10話 今、此処に
より深くなった寒さが、幾分かやわらぐ日が増えていた。
あれから既に一か月が過ぎていた。
迎えを待つ。
そう思っていても、本当に迎えなど来るのだろうかという不安が頭をもたげてくる時が多くあった。
ワカバは、目の前の装置のスイッチを入れた。
ぶん、という微かな稼働音がして、小箱の中の紙が震える。
時空逆行装置の仕組みは頭に入っている。しかし、逆行では〝現代〟に戻ることは叶わない。「待つだけじゃなくて、何か装置でも作ってみたら」と言うベックに後押しされるように、ワカバは時空転送装置の理論を考えついていた。その理論を使い、ほんの小さな物を送るだけの擬似装置を作り上げた。
ワカバの居る地点──アトリエの地図を記した紙片を小箱に入れ、それを装置の力によって〝現在〟のクライドの許へと送る。実際に届いているのかは判らない。確かめようがない。まるでSOS信号のように日々、紙片を送る。
紙片は砂のように分解されて散ると、装置の中でふっと消える。
──理論上は、これで良い筈。
ふぅとワカバが息を吐くと、玄関の扉が開いた。
上機嫌のベックが後ろ手に何かを隠しながら、ワカバを呼んだ。
「見て見て。あ、待って。目を瞑って」
「目を……? いいけど」
目を瞑ったワカバの前で、ガサガサという音がする。
「開けていいよ。見て」
目を開けたワカバは、目の前が花模様に染まっているのに目を瞬いた。しかし、驚くことはなかった。その花模様には見覚えがあったからだ。
「これって──」
「そう。この間見たワンピース。今日ってワカバの誕生日でしょ。だからプレゼント」
はい、とベックはワカバにワンピースを手渡すと、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
ワカバは暫くワンピースを見つめ、押し黙った。落ち着いた薄桃色に深い赤の花束が描かれている。春を運んでくるようなワンピース。ショーウィンドウに飾られたそれに、ワカバは目を惹かれた。
着てみたら、というベックに首を振り、ワンピースのことは頭の隅に追いやっていた。
何かと口実を作り出して「お手当」を渡すベックのお陰で、少しばかり自由になるお金はあったが、それでもワンピースを買うような余裕はなかった。
そのワンピースが今、目の前にある。
「……あれ、嬉しくなかった?」
不安そうに首を傾げるベックに、ワカバはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、嬉しい。凄く。でも、これ高──」
「あー、そういうのなし。喜んでくれたなら『嬉しい、有難う』って言って欲しいな」
ワカバは、開きかけた口を一度閉じ、笑顔を浮かべてから言った。
「嬉しい。有難う、ベック」
「ん。それでさ、ひとつお願い」
ベックはちらとワンピースに目をやってから窺うような顔をした。
「そのワンピースを着てるワカバを描きたい」
「私を?」
ワカバは目を瞬いた。決して容姿に自信がないという訳でもなく、そもそもあまりそうしたことに気が回らないタイプだったが、それでもモデルを務めるような見た目でないことは理解していた。
「でも、私って描いて楽しいかなぁ」
渋るワカバに、ベックが上目遣いに言う。
「ワカバがいいんだよ。ワカバだから描きたいの。ね、どう?」
たじろいだワカバに、「お願い」とベックが乞う。
暫く考えこんだワカバは、小さく頷いた。
「よしっ。じゃあ着替えて」
「え、今?」
「うん、今。凄い創作意欲湧いてるし、誕生日のワカバを描きたいから。あ、でも──」
ふいにベックは顔を曇らせた。ワカバが問うようにすると、気まずそうな顔をする。
「またワカバの都合を考えてなかった。ワカバの誕生日なんだから、ワカバがしたいことしよう」
しょぼくれる様子に、ワカバは笑った。
「じゃあ、私のこと描いて。私、誰かに描いてもらったことなんてないよ。初めて。貴重な体験になるね。それに、ベックが思いついたら一直線なのはいつものことでしょ。もう慣れたよ」
ワカバの言葉に、ベックが嬉しそうに笑ってから、口を尖らせる。
「いつものことなんて、生意気な口利いちゃって」
「ほら、私着替えるから。ベックは絵を描く準備をして」
ほらほら、と背を押すと、ベックは機嫌良さそうに鼻を鳴らして、アトリエへと歩いて行った。
着替えを終え、鏡に映る自分の嬉しそうな顔に、ワカバは照れたような、浮ついた気持ちになった。
──嬉しそう。ううん、凄く嬉しい。
手早く髪を整え、少しでも綺麗に見えるように澄ましてみたりしてから、アトリエへと向かう。
顔を上げたベックが、パッと顔を綻ばせた。
「うん、ワカバの為のワンピースだ。凄く、綺麗だよ。──あ、そこに座って」
ドキドキとしながら、ベックの示す椅子に腰掛けたワカバは、ベックの真剣な瞳を見た瞬間、息を飲んだ。
いつもは柔和そうに、それでいて時々悪戯っぽい光を宿している瞳は、今はまるで見透かすように、刺すようにワカバのことを見つめている。
ごくり、と唾を飲むと、ベックがにへらと笑った。
「あ、緊張しないでね。何か話でも……いや、音楽でも流す?」
ベックはプレーヤーを持ち出してくると、再生ボタンを押した。
何処か懐かしい、綺麗な旋律の音が流れてくる。
「俺ってあんまり流行りの曲とか判らなくてさ。集中するのに向いてる曲をいくつか集めたの。まぁ、今の流行曲ってワカバにとっては懐メロだろうけど」
「まぁ、そうかも。でも、これいい曲だね」
互いに目を合わせ、ふっと笑う。
再び手を動かし始めたベックは、真剣な瞳でワカバを見つめた。
不思議な感覚だった。
見つめ合っているようで、ベックはワカバの本質を捉えようと瞳を使う。
流れる音楽の合間に、互いの呼吸音が潜み、重なる。
鉛筆が紙を滑る音が、ワカバの輪郭を描き、なぞる。
少しだけ、顔が熱くなった。
「……今、何考えてる?」
ふいにベックが言った。
肩をビクつかせたワカバは、視線を彷徨わせてから、答えた。
「え、えーと……時空転送装置の改善点、とか」
「ふぅん?」
ベックはニヤリと笑ってから、手元に目を戻した。
「なに……?」
「なんでもぉ? ほら、動かないで」
姿勢を正したワカバに、ベックはプッと噴き出す。
「緊張もしないで。さっきまでの感じが凄い良かった」
「さっきまで……」
ワカバは、先程までの感覚に意識を戻していった。何処か包まれている様な感覚が戻ってくる。
世界はただ、此処にあるものしか存在しなくて、そして時はゆっくりと二人の間を流れていく。
どれくらい、そうしていただろう。
ふぅ、とベックが長い息を吐いた。
「有難う。ひとまず此処でひと区切り。ご飯食べよ。実は、良いお酒も買って来てるのよね」
「うん、確かにお腹空いちゃったかも」
体を伸ばし、ベックに歩み寄るワカバの前で、ベックが絵を伏せた。
「見ちゃ駄目?」
「だーめ」
むぅとするワカバに、ベックはニンマリと笑う。
「完成したら見せてあげる」
「……約束ね」
「うん。むしろ見て欲しい」
二人で笑い合いながら、アトリエを出ると、ベックは棚のあちこちからワインの瓶や、食材を取り出した。悪戯が成功した子供のように笑顔を浮かべていたが、ふっとワカバを見つめ、言った。
「そのワンピース、本当に凄く似合ってる」
ワカバは嬉しさに唇を震わせ、笑った。
「有難う」
ベックがグラスにワインを注いで、ワカバに手渡した。この家にグラスはなかった筈だが、何処かから仕入れてきたようだ。少しずつ用意をしていたのかと、ワカバはその様子を想像して、忍び笑った。
「誕生日おめでとう、ワカバ」
「有難う、ベック」
グラスがリンと音を立てた。
ワインが進み、あれこれと他愛もない話をする内、時空転送装置に目をやったベックが、恐る恐るという風に装置を指で突いた。
「ワカバのメッセージ届いてるのかな」
「んー、どうだろう。確認する術がないからね」
「ワカバがこの時代に来てからもう……二か月。いや、三か月か。時空逆行装置って、そんなに作り直すのに時間が掛かるものなの?」
ベックの言葉に、酔いのせいでぼんやりとしていた頭に、ひやりと冷たいものが刺された気がした。
此処まで時間が掛かるということは、装置以外の面でも何らかの問題があるということだろう。
「どうだろう……。資金の面では問題ないと思うけど。技術面も……でも、マリアが──」
「マリア?」
ハッとして、言葉を詰まらせたワカバに、ぴったりと体を付けるようにして隣に座ったベックが首を傾げる。
「マリアっていうのは……」
ワカバはマリアに対しての疑念を話した。話すつもりはなかったのに、酒の力かするすると言葉が出た。
「じゃあ、もしかしたらそのマリアって子が、彼氏を狙ってるかもしれないってこと? 結婚を目前にしてるのに?」
ベックは眉根を寄せ、じっと考え込んだ。
すぐに答えられなかったワカバは、必死に言い繕った。何故、そうしたのかは判らない。
もしかしたら、という考えが浮かぶのを頭から追い払うように、否定する。
「……うん。でも、それは薬剤のことを考えるとその可能性もあるってことで。だから──」
じっと考えていたベックは、おもむろにワカバの背に手を回し、抱きしめた。
「ベック……?」
カッと体が火照る。押し返そうとしても、ベックはワカバを離さなかった。
「ちょ、ちょっと……苦しいよ」
ベックの息が耳元でふぅと吐かれる。ドキリと胸が高鳴った。
「いつになったら彼氏は迎えに来るの。ワカバが此処に居ることは知ってる筈なのに」
「それは……」
判らない。
最初は、ほんの短い時間だと思っていた。気が付けば、もうこの時代が自分の生きてきた場所なのだと思い込んでしまいそうな程に、此処に居る。
判らない。一体、いつになったら──。
「俺は、今此処に──ワカバの側に居るよ」
そっと体を離したベックは、ワカバの瞳を覗くように見つめると、優しく唇を重ね合わせた。
「ベック……」
抗おうとしたワカバの手は、意思に反して力が入らなかった。
ベックは何度も唇を重ねる内、背に回していた手をついと下の方へ移動させた。
ワカバは慌ててその手を取り、震える声で言った。
「駄目……駄目だよ。私は、私は──」
ぐっと呻いたベックが、ゆっくりと体を離した。唇を噛み、俯いたまま長い息を吐く。
ふいに立ち上がり、ベックはコートを手に取った。
「ベック──」
「パン。明日の朝のパン買うの忘れてた。ザリーの店で買ってくるね」
振り向かないまま、ベックは家を出ていった。
一人残されたワカバは、ワイングラスを見やり、声を詰まらせた。
じわりと視界が滲んでいく。
──どうしたら……どうしたらいい? どう、したいんだろう。
判らなかった。
流されなかった自分にホッとしていた。それでも、胸が酷く痛む。
のろのろと食器を片付け、ワンピースを着替えても、ベックは帰って来なかった。
ワカバはハンガーに掛けたワンピースを見つめながら、朝日が昇ってくる頃に、眠りに落ちた。
日が高く昇った頃、ベックは帰って来た。
言った通り、パンを入れた紙袋と、ケーキの箱を手にしていた。
ソファに座るワカバの姿を見て、ホッとしたように息を吐く。
「あ、えーと、おはよう。もう昼だけど。じゃなくて、その……」
少しだけ言い淀み、紙袋とケーキの箱を差し出した。
「これ、食べない? 昨日、ちゃんと最後まで楽しく出来なかったから、お詫びというか、続きというか。今日も誕生日二日目ということに出来ないかな」
ベックは視線を彷徨わせ、俯いている。
ワカバは立ち上がると、紙袋とケーキの箱に手を伸ばした。
「うん。そうしよう。──おかえり、ベック」
ベックはハッと顔を上げ、泣きそうな表情を浮かべてから笑った。
「うん、ただいま。珈琲淹れるね」
ベックはコートを椅子に掛けると、湯を沸かし始めた。
その後ろ姿を見つめていたワカバは、あれ、と思った。
視界が回る。眩暈に似た揺れと、体が崩れるような感覚。
──これ、は。
「ベック」
声が掠れた。
「ちょっと待って。これだけ──」
ベックの声が遠くなり、途切れる。
──ああ。
ワカバの意識は一瞬だけ途切れた。




