(10)黒鼠の大氾濫
周囲の露店などは瞬く間にネズミの大群に飲み込まれ、食い荒らされていく。
リキハラが死んだことで身体の自由を取り戻し正気に返ったギャング達が応戦を始めるが、多勢に無勢であり、抵抗できなくなった者から生きながらネズミに食われ、そこかしこで悲鳴が上がる。
そしてアンタッチャブルのオオマエと共にいるアーヤはと言うと、
「避難していろ!」
と黒ヒョウに襟首を咥えられたアーヤは、そのままオオマエのポケットの中に飛び込んでいく。
「な、なにこれぇ……ってここは、ログハウス?」
三度ここを訪れたアーヤは、過去二回の記憶を取り戻していく。
「ここで待っていろ。ボクは外でご主人様を助けてくる」
「待って! 一体どういうことなの? アンタッチャブルさんはカメラマンさんで、それにリキハラも。もしかして……」
もしかして……何を言おうとしたのか判らず、何かを思い出しそうだったのだが、それはすぐにアーヤの脳裏から消え去り、戸惑ったように口ごもる。
「……確かなことはボクにも判らないし、説明している時間も惜しい」
「時間は関係ないんじゃなかったの?」
「憶えていたか。それはそうなんだが、ボクが付いてないとご主人様はほとんど正気を保てない。ボクとご主人様とは一心異体だからな」
「じゃあ、黒ネコさんがカメラマンさん……オオマエさんなの?」
「正しくはオオマエの理性と心だ」
「詳しく」
「……仕方がない」
黒ヒョウは諦めたようにアーヤの前に座り込み、説明を始めた。
「ボクのご主人様……オオマエはリキハラに支配されていたが、そこから逃げ出す際にボクは生まれた。キミはこの世界に来る前のことを憶えているかい?」
その問いにアーヤは首を振る。それ以前の写真撮影でリキハラやカメラマンを知っているが、こちらに来る直前のことは霞がかかったかのようにおぼろげだ。
「ご主人様もその辺は何も教えてくれない。ただ強い罪の意識だけがあった。それこそ、正気を保てないほどに」
アーヤがこの世界に来て一月ほどであるが、オオマエやリキハラはもっとずっと前に来ていたという。
「オオマエ達……ボクらは突然この世界に放り出された。それでも元の世界での人のしがらみからは逃れられず、現世の雇い主であったリキハラにいいように使われ、現世同様、色々な悪事に手を染めた。そんな中でご主人様は絶対に許されないことをキミにした……らしい」
「わたし? それに、らしいって?」
全く覚えがないアーヤが首をかしげるが、黒ヒョウも首を振る。
「その頃からボクは半ば正気を失っていたんだと思う。ボクの、というかオオマエの力“ポケット”は異空間に様々なモノを収納できる能力だ。生き物も収納できるが唯一、自分自身を収納することだけはできない。でも、一部ならば可能だった。
そこでボクは、自分の心と理性をポケットに収納したんだ。リキハラに支配される糸口にされた負い目とか、罪の意識とか、そう言ったモノから切り離された、自分の本当にやりたいこととそれを決断できる力を切り離し、ボクを作った。そしてボクがボクをリキハラの手から逃がしたんだ。
そして辺境のこの街に流れ着いた。自分の心と理性をポケットに収納したため、ご主人様は正気を失ったが、狂気の中で心の安寧を得ることはできた。ご主人様……つまりボクの肉体はこの収納空間を維持するために外の世界に置かれた重しに過ぎない。
キミに対して犯した罪から逃げ、リキハラからも逃げ、良心の呵責からも逃げたボクは、酔いに耽溺し、この身が朽ち果てるまで狂気に身を任せて消えていくはずだった。なのに……キミが現れた。
キミはもしかしたら罪から逃げたボクらへの罰なのかもしれないね」
「じゃあ、前にわたしにくれた巾着袋は?」
それに黒ヒョウが首を振る。
「判らない。ただ、ご主人様から君に渡すようにと預かっただけで知らないんだ。ボクにはボクらが犯した罪の記憶がない。きっとそれを知ったらオオマエの理性と心であるボクもまた、罪の意識で正気を失ってしまうからじゃないかと思っている。ただ、こう言っていた。明夜に返しておいてくれ、と」
「ねえ、あなたの言う“ボクら”っていったいだれのこと」
「すまない。それもボクは知らないんだ。多分、罪の記憶と密接に関係しているんだと思う」
黒ヒョウはそれきり口を噤み、アーヤもまた黙り込んだ。
「……もう、いかなきゃ」
黒ヒョウが立ち上がり、小屋の外を向く。
「黒鼠の大群、だったよね。大丈夫なの?」
黒ヒョウは頭を振る。
「あの規模の氾濫ではこの辺境の国が滅ぶ可能性が高い。仮に撃退できても黒鼠病の蔓延は避けられないだろうから、どちらにしろ都市機能は崩壊し、遠からず国は滅ぶ。だから明夜。キミは事が済むまでここに居るんだ」
その言葉に目を見開き、イヤイヤをする。
「いま、ご主人様が黒鼠をこことは違う異空間に収納し続けている。ご主人様の魔力が尽きるまでに黒鼠を全部収納しきれば、この国の滅びを避けられるかもしれない。少なくともキミの安全は確保できる」
「わたしもなにか力になりたい」
オオマエさんだけじゃない。ギルドの人たちや病院の先生たち、ドブさらいの先輩や職員さんたちなど、気がかりな人たちは沢山いる。
しかし黒ヒョウはキッパリと首を振る。
「できることなど何もない。無駄なことはしなくていい。キミはここで待っているんだ、いいね」
「いつまで?」
「終わるまでだ」
そう言って今度こそ黒ヒョウは姿を消した。
* * *
ポケットの外に出た黒ヒョウが見たのは地獄絵図であった。
生きたままネズミに食われる人々、固く扉を閉じ、家に立てこもるが周り中からネズミが木を齧るカリカリと言う音が絶え間なく響く恐怖。
「【バインド】!」
ギャングの男の拘束魔法がネズミどもの動きを止め、そこに手下たちが襲い掛かりとどめを刺していた。
そして身体中、血だらけになったご主人様がいた。何か所もネズミに齧られているが、そのネズミは全てポケットに収納しており、また噛まれた際に体内に侵入した毒素や病原菌も分けて収納していたので、その影響はない。
ネズミの大群も一段落したようで、生き残った者達にほっとした空気が流れた。だが、
「なあ、川がおかしいぞ」
チンピラの一人がドブ川を指さし、震える声で告げた。
見たくない。誰もが見ることを恐れたが、見ない方がもっと恐い。そして見たことを後悔した。
川面を埋め尽くすネズミの大群が上流にも下流にも大挙して向かっていた。しかもそれだけ移動しても尚、川面のネズミに減った様子がなく、下水道の中から次々現れているのだ。
「あははは、こりゃ無理だ。魔力が足りるとかそんな次元じゃないや」
オオマエの心と理性を宿らせた黒ヒョウが、痴ほうのように笑う。
「……なあ、ご主人様。ご主人様が死んだらポケットの中はどうなるんだろう? そのまま消えちゃうのかな? それとも全部……あふれ出すのかな?」
これまで多くの“敵”を収納することで退けてきたオオマエ。その敵全てが解放されたら……。
しかしキチ〇イ爺さんの異名を持つ廃人老人は首を振る。
「そうだね、考えても仕方がない。でも死にそうになったら明夜ちゃんを開放してあげて。ボクが連れて少しでも逃げて見せるからって、今じゃないよ、今じゃ!」
黒ヒョウの慌てる声に本体が首を振る。
彼の意志に寄らず巾着袋の紐が開き、そこから女児が姿を現したのだ。