8話 穏やかな生活
ベックとの生活は穏やかに過ぎた。
ベックは必要以上に踏み込むことはしなかったし、ワカバにも踏み込ませることはなかった。その距離感が互いに心地よかった。
全てを話した訳じゃない。それなのに、まるでそうしたかのような安心感があった。
日夜問わず、ベックは絵を描いて過ごし、ワカバは簡易的にでも〝現在〟と連絡が取れないかと小型で簡素な連絡装置を造る為に頭を悩ませた。装置を組み立て始めるとベックは興味深そうにそれを眺めたが、「それって何なの?」という問いにワカバが言い淀むと、笑みを浮かべてそれ以上は訊かなかった。
互いのタイミングで絵を描き、研究をして、「ご飯食べる?」とどちらかが訊き、共に食事をする。珈琲を飲みながらあれこれと話をする。
そんな毎日が、穏やかに過ぎていった。
まるで、元から此処で生きていたかのように。
ふとした瞬間に、互いの顔が曇る時があることを二人は見て見ぬ振りをした。
ワカバはいつまで此処に居るか判らない。そして、いつまでも此処に居るべきではないとも思っていた。
帰る場所はクライドの許。
それは、いつになるのだろう……。
「あー、なんかこう……自然が豊かな場所に行きたい。直感に訴えかけるような刺激が欲しい」
ある時、ベックが言った。アトリエに来てから三週間程が経っていた。
「自然の豊かな場所? それだったら私の故郷がそうだよ」
「あぁ、ワカバはこの辺り出身じゃないんだよね」
地名を聞いたベックは、棚から地図本を出すと、ぺらぺらと捲り、あぁと声を上げた。
「本当だ。真みどり。山もあるし、辺り一面畑だね」
クスリと笑ったワカバは、地図の一か所を指さした。
「私の家はこの辺り。周りの畑でミカンを作ってるの」
「へぇ、ミカン。美味しそう」
そう言いながら、ベックが近くの紙を引き寄せ、さらさらと絵を描き始めた。ものの数分で描き終えた絵をひらりと掲げて見せる。
「想像で描いてみた。どう?」
紙にはミカンの樹と、まるでおとぎ話のような家が描かれていた。ワカバは小さく笑った。
「実家はこんなにかわいい家じゃないよ。周りの家ももっと渋いお家」
「そうなの? まぁ、この家は俺の理想の家なんだけどね」
へへへと笑ってから、ベックはアトリエに行くと、ぼんやりと部屋に並べられた絵を眺めた。
この所のベックの絵は、暗い色が目立っていた。そのくせ、たまにとびきり明るい色彩の絵を描いたりして、ベック自身も何処か納得がいっていないようだった。
ワカバはベックの画集を見せて貰ったが、様々な手法やタッチで描かれたそれらは、どれも何処か温かみと優しさが感じられる作品ばかりだった。
今、部屋に飾られている作品は、何処か沈んでいるようにワカバには感じられた。
芸術家の気持ちはワカバには判らないが、本人が納得していないなら何か問題があるのだろう。
「ねぇ、ワカバの故郷に行ってみない?」
ベックの言葉にワカバは目を瞬いた。
「なんていうか、旅行という程でもないんだけど、俺はスケッチしたくて。ワカバは里帰り……みたいな。ぶらぶらーっと二人して歩いてさ。ミカンも食べたいな」
嬉しそうに笑うベックに、ワカバは顔を俯けた。
今、故郷に帰ったら。
きっと誰にも気づかれることはないだろう。この時代のワカバは九歳。大人になった姿を見てワカバだと気が付く人は、きっと居ない。
歩み寄ってきたベックが、少しだけ手を彷徨わせてから肩に触れた。
「もしかして、親と上手くいってないとか? 違うか。あんなに嬉しそうに話したりしないもんね。何か、理由があるんだね」
ワカバは小さく頷いた。
ベックは暫くワカバの肩を擦っていたが、優しく叩くと笑った。
「いいよ。ワカバが笑顔になれないなら行く意味ないし。他にどっかないかな、自然が豊かな所。何処か知らない?」
ベックは地図本をパラパラと捲ると、問うように首を傾げた。
「というか、なんか今ワカバと外を歩きたくなっちゃった。買い物行こうよ。ね?」
ベックはコートを持ってくると、ワカバの体をくるくると回してコートを着させた。マフラーも首元に巻き、笑顔を浮かべる。ワカバは釣られるように笑った。
「ちょっと……暑すぎるかも」
「そうだった? そうかも」
ベックは笑い、自身もコートを羽織るとワカバの手を引いた。
「なんかとびきり美味しいもの作ろうか。二人でさ」
繋がれた手に宿るのは温かい想い。ワカバは引かれるままに外に出た。
数回ザリーとチェリィの店には訪れていたが、多くの人が行き交う大通りに出るのは初めてだったので、ワカバはきょろきょろと辺りを見回した。
出来るだけ接触を避けねばならないのに、少しずつその感覚が薄れてきている。
「はい、眼鏡」
ベックがレンズの付いていない眼鏡を差し出した。
「眼鏡するだけで、印象って随分変わるものだし。買い物するだけだったら〝接触〟にはならないんじゃない?」
眼鏡を掛けさせたベックは、少し離れて見て、頷いた。
「これで大丈夫。行こう」
黒ぶちで大振りの眼鏡は、それ自体の印象が強くて、後からワカバの顔を思い出そうとしてもまず眼鏡を思い浮かべることとなるだろう。
大通りを、ベックとあれこれと話しながら歩く。
いくつかの食材を買い込み、そろそろ家に戻ろうかという所で、ベックが通りの先を見やり、すぐに背を向けた。
「あー、あっちから帰ろう」
「え、でも遠回──」
「お願い」
言いながら、ベックはワカバの手を引き、少し早足になって歩き出す。ワカバが後ろを振り返ると、道の先に明らかに買い物客でも勤め人にも見えない人々が、辺りを窺っているのが見えた。ふと、ワカバの視線に気が付いたように一人が動きを止める。
ベックは後ろを振り向かずに先を急いだ。
幾つか角を曲がり、そこでやっと道を振り返ったベックはひとつ息を吐いた。
「あ、えっと……流石に、説明しないとだよね」
「うん……。さっきの人達は──」
「ルー?」
ワカバはその声に目を見開いた。不思議そうにワカバを見下ろすベックに、声のした方とは反対の道の先を指さす。
「あっち、行こう。あっちなら大丈夫だよね」
「え……うん。いいけど」
「ねぇ、ルーだよね?」
声が追いかけてくる。それに気が付かない振りをして道を進む。不自然にならない程度に足を速める。
ちらと肩越しに振り返ったベックは、何も言わないままワカバと道を進んだ。
「待って。待ってよ、ルー! どうして……どうして……!」
その声がワカバの頭の中に響く。胸が締め付けられる。涙が溢れてくる……。
途中からベックに引かれるようにして歩いていたワカバは、気が付けばアトリエへと着いていた。
買い物の紙袋を置いたベックが、玄関で俯くワカバに歩み寄った。
「お互いに、話すことがあるかも」
「……うん」




