたお前は襲い来る黒鼠を消した。どうやった。
「憶えていません」
消した黒鼠は何処にいる。
「……えっと、この辺に」
まだいるのか?
「はい」
出すことはできるのか。
「……多分、できます」
そう言いながら虚空に手を彷徨わせるが、まるでうまく掴めないかのようにもどかし気に宙をかく。
出すな、止めろ。
「……はい」
お前はどこから来た。
「豁瑚?莨守伴から」
? なんと言った。もっとはっきり答えろ。
「豁瑚?莨守伴」
嘘偽りを言えぬはずの女児の答えは、常人が音として認識できない異次元の言葉であった。
それは女児がその言葉を発することができぬよう呪をかけられているか、言葉そのものが呪われているか、またはその両方かであった。
……そこはどんなところだ
「夜なのにいっつも明るくて、キラキラしててグズグズで、綺麗で汚くて、甘くて苦くて、物があふれる貧しい場所」
不夜城……タワーか? お前はそこでどんな悪行を犯した。
「あくぎょうってなんですか?」
悪いことだ。
「……いっぱいしました。明夜は悪い子だからママは居なくなっちゃいました。学校に行ってません、いかなきゃいけないのに、おまわりさんに何度も補導されました。けど逃げました、ママが警察嫌いだから。ママが嫌がるから明夜は逃げます。ママを悲しませた明夜は悪い子です。物乞い行為はいけないって言われました。パパ活なんて汚いって先生が言ってました。大家さんはいつも怒ります。お金を払わなきゃいけないのに隠れました。ミンセイインさんは明夜を愚かで汚くて洗脳された狂信者だって言います。児ポだってされちゃう明夜は汚くて醜くて愚かな悪い子です」
……お前はそこで、この街に来る前はどんな風に暮らしていた。
「……おなかすいた」
真面目に答えろ。
「おなかすいた、さむい、さびしい、こんにちは! おはようございます! 今日も元気に挨拶します。だからご飯ください。ごめんなさい、ママはいません、家賃が払えなくてごめんなさい、もうこないでください、払えなくてごめんなさい。おなかすいた、さびしい、おなかすいた、さびしい、ママ、ママ、ママぁ」
そのまま泣きじゃくる女児が落ち着くまでしばらく待つ。
お前の母親は誰だ
「ママは綺麗です」
お前の母親は何処にいる
「豁瑚?莨守伴に居ます。撮影の時はいません。ママは綺麗です。お父さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんもおじさんもおばさんもいません。わたしにはママしかいません。わたしはママといます。ママと一緒がいいです」
……母親のもとに帰りたいのか?
その質問に答えようと口を開き、そのまま動きを止める女児。まるで時が止まったように見えるが、見開かれた瞼がピクピクと震えていた。
声を掛けようとすると女児は突如立ち上がって叫んだ。喉が潰れてしまうのではないかと思うほどの声にすらならぬ絶叫を上げ、目は飛び出さんばかりに見開かれ、舌がひっくり返り、そしてそのままばたんと大きな音を立てて後ろに倒れ、そのまま失神した。
「医者を呼べ!」
尋問にあたっていた領主の家令はやせ細ったチビの女児を抱き留めながら、激しく呼ばわった。