11話 君と出会えたから
「ワカバ!」
目を開けると、取り乱したクライドの顔が見えた。
「クラ──」
名を呼ぶ前に、体を強く抱き締められる。
「良かった……ワカバ」
クライドは震えていた。その背を撫で、ワカバはぼんやりとした頭でクライドの首筋に顔を埋めた。
「私、帰って来たんだね。貴方の許に」
「あぁ。ごめん……。ごめんな」
「……苦しいよ、クライド」
ワカバが言うと、ハッと体を離したクライドが気遣うようにワカバを見つめた。その頬に触れる。
「貴方の恋人って、誰?」
その問いに、クライドは眉根を寄せる。ワカバの頬を包み、額に手を当てる。
「何言ってるんだ。ワカバだろう。……何か、記憶に混乱があるのか。何処か転移に不具合が? いや、もしかして過去に改変が? ひとまず病院に行って──」
慌てるクライドに、ワカバは笑った。
「大丈夫。頭はちゃんとしてる……筈だよ。あ、そうだ。ルー」
その名を口にした瞬間、クライドが顔を顰めた。
「頭が……」
痛みにこめかみを押さえたクライドが、ワカバに問うような視線を向ける。
「ルーって、猫だよね」
「……そうだけど。待て、なんか──」
「ごめん、ちょっと変わっちゃったかも」
そう言うワカバの体を、クライドは再び抱き締めた。
「いい。それよりも、辛い思いをさせたな。三か月……待たせて悪かった」
「結局……何があったの?」
ワカバの問いに、遠くの方でカツンという固い音がした。
「私がやったの」
振り向けば、マリアが佇んでいた。
「……やっぱり、そうだったんだ」
マリアが顔を顰めた。
「だって、私が……私の方が先にクライドのことを好きだったんだもん。それなのに、酷いよ。ワカバちゃん」
「おい、それはもう──」
口を挟んだクライドに、マリアは鋭い視線を向けた。
「クライドも酷い。結婚の約束してくれたのに、なんでワカバちゃんと結婚するの」
「だから、そんなの本当に小さい頃だろ。それも、お前がしつこく言うから仕方なく──」
「酷い!」
酷い、酷い、とマリアは涙を流しながら手当たり次第に物を投げた。
「やめろって」
クライドがワカバを守るように引き寄せるのを、マリアは妬ましげに見やって、顔を背けた。
「おや、随分と騒いでいるようだが。成功したようだね?」
その時、部屋の入り口から声が掛かった。
「ミスター・フラー」
クライドが姿勢を正し、フラーに向き直った。
フラーは整えた髭の中で、微笑みを湛えていた。そうして、ワカバに向けて遠くを見つめるような視線を送る。
ズキリ、とワカバの頭が痛んだ。しかし、それよりもワカバの意識はフラーに向いていた。
「……ベック?」
ベック? とクライドが不思議そうな顔をする。ワカバは信じられない思いで一歩ずつ歩み寄り、徐々に駆けるようにして入り口で佇むフラーの許へと近付いていった。
「ベック……ベックだよね。なんで、此処に……」
目の前に立つフラーは、白いものが多く混じった髪を撫でつけ、仕立ての良いスーツに身を包んでいた。柔和に微笑んだ目尻には深い皺が目立つ。
それでも、判った。
「あの日のままだね。当たり前だけど。おかえり、ワカバ」
急に砕けた調子で、フラー──ベックが言った。
視界が滲み、立ちすくむワカバに手を伸ばしたベックは、少しだけ悩んで、その肩に手を置いた。
歩み寄って来たクライドが二人の顔を見比べる。
「一体、どういうことです?」
「君には、話さなければいけないね。私の昔話を」
部屋の片隅にある机を片付け、マリアを含む四人は腰かけた。部屋を見渡せば、随分と荒れ、ワカバをこの時代へと引き戻した装置は、随分と突貫だった。
マリアが紅茶を淹れて、それぞれに配る。
「まずは何から話そうか」
そう言うベックに、ワカバは訊いた。
「ベック……私は、今の貴方をアーロン・フラー氏だと記憶しているのだけど……」
あぁ、と笑ったベックは、老いは感じるが、それでもベックらしい笑顔を浮かべて答えた。
「私は──あぁ、もういいよね、かしこまらなくたって。ワカバの前だと、今までの喋り方は笑っちゃいそうなんだ。随分、気取ってたものだよね。それで、名前のことだけど、アーロン・フラーっていうのは、襲名制の名前なんだ。俺はあの後、父さんの跡を継いでね。まぁ、それを決めたのもワカバの研究に投資しようとしてるのを知ったからなんだけど。本当に、今の俺は、ワカバの知ってるアーロン・フラーかな?」
ワカバは改めてベックの顔を見つめると、首を振った。
「判らない。今の私には、貴方はアーロン・フラー氏であって、ベックでもある。改変された過去と未来は観測できない……」
うん、とベックは頷いた。
「今の俺はワカバの……君達の研究を支援するために居るんだ。それでいい」
「あの……アーロン・フラーという名前が襲名制なら、本当の名前はベックなんだよね?」
ワカバの問いに、ベックは少し悩んでから首を傾げた。
「違うけど、そう。という感じかな。ベックは俺の絵描きとしての名前。だから、ワカバに会った時は本名じゃなかった。でも、改名したんだ。だから、今は本名。ややこしいけど」
「ワカバに会った……?」
戸惑いながらも真剣に話を聞いていたクライドが口を挟んだ。
ベックは目を瞬いて、そうだった、と呟いた。
「まず、そこからだったね。過去に体ごと逆行したワカバは、俺が保護していたんだ」
「成る程、そうだ──」
言い掛けたクライドが、眉を寄せた。その様子を見やってから、ベックが笑う。
「心配することは何もないよ。ね?」
ベックに問いかけられ、ワカバは促されるままにこくこくと頷いた。
「ちゃんと拒否られたから」
「なっ……⁉」
ベックが悪戯っぽく笑う。顔色を変えたクライドが、ワカバとベックを見比べた。
「こういうのは変に隠すと怪しくなるからね。クライド君、安心すると良い。心配することは何もなかった。ワカバを信じなさい」
ベックの言葉に、クライドはワカバの手を取ると、包み込んだ。それをベックは見やり、薄く笑う。
「それで、ワカバが消えたあの日──つまり、君にとってはついさっきのことなんだろうけど。俺は暫くワカバを探し回った。勿論、一瞬の内に消えたんだから、理由は判ってた。でも、認めたくなかった。その内、君の故郷を訪ねてみたんだ。そうしたら、居たんだ。子供の頃の君が。それで、全部受け入れた。そうこうしている内に、若き天才学者の噂が耳に入って来てね。それが、ワカバだった」
ベックは足元に置いていた紙袋から一冊の本を取り出し、開いて見せた。
そこには、ワカバが描かれていた。あの、ワンピースを着たワカバの姿が。
「暫くこの絵に没頭していたんだ。それで、この絵で多く名を知って貰えるようになってね。この絵に、見覚えは?」
ワカバは考える内、頭の痛みに呻いた。その様子を見ていたベックは、ひとつ頷いた。
「きっと、これは認識が変わっている症状なんだろう。過去に逆行したワカバを描いた絵で名を得た。ワカバが居なければこの絵は生まれなかった。だから、有難う。俺は、最高の一枚を描くことが出来た。画家として、これ以上のことはない」
「ベック……」
ベックはそれ以上を言わず、クライドに視線を向けた。
「クライド君は、こちらに戻って来てすぐ、ワカバをこの時代に引き戻す為に力を尽くしていた。ただ、ワカバの位置が掴めなくてね。……きっと、こんなに大きな過去の改変は起きたことがないんだろう」
ベックの言葉を継ぐように、クライドが話し始めた。
「この部屋の状況を見れば判ると思うが、装置は──」
そこでクライドは言葉を止め、マリアを見やった。マリアは口を噤み、視線を逸らしている。
「予備を含め、使える状況になかった。その上、装置の組み立てが終わる頃にはワカバの居場所が特定出来ない。そんな時、これが届くようになった」
そう言ってクライドは小さな紙片を机から取り上げた。それは、ワカバがSOS信号のように送り続けていた紙片だった。掠れたり、切れたり、崩れたりしていて、まともに読めるものは少ない。
「最後の一枚だけは、何故かはっきりと読めた。恐らく、過去とその改変に関わっているんだと思う。何か、時空が固定される決定的なことがあったんだ……と思う」
ベックが小さく身じろぎし、ふぅんと唸った。
「ねぇ」
突然、マリアが声を上げた。皆の視線が集まる中、マリアがむっとした顔をする。
「なんか、私仲間外れって感じなんだけど。帰っていい? ワカバちゃんは無事に帰って来たんだし、話に興味ないもん。作業は明日やるから」
「マリア……!」
引き留めようとするクライドを一瞥したマリアは、突然ワカバに頭を下げた。
「ワカバちゃんごめんなさい。挑むにも、このやり方は卑怯でした。羨ましくてしかたなかったの。でも、もっと真正面からぶつかるべきだった。ごめんね」
マリアは目を潤ませながら、ワカバのことを見下ろした。ワカバは笑みを浮かべた。
「うん。私は、クライドと幸せになるね。マリアにもそういう人が現れるのを願ってる」
ワカバの言葉に顔を顰めたマリアは、ギロリとベックを睨み付けた。
「正直、恨んでるから」
それだけ言って、背を向け歩き出したマリアに、ベックは「有難う」と声を掛けた。
一度止まったマリアの靴音が、カツカツと遠ざかっていく。
「さて、少し場所を変えたいんだけど、いいかな」
ベックが立ち上がった。
車は大通りを抜け、再開発された地区を行く。
「この辺りも変わったでしょ。どう?」
ベックが訊いた。
「うん……こっちの方が見慣れてた筈なのに、驚いてる。再開発されて、随分変わったんだね。ザリーとチェリィは? 店は無くなっちゃったみたいだけど」
再開発で路地も整えられ、街並みは大きく変わっていた。それでもなんとなく大通りからの位置でザリーの店の位置は掴めたが、そこは今は大型の書店になっていた。
ベックが長い息を吐き、遠い目をした。
「ザリーはあのあと数年経って死んだよ。あの巨体だ。あの年までよくもったものだよ。あらゆる疾患持ちだったんだから」
「……チェリィは?」
ベックは小さく笑った。
「ザリーが死んだ後、暫くは大変でね。でも、何とか立ち直って、今は世界を回るって言って、何処に居るのやら。たまに、手紙が届いて何処にいるのかを知る。でも、元気そうだよ」
ふと、クライドが繋ぎっぱなしのワカバの手を見やったベックは、思い出したように言った。
「あのケーキ屋は、残念ながら店を閉めたんだ。恐らくワカバがこの町に来る前だね。知ってるだろう、クライド君は」
「ケーキ屋?」
クライドが首を傾げると、ベックが「ほら、あそこの」と詳細を付け加える。
あぁ、と頷きかけたクライドは、顔を顰めた。
「……何か、思い出したかな」
ベックの言葉に、クライドは考え込むようにして、ハッとワカバを振り向いた。
「ルー」
ビクリと肩を揺らすワカバに、クライドは泣きそうな顔になりながらその体を引き寄せた。
「ルー……思い出した。俺は、子供の時に会っていたのか。そうか……あの時は凄く悲しくて。全てから見放されたと感じた。……ワカバにも辛い思いをさせた。〝接触をしないこと〟。これは俺達で決めた規則だった」
「……急に出て行ってごめんね、クライド。貴方を傷つけた」
「いや、いいんだ。むしろ、ああいう別れの方が良かった。今、こうしてワカバと居る時に思い出すことが出来て、良かった」
ワカバはクライドの背に手を回し、その体を抱き締めた。
「やっぱり気にしてた。ね?」
ベックがからかうように言う。
「有難う、ベック」
車が止まったのは、再開発され、整えられた筈の地区にひとつだけ残された古びた建物だった。随分と荒廃し、今にも崩れそうだが、建っている。
ワカバには、見慣れた場所だった。
「見た目はこんなだけど、中も一応手を入れてるんだ。此処はうちの会社で管理してるんだけど、流石にそろそろ取り壊さないといけないだろうね」
「そう、なんだ……」
手を繋ぐクライドに、「此処はベックのアトリエで、此処でお世話になってたの」と伝えると、クライドは驚いたように辺りを見回した。
二十年という月日は、ただでさえ古めかしかった建物をより一層傷めていた。
最上階に着き、ベックは慣れた手つきで鍵を開けた。
扉の先の景色に、ワカバは息を漏らした。
変わっていなかった。
ついさっきまで暮らしていた部屋と、何も変わっていない。
ただ、窓から見える景色と、この部屋の主の姿が少しずつ変わっていた。
「変わってないね……」
ワカバはふいに泣きそうになった。鼻をすすり、それを誤魔化してから部屋に一歩ずつ踏み込んでいく。
「ワカバに、渡したいものがあるんだ」
ベックがアトリエのカーテンの向こうに消えると、ビニールに包まれたものを手に戻って来た。
「ベック……!」
ワカバは、その手の中のものを目にした途端、思わず崩れ落ちそうになった。
それは、あのワンピースだった。
「二十年も前のものだから流行もなにもないだろうけど、凄く似合ってたから。あぁ、ちゃんと手入れはしておいたからね。喜んで貰えるといいけど。どう?」
「うん……嬉しい。有難う、ベック」
ワカバはワンピースを受け取った。涙が溢れ、ビニールの上でポタポタと跳ねる。
「珈琲を淹れよう」
ベックは問うようにクライドを見た。
珈琲も変わらないままだった。この部屋に居ると、まだ自分は過去に居るのじゃないかと思えてくる。それでも、隣にはクライドが腰掛け、ベックの話を聞いている。
窓の外の日が陰り始めると、それを見やったベックが立ち上がった。
「そろそろ送って行こう。ワカバも疲れているだろうから。その前に、少しだけ、二人にして貰っていいかな」
そう訊くベックに、クライドは僅かに不安そうな顔をする。
「なに、もう殆ど老人の俺にそう警戒することもない」
クライドはじっと考え、ワカバを見てから、ひとつ頷いた。
「判った。外に出ていようか」
「いや、いい。此処に居てくれ。そうすれば安心だろう」
そう言ったベックは、アトリエの方を指さした。
「ワカバ、アトリエに来て」
「うん」
アトリエとの間を仕切るカーテンをめくったワカバは、息を飲んだ。
「私……」
部屋中に、ワカバの絵が飾られていた。手法やタッチを変え、様々なワカバが描かれている。
ベックは少しだけ恥ずかしそうにした。
「実は、あの絵で名が売れた後、この女性は誰だって話になってね。色んなシチュエーションでワカバのことを描くようになったんだ。まぁ、俺としてはそれで良かったんだけど」
可笑しそうに笑うベックに、ワカバは視線を向けた。
「私と出会ったせいで……貴方の人生は変わってしまった……」
ベックの静かな瞳が、ゆっくりとワカバを捉えた。
真剣な、ワカバの本質を捉えるような瞳だった。
ハッと息を飲んだワカバに、ベックは懐かしむように笑う。
「もし、あの時。この時代へと帰らなかったら……俺と共に生きる道もあった?」
ワカバは答えられなかった。
答えては、いけなかった。
しかし、すぐにベックは笑みを浮かべた。
「……なんて、そんな意地悪な質問をする為に此処に来たんじゃない」
ベックは部屋に飾られた絵を見上げた。
「最初に会った時、ワカバの周りだけが光り輝いて見えた。気が付いたら、助けてた。一緒に居るだけで……あの日々は、満たされてた」
「でも、それで──」
ベックはゆるく頭を振った。
「ワカバに会えたからこの絵が描けた。絵を描いて生きてこられた。俺の人生は満ち足りてた。君と……ワカバと出会えたから、俺はこんなにも──幸せだよ。それを伝えたかったんだ」
ワカバの視界は滲んでいく。世界の色が混ざっていく。
「俺の次に描きたいものは、ウェディングドレスを着たワカバ。描かせて。ね?」
ワカバは、涙を拭いながら、何度も何度も頷いた。
この話を書こうと思ったのは、ある日見た夢がきっかけでした。
ワカバとベックが過ごしたあのアトリエの風景。そして二人の間にある切ない想い。
目が覚めた時に、夢の内容は覚えていませんでしたが、二人はどうしてあのアトリエで過ごしていたのか。どうしてお互いを想いながら切なそうに見つめ合うのか。
そうして書き上げたのが『君と出会えたから』です。
お楽しみ頂けたでしょうか?
何処かSF寄りな作品となってしまった気もしますが……。
夢野なりの恋愛小説として、お楽しみ頂けた方がいらっしゃいましたら、幸いです。
また何処かでお会い出来ますように。
2025年9月15日
夢野かなめ




