3話 ルー
ワカバは、寝苦しさに目を開けた。
全身に汗を掻いている。体に巻かれた毛布が熱気を孕んでいて、また汗が出た。
カーテンの隙間から差す日の光に、朝になったのだと判る。
毛布を退けようとしたワカバは、丁度膝の上辺りから滑り落ちたものに目を向けて青褪めた。
ゴンッと拳が床に落ちた拍子に、長椅子に横たわっていたクライドが目を覚ます。
「ん……あぁ、おはよう、お姉さん」
ふわぁ、と欠伸をしたクライドが、青褪めるワカバを怪訝そうに見つめた。
「あれ、まだ顔色が悪いね。やっぱりソファで寝たのが良くなかったか。ごめんね、ベッドに運べなくてさ」
クライドはワカバが逃げ出すかもしれないと、いつでも気が付けるように毛布を掴んで眠っていた。掴んでいた左手をふるふると振りながら、ワカバの顔を覗き込む。そこで、ふと何かに気が付いたように、あっと声を上げた。
「親は暫く帰って来ないから気にしなくていいよ。仕事の都合でね。俺は〝しっかりしてる〟から、こうして一人で留守番も任されてる。まぁ、三日に一回はハウスキーパ―が来るし、毎朝お隣さんには挨拶に行かなきゃいけないけど。──顔洗って行って来ないと。お姉さんはゆっくりしてていいよ」
そう言うと、まだ混乱の最中に居るワカバを置いて、クライドは手早く身支度を済ませて隣家へと向かった。
──やってしまった。
体調を崩したとはいえ、過去への干渉は度を越している。しかし、だからと言って、もしこの時代のクライドが家へと入れてくれていなかったら、ワカバは道で倒れ、病院へと運ばれて多くの過去に干渉することになるか、下手をしたらそのまま命を落としていた可能性もあった。
帰る場所はない。それは確かだが……。
ワカバは昨夜のクライドの主張を思い返した。クライドには客観的事実からそれを詰めていく癖があるが、この時代のクライドは幼い分容赦がない。
あれこれと過去のやり取りを思い出したワカバは、思わず溜息を吐いた。
一向に〝現在〟へと帰ることは叶わない。
それは、時空逆行装置の故障か、原因究明に時間が掛かっているのか、ワカバの座標を捉えることが出来ないのか。此処からでは判らなかった。此処まで時間が掛かるということは、予備の装置にも何か不備があったということだ。
──歯痒い。でも、出来ることは……ない。
考え込むワカバの耳に、扉の開く音が届いた。慌てたような足音がして、ふと止まる。
「良かった。居なくなってなかった」
包みを手にしたクライドが、安堵したように言った。
その何処か切なげな表情に何も言えないでいるワカバの前で、クライドは小卓を運んでくると、包みやグラスを用意して並べ始めた。
「朝ごはん、食べよう」
帰る場所がない。〝現在〟に戻る術がない。これ以上過去に干渉する訳にもいかない。しかし、何も出来ることはない。
悶々とするワカバに、クライドは気遣うような顔をする。
「あのさ、もしまだ体が辛いなら横になってた方がいいよ。おばあちゃん……祖母の部屋が空いてるから」
その声に、俯いていた顔を小卓の上に移したワカバの体が空腹を訴えた。きゅるる、という音に顔を赤めると、クライドが笑いながらサンドイッチを差し出してくる。
「まずは食事だね。その後眠ってもいいし」
「う、うん……」
ワカバは差し出されるままサンドイッチを手に取ると、口に運んだ。
過去に干渉する訳にはいかない。だが、ワカバは生きていかねばならない。
接触したのがクライドで良かったと考えるべきか。
だが、この時代のクライドに深く干渉した結果〝現在〟が変わってしまったとしたら。
変わってしまえば、それを認識することは出来ない。
──怖い。
ワカバはその感情を払うように頭を振った。しかし、どうしたいのか、どうすべきなのかと考えると、何も思い浮かばない。
「訊いても良い?」
クライドが言った。
ハッと身構えたワカバに、幾分かしょんぼりした様子で続ける。
「そんなに警戒しないで欲しいな。俺は、ただお姉さんの名前が知りたいだけ」
「名前……」
つい答えそうになったワカバは、口を噤んで俯いた。
答えられない。
クライドは幼少期にワカバという名の女性には出会っていない。大学で出会い、そして恋をする。もし、今〈ワカバ〉という名を知ってしまったら、未来でワカバと出会った時に、この時代の記憶が蘇ってしまうだろう。幼少期の記憶とは時を経て薄れていくものだが、どんな作用をもたらすか判らない。それを言えば、今卓を囲んでいること自体がどのように影響を及ぼすのか判らず、じんわりとした恐怖が湧いてくる。
干渉してはいけない。そう思っても、此処を出て行った所で今のワカバに出来ることは何もない。そうして、彼を利用している。
ワカバは罪悪感に襲われ、小さく震えた。
今目の前に居るクライドにも、嫌な思いをさせたくはない。どうしたらいい?
黙り込んだワカバの肩に、クライドがそっと手を置いた。
「答えられないんだね。いいよ。ごめん。じゃあ、俺が付けていい?」
クライドはニコッと笑うと言った。
「え……?」
戸惑うワカバの前で、クライドはうーんと首を傾げる。家の中をぐるぐると見回し、ふと目を瞬いた。
「ルー! そうしよう」
ルーという響きに、ワカバは聞き覚えがあった。確か──。
「ルーっていうのは、昔飼ってた猫の名前。祖母と同じくらいに死んじゃった。でも、俺は凄く好きだったんだ」
──知ってるよ。
クライドは今でもルーの写真を部屋に飾っている。そうして、幼い頃の話をすると、いつも嬉しそうにルーの話をするのだ。
「でも、いいの? 大切な名前でしょう」
そう訊くワカバに、クライドは笑みを浮かべる。
「いいの。お姉さんって、ルーに何処か似てるし」
「え、似てる……?」
ワカバはクライドから聞いた話を思い返した。そうして自身と比べてみて、首を捻る。その様子を見やっていたクライドが、可笑しそうに目を細めた。
「ルーって、俺の言うこと何にも聞かないんだ。でも、ご飯の時だけは大人しくなる」
ワカバは幾つか食べ進んでいたサンドイッチの皿に目を落とすと、口を引き結んだ。
クライドがカラカラと笑う。
「ごめん、ごめん。ほら、もっと食べていいんだよ。元気付けないとね。──それにね、俺はルーのそういう所が大好きだったんだ。また呼べて嬉しいな。ルーが帰って来たみたい」
そこでハッとしたクライドは、まじまじとワカバを見つめ、納得したように頷いた。
「いつまで居ても良いんだからね」
ワカバは、ふいにドキリとした自身の胸を疑った。内心で、いやいやと頭を振る。
〝現在〟の恋人とはいえ、今目の前に居るのは子供だ。それでも、心の何処かで〝現在〟のクライドと重ね、聞き覚えのある言葉や話に胸をときめかせている自分が居ることに、ワカバは少し呆れていた。
この時代のクライドに何かを想うことはないが、それでもクライドなのだ。
恐怖したり、悩んだり、ときめいたり。くるくると変わる自身の感情に内心で溜め息を吐き、ワカバは誤魔化すようにサンドイッチを口に運んだ。
──そうだ。いつまでも悩んでいる訳にはいかない。
クライドはきっとすぐに、いや、すぐでなくても必ず迎えに来てくれる。それまでは、干渉を最小限にし、時空逆行に耐えられるよう心身を整えておかねばならない。
何せ、体ごと過去へと行ってしまったのは、これが初めてなのだから。クライドもその原因究明に手間取っているのだ。
今は、信じて待つだけだ。
そう考えが纏まると、食欲が増してくる。
パクパクと食べ始めたワカバに、クライドは嬉しそうに笑った。
「美味しい、ルー?」
ルーと呼ばれることに慣れている筈のないワカバは、一拍置いてから目を瞬いた。
そう、猫だ。
猫が一時この家に住み着いただけのこと。
猫を装って、つんと顔を背けると、クライドは可笑しそうにクスクスと笑った。
それに釣られるようにワカバも笑った。




