第41話:思考ルーチンの自立化と、桃色の共鳴バグ
魔王城の外郭を包み込む広大な安全地帯、静寂の燐光林に、白濁した朝の光が差し込み始めていた。
天を覆う巨大な樹々の枝葉から垂れ下がる燐光の苔が、夜の青から朝焼けの橙色へとその輝きを緩やかに変えていく。
焚き火の跡から立ち上る細い煙を眺めながら、俺は虚空に呼び出したインベントリを整理し、次なる魔王城強襲への最適ルートを脳内でシミュレートしていた。
通常のRPGにおいて、プレイヤーがメニュー画面を開いて思考している間、パーティメンバーであるNPCは完全に静止し、待機モーションと呼ばれる一定の呼吸動作を繰り返すだけの無機質なオブジェクトとなる。
俺がこれまでの旅で「行軍開始」のコマンドを入力するまで、彼らが自ら動くことは決してなかった。
だが、俺がメニュー画面を閉じようとした、まさにその時だった。
「クロ様。お目覚めの白湯をご用意しました。昨夜の野営で採集した霊草を煮出し、魔力回復の効率を最大化したものです。どうか、冷めないうちに」
「……え?」
振り向くと、そこには木彫りのカップを両手で丁寧に捧げ持ったシルフィアが、ふわりと微笑みながら立っていた。
驚愕すべき事象が二つ同時に起きている。
一つは、彼女が俺のコマンド入力を待たずに、自発的にアイテムを生成し、俺の体調を気遣う行動を起こしたこと。
そしてもう一つは、これまでシステムの画一的な設定である「主様」という呼称を頑なに守っていた彼女が、今、ごく自然に、親愛の情をたっぷりと込めて俺の個人名を口にしたことだ。
(……クロ様、だと?)
俺が戸惑いながらカップを受け取ると、シルフィアは一瞬だけ驚いたように金色の瞳を見開き、それから花が綻ぶような、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「はい。昨夜、貴方様の寝顔を火越しに見つめながら、ずっと考えていたのです。私は、システムの歯車としての『主』に仕えているのではない。クロ様という、たった一人の魂に、この命と心を捧げているのだと。……不快、でしたでしょうか?」
シルフィアの潤んだ瞳が、不安げに揺れる。その視線の奥には、暗殺者としての冷徹さは微塵もなく、ただ一人の男性を深く敬愛し、恋焦がれる少女の熱だけが宿っていた。
「いや……不快じゃない。ただ、驚いただけだ」
「ふははは! 左様でございますな! このレオンも、昨夜盾を磨きながら全く同じ境地に達しましたぞ! 我らが命を懸けるのは、世界を統べるシステムにあらず! ただ一人、クロ様の御為のみ! さあ、本日の露払いもこの金剛の盾にすべてお任せあれ!」
いつの間にか装備を完璧に整え、周辺の安全確認から戻ってきたレオンが、豪快に笑いながら分厚い胸板を叩いた。
俺の指示を待つまでもなく、彼らはすでに迎撃の陣形を自ら構築している。
彼らの中で、何かが決定的に変わった。
システムが設定した無機質なNPCという枠組みを、俺への深すぎる絆と信頼が内側から食い破り、自立した意志へと昇華させてしまったのだ。
タイムアタックにおける最適解は、プレイヤーのコマンド一つで将棋の駒のように正確に動く手駒だ。だが、今の彼らは俺の思考を先読みし、勝手に、しかし俺の予測を遥かに超える完璧さでサポートを行おうとしている。
これはもはや、制御不能な共鳴バグと言っても差し支えない状況だった。
「……分かった。行こう、レオン、シルフィア」
俺は温かい白湯を飲み干し、二人の戦友の名前を呼んで歩き出した。
二人は力強く頷き、俺の左右を固める。その連携はこれまで以上になめらかで、言葉を交わさずとも互いの死角を完全に補い合っていた。
俺は胸の奥に広がる、くすぐったいような温かい感情を噛み締めていた。
孤独にタイムを削っていただけの俺のRTAは、彼らのおかげで、最高の冒険へと変わりつつある。この揺るぎない絆さえあれば、魔王城のどんな理不尽なギミックも突破できるだろう。
そう、確信していた。
だが、そんな俺の甘い感傷と効率主義の計算は、唐突に現れた「桃色の異分子」によって木っ端微塵に粉砕されることになる。
「きゃああああああああっ!! 誰か、誰か助けてぇっ!!」
森の静寂を切り裂く、高く可憐な悲鳴。
俺たちは反射的に武器を構え、声のした方角へと駆け出した。茂みをかき分けた先、小さな開けた空間で、三体の低級魔物『牙鬼ヴォルグ』に囲まれている一人の少女の姿があった。
「助けてお兄さーんっ! 私、食べられちゃうっ!」
俺はその少女の姿を視界に捉えた瞬間、脳内の全演算処理が完全にフリーズするのを感じた。
ピンクブロンドの緩く波打つロングヘア。小動物のように愛くるしい垂れ目と、潤んだ大きな瞳。
そして何より目を引くのは、その暴力的なまでに整ったプロポーションだった。
身体のラインを強調するタイトな精霊術師の法衣からは、重力に逆らうような豊かな双丘がこぼれ落ちそうに揺れ、キュッと引き締まった驚異的な細さのくびれから、眩しいほどに白い太ももがこれでもかとばかりに露出している。
(……待て。なんだこの神がかったキャラクターデザインは。俺の好みの判定アルゴリズムが、完全にオーバーフローを起こしているぞ……!?)
これまで効率とバグのことしか考えていなかった俺の脳が、彼女の視覚情報を処理した途端、激しい熱を発してショートし始めた。
可愛い。スタイルが良すぎる。そして何より、顔も体型も声も、俺のど真ん中のストライクゾーンを寸分の狂いもなく撃ち抜いてきている。
「クロ様、お下がりを! 汚らわしい魔物め、クロ様の視界に入るなッ!」
俺が思考停止に陥っている隙に、シルフィアが自立行動バグによって電光石火の早業で飛び出し、双剣の連撃で魔物たちを一瞬にして塵へと変えてしまった。
本来なら、ここで「助けてくれてありがとう」というテキストが表示されて終わるだけの、単純なNPC救出イベントのはずだった。だが。
「わあぁぁっ! すごーい、お兄さんたち超強いじゃんっ!」
少女は助けられた恐怖など微塵も感じさせない明るい笑顔で駆け寄ってくると、あろうことか、HP1の赤いオーラを纏った俺の右腕に、一切の躊躇なく抱きついてきた。
「えへへ、助けてくれてありがとうっ! 私、リナリーって言うんだ! 遊び人兼、一応精霊術師やってるの! ねぇねぇお兄さん、すっごく強くてカッコいいオーラ出してるねっ! もしかしてこれって、運命の出会いかなー、なんてっ!」
ぐにゅり、と。
フルダイブ型VRの極限まで高められた触覚フィードバックが、シルフィアのそれよりもさらに肉感的で圧倒的な柔らかさを、俺の腕にダイレクトに伝えてくる。
彼女は対人距離のバグでも起こしているのか、俺の顔を覗き込むようにして、ベタベタと全身をすり寄せてきた。
「お、おい、離れろ。俺は今、急いでいるんだ……っ」
俺は必死に冷徹なゲーマーとしての理性を保とうとするが、彼女の艶やかなピンクブロンドの髪から漂う甘い花の香りと、至近距離で見つめてくる愛くるしい笑顔に、鼓動がバクバクと跳ね上がり、視線をどこへ向けていいか分からなくなってしまう。
「えー、いいじゃんいいじゃんっ! 私も魔王城に行きたいんだよねー。なんかこの世界、決められたレールの上を走ってるみたいで退屈だったんだけど、お兄さんたち、変な動き(・・・・)してて面白そうだし! だからさ、私も仲間に入れてよっ! ねえ、いいでしょ? お・ね・が・いっ!」
リナリーは俺の腕を自身の深い谷間に挟み込むようにして、上目遣いで強烈に甘えてくる。
その言葉の端々に、彼女がこのバグだらけの世界の違和感に気づいているようなメタ的な気配を感じ取ったが、今の俺の頭脳は、腕に伝わる暴力的なまでの弾力と熱によって完全に処理能力を奪われていた。
「――クロ様の、腕から、離れなさい。今すぐに」
その瞬間、背後から世界そのものが凍りつくような、絶対零度の冷気が放たれた。
振り返ると、そこにはシルフィアが立っていた。
彼女の周囲にはドス黒いオーラが渦巻き、その手に握られた双剣からは、先ほどの魔物に向けたものとは比較にならないほどの、濃密で純粋な殺気が漏れ出している。
「あ、あれっ? この銀髪のお姉さん、もしかして怒ってる? こわーいっ!」
リナリーはわざとらしく俺の背中に隠れるように回り込み、さらに強く俺の腰に抱きついて胸を押し付けてきた。
「シルフィア、落ち着け! 彼女はただの生存イベントのNPCで……っ」
「クロ様……。私は、決めました。あのような厚顔無恥で、胸の大きさしか取り柄のない雌豚に、貴方様をたぶらかされるくらいなら……私が、今ここで、主様を……既成事実で、私のものに……っ!!」
シルフィアは顔を耳の先まで真っ赤に染め、瞳に涙を浮かべながらも、絶対に正妻の座を譲らないという並々ならぬ決意を宿して、ズンッと一歩前に踏み出した。
そして、リナリーに奪われていない俺の左腕にガシッと抱きつき、対抗するように自身の柔らかな膨らみを力強く押し当ててきたのだ。
「えっ、ちょっとお姉さんズルい! お兄さんの左側は私の予約席なのにー!」
「黙れ淫魔。クロ様の隣は、天地がひっくり返ろうと私だけの特等席だ」
右腕には、天真爛漫に甘えてくる超タイプの爆乳精霊術師。
左腕には、嫉妬と独占欲で完全に理性を飛ばし、泣きそうな顔で抱きついてくる一途な暗殺者。
「ふはははは! 賑やかで実に良いではありませんか! クロ様の底知れぬカリスマは、ついに精霊の加護を持つ乙女までも惹きつけるようになりましたな! このレオン、パーティの拡大を心より歓迎いたしますぞ!!」
両手に花、いや、両手に爆弾を抱えたような極限状態の俺をよそに、一人だけ状況を楽観視しているレオンの豪快な笑い声が、静寂の森に虚しく響き渡る。
「……あー、もうっ! タイムが、俺の予定タイムがどんどん遅れていく……っ!」
俺は両腕を拘束されたまま、頭のフライパンを天に向けて絶叫した。
冷酷な効率至上主義だったはずの俺のRTAは、ここに来て、制御不能な多重ヒロインによるラブコメディという、いかなるチャートにも存在しない予測不能なカオス・シーケンスへと突入しようとしていた。




