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愛の前には年の差なんて(巡る軌跡)

※これもif話のようなものです。本編とはかけ離れたコメディ調。

「お祖父ちゃんに何か話があるんじゃないのかな?」


 私は幼い頃から変わらない、温かい眼差しを見つめてから目を逸らせた。お祖父さんは私と大芽が結ばれることを願っているという。

 でも、私も大芽もお祖父さんの望みに応えることはできない。

 終わらせられるのは、私だけだ。目を戻し、お祖父さんと視線を合わせた。


「お祖父さん、大芽との婚約はなかったことにしてほしい」


 そうして私は、心の中で限界まで膨れあがってしまった大切な気持ちを、お祖父さんに打ち明けた。




 大芽は自室の机に向かい、課題のレポートを仕上げていた。期限には余裕がある。何も今励む必要はないのだが、時間が中途半端だったため少しでも進めておこうと思った。

 彼は瑞穂を待っているところだった。

 お互いの婚約話を白紙に戻すよう、頼んでほしい。そう年上の幼馴染みに依頼したのは先日の話だ。瑞穂は快く引き受けてくれ、早速昨日、電話で上々の首尾報告を受けたばかりだった。ただ、話し合いの経緯を嬉々として語る瑞穂の声に、チクリと胸が痛んだのは見逃せない事実だった。突き詰めて考えてはいけないと、大芽はその感情にすぐさま蓋をした。

 その電話上で、瑞穂が言ったのだ。


「大芽、明日少しでいいから時間取ってもらえないかな」

「午前で講義は終わるから、午後だったらいつでも大丈夫だけど。どうかした?」

「うん、ちょっと話があって。じゃ、そっちの家に行くから」


 どういう用件なんだろうか? 訝しがりながら、大芽は電話を切ったのだった。

 おかしいといえば、家族の様子も妙だった。祖父は朝から落ち着かない様子でそわそわしている。湯飲みに茶を淹れて一口啜ったと思ったら、すぐに急須を取って注ぎ入れ、泉のように溢れさせていた。急いで沢村が拭こうとするのを制し、自ら布巾を動かすと、今度は湯飲みを倒して割っている。

 父はといえばそんな祖父を見て諦めたように溜息を零し、次いで大芽に視線を移してさらに深く息を吐くのだった。沢村は目にハンカチを当てて「旦那様、お労しや」と呟いていた。ちなみに旦那様とは父のことで、祖父は大旦那様と呼ばれる。思春期を迎えた頃から坊ちゃんと呼ばれるのが恥ずかしくなり、大芽のことは名前で呼んでもらっている。

 レポートの手を止めてあれこれ思い巡らせていると、扉越しに沢村の声が聞こえてきた。


「大芽さん、瑞穂さんがいらっしゃいましたよ」


 家族のおかしな態度はきっと瑞穂に関係している。これで理由が分かるだろう。

 そう思いながら、大芽は立ち上がった。



「なんか、よく意味が分かんないんだけど……」


 大芽は口の中で呟いた。

 古谷の家には応接間がある。有銘柄の洋酒日本酒が飾り棚にディスプレイされ、デザイナーズ家具の応接セットが配置されたこの場所は、取引相手との会談にもよく利用される。そこに今、古谷家の面々に瑞穂を加えた関係者が一堂に会していた。

 木製のローテーブルを均等に囲む3台の三人掛けソファには、大芽と父が並び、その向かいに祖父と瑞穂、側面に沢村が一人で座っている。この時点でまず、変だなと大芽も思っていたのだ。

 順当にいけば、幼馴染みであり年も近い大芽と瑞穂が同じソファに座るべきではないのだろうか。

 しかし大芽の疑問は、テーブルを挟んだ向かいにある瑞穂の顔を目にした途端、それを上回る不審の念によって追いやられてしまった。不躾なこちらの視線など気にならないらしく、瑞穂は大芽のことなど見ていない。さらに加えるならば、他の誰をも、金がふんだんにかかった部屋の内装すら目に入れていない。ただ、隣に座る祖父以外は。

 祖父をこんがり焼いてしまいそうに熱っぽい視線を送っている瑞穂の面持ちは、大芽が初めて見るものだった。同じ種類の表情を、大芽も他の女からはよく向けられる。だから知っているといえば知っている。しかし、瑞穂の対象がどう考えても祖父でしかあり得ないのが信じられない。

 てんやわんやに入り乱れる頭を抱え、瑞穂の名前を呼ぼうと発した大芽の声を、祖父の咳払いが遮った。


「えー皆様」


 大芽は心底驚いた。声に、かなりの緊張が混じっていたのだ。常日頃から年相応の泰然とした物腰を崩さず、各界の大物が集まったパーティでも落ち着き払って堂々と挨拶してみせる姿は、大芽の誇りでもあった。

 その祖父が動揺も露わに咳払いの姿勢のまま顎に拳を当て、強張った面持ちで続ける。


「本日はお日柄も良く、若輩なわたくしどものためにお集まりいただいて――」

「何が若輩なんだ親父」


 披露宴の際に花婿が言うスピーチのような台詞を、懇願の窺える声が遮った。大芽の隣に座る父が、身を乗り出しながら言った。


「あんたがこの中で一番の年長だろう、しっかりしてくれよ。そもそもが冗談なんだよな。親父は年に似合わず子供みたいな思いつきを始めることがあるから、今回もその類なんだろう?」


 これまた大芽にとっては驚愕の事態だった。親とはいえ、父にも子供時代があったのは充分理解している。だから大芽や目下の者に向ける口調は聞き慣れた理性的なものでも、父親である祖父にはそれが崩れ、甘えのような親しみが含まれる場面には生活の中で何度も遭遇してきた。しかしそれはあくまで家族内のことだ。幼い頃からの顔なじみとはいえ、最近まで交流が途絶えていた瑞穂の前で父が素顔に近い姿を晒すなど、意外の一言に尽きる。

 息を飲んで目を丸くしている息子の前で、父はさらに脳天を直撃するような事実を知らせた。


「嘘だと言ってくれ、瑞穂ちゃんと結婚するなんて!」

「はあ!?」


 動揺のままに大声を上げ、大芽は急いで瑞穂に顔を向けた。注目を浴びた本人が、恥ずかしそうに頬へ手を当て顔を俯ける。


「み、ミズさん?」


 取り乱した父の言動を裏付けるような反応が中々受け入れられず、大芽は胸に浮かんできた言葉をそのまま投げた。


「一体、何がどーなってどういう経緯でそんな話に……?」


 瑞穂がおずおずと顔を上げ、頼りになる拠り所に縋るような調子で祖父を見た。老齢の祖父も安心させるような笑顔で応え、膝の上で握り締められている若い瑞穂の拳をしわくちゃな手でそっと覆った。それがまるで親族中から反対されている恋人同士が、逆境にも負けずにお互いの絆を確かめ合っているような仕草に感じられ、大芽は思わずやめてくれよと天を仰いだ。


「大芽だったら分かるでしょう?」


 ――何が?

 瑞穂は不安そうに、けれど恋しい相手に受け入れられている幸福感が伝わってくる表情で、大芽に語りかける。


「好きになってしまったら、もうその人じゃないと絶対に嫌だって」


 現在進行形で恋愛中の大芽には、瑞穂の言わんとしているところがよく分かる。今回の婚約破棄も、原因は同じだからだ。

 ――いやいやいやちょっと待って。

 うっかり頷きそうになった大芽だが、心中で慌ててかぶりを振った。大芽と瑞穂では、社会における理念と照らしあわせてみても、状況に雲泥の差があるだろう。


「少し落ち着きなさい、瑞穂ちゃん」


 大芽の考えを読み取ったように、隣の父が諭すような口調で言った。誰が見ても狼狽えている自分のことは、棚に上げているようだ。


「きっと今は冷静に考えられないんだろう。大体瑞穂ちゃんから打ち明けたと聞いたが、一体親父のどこをす、好きだというんだい?」


 瑞穂の方から? 彼女は年上が好みだったのか。だったら年下の大芽との婚約など、瑞穂にとっては考えられないものだろう。判明した事柄にいささかの息苦しさを覚えながらも、一方で大芽は頑張ったなお父さんと言葉へは出さずに父を労った。男女間で交わされる好きだという感情は、日常生活では口にし辛いものだ。

 息子から無言の声援を受けた父が、日常を大きく逸脱した現状を打破しようとさらに言い募る。


「あまり常識云々を持ち出すような頭の固いことは言いたくないが、歳に開きがありすぎるだろう」

「まあ、五十は軽く離れているな。半世紀か。いいじゃないか、世紀を超えた愛みたいで格好いいじゃないか」


 冗談めかした祖父の戯れ言を聞いて、瑞穂が「素敵」とうっとり呟いた。瑞穂は、こんな人間だったろうか?

 人間が他人に見せる姿は、その人の一側面でしかないという。何かで目にしたフレーズを思い出し、動転しながらも真実を衝いていると腑に落ちた大芽だった。同時に瑞穂のこんな姿は自分には引き出せないだろうと、必要ないはずの敗北感も植えつけられたのだった。


「私、実は幼い頃からお祖父さんのことが好きで……。この家に遊びに来ていたのも、本当はお祖父さん目当てだったんです」


 父の質問に、胸に手を当てた瑞穂がしんみりと答える。


「そ、それはあれだろう。いささか幅がありすぎるが、年上の異性に憧れるという一過性の――」

「いいえ、ずっと持続する恋愛感情です」


 一縷の望みを掛けた風な父の言葉を、恋に浮かされた絶対の口調で瑞穂がばっさり切り捨てる。


「そうだ、沢村さんはどう思う?」


 父が救いを求めるように沢村を見た。

 ずっと黙っていたベテラン家政婦は、無表情に「旦那様、諦めましょう」とだけ言った。

 味方を求める父が、今度は大芽をふり返る。首を竦めたくなった。父は無言で、お前だけはお父さんを裏切らないよなと睨むような目線で訴えてきた。


「お願い大芽、お祖母ちゃんって呼んで!」


 錯乱しているとしか思えないようなことを、瑞穂が頼み込んでくる。悪夢だ。

 そして大芽は――



 飛び起きると、そこはベッドの上だった。鼓動がこれ以上ないというほど早く打っている。初夏で暑くも寒くもない気温なのに、こめかみから汗がしたたり落ちてくる。

 現在の状況を把握しきれない大芽は辺りを見回して、自分は寝室にいるのだとやっと理解し、安堵の息を吐いた。どうやら、本当に夢を見ていたようだった。

 ――そうだ、確か仕事から帰ってきたのが明け方で、それからシャワーを浴びてベッドに直行したんだった。

 室内は遮光カーテンが引かれていて薄暗いが、すき間から覗く光は明るい。正午を過ぎた頃か。

 大芽はあちこちを飛び回っているような頭をかき集めて整えるために、今までの人生をふり返った。

 昔、祖父は恩人に報いるため、大芽と瑞穂の婚約を定めた。これは夢の中と同じだ。その後二人は親たちの思惑通り仲良くなり、成長の過程で自然と愛し合うようになった。瑞穂の大学卒業を待ってなんの問題もなく結婚に至ったはずだ。これまでずっとお互いだけを見つめてきた。他に相手などいるはずもない。

 大芽が二十五歳の今、子供は二人いて、二つ年上の瑞穂は三人目を腹に宿している。大芽としては、大好きな奥さんとの子供はもっとたくさん欲しい。

 それなのに、どうしてあんな恐ろしい夢を見てしまったのか……

 夢の中であの後、自分が何を言おうとしたのか。ベッドの上で頭を抱えながらも、どうしてもこれといった答えが思いつかない大芽だった。



「ミズさんさ、おかしなこと聞くけど、おじいちゃんのこと、恋愛対象として見れる?」

「お祖父さんを? 何言ってんの、大芽」

「いやまあいいから。どう?」

「お祖父さん……。まあ、今でも現役バリバリだし、性格も穏やかで頼りがいもあるし格好いいよね。若い頃の写真見せてもらったけど、目が吸い寄せられるようなイケメンだったし。大芽っておじさんよりもお祖父さん似だよね。隔世遺伝ってやつ?」

「ちょっと! 今、アリかもなんて考えてない?」

「ええっ……!? ま、まあそんなことどうでもいいじゃない。あ、泣いてる。行かなきゃ」


 妊婦らしい自然な仕草で腹を撫で、何かをごまかすように、大芽の妻はそそくさと立ち去った。

 夢の中で瑞穂が浮かべた、祖父に向けるとろけたような表情を思い出す。現実でも大芽は、あそこまで恋にトチ狂った瑞穂を見たことがない。

 息子とは、無意識に父を越えたいと願うものだ。

 しかしそれが祖父ともなると、途端にハードルが何倍にも跳ね上がるような気がする。

 仏壇に線香を上げて、夢枕で釘を刺してもらうよう祖母に頼んでおこう。

 大芽がそうしみじみ思った、夢での出来事だった。


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