異世界へ向かう雰囲気
時刻は日を跨ぐ直前だろうか。
俺は今、片道約一時間、ガラガラの通勤電車の中で、街の明かりを見つめながら吊革に体を預けている。
周囲には自分と同じような企業戦士たちが一時、疲れた体を程よい柔らかさの座席に預けて仮初の休息を得ていて、その様子は様々だ。
例えば、少し赤ら顔の中年男性、接待かはたまた飲み会の帰りか、足の間にはビジネスバッグを挟み、端の座席の仕切りに体を預けて、上機嫌そうにいびきを響かせている、よい席だったのだろう。
例えば、目の下に隈を作ったキャリアウーマン、膝の上にノートパソコンをのせ、タイピング音を響かせながら、時折目じりを手で揉んでため息を吐いている、お疲れ様です。
そう、これは所謂「休日出勤」の終わりの一幕である。
かくいう俺も、今日は企業展示会の帰り、営業先の接待や使用した備品の報告その他諸々を終えた後である。
仕事柄、今日もしこたま酒を飲んでおり、今も千鳥足をどうにか制御している所だ。
このゆとりある社内の中で吊革に身を預けているのは、寝過ごし防止の為だ。
この疲労の上、更に寝過ごして風呂にも入れず、明日の休日がおじゃんになる心労まで重ねたくはないのだ、しかし…。
(ね、眠い)
睡魔というのは、こちらのそんな事情はお構いなしに襲ってくるもので、正直吊革から手を離して、座席に…いや、できるなら鞄を枕に床に寝そべってしまいたい欲に駆られる。
そんな時である、突如、目の前で光が弾けた。
どこぞの企業の看板だろうか、窓の外…いや薄く開いた視界の全てが光で包まれる。
(…い、いや眩しすぎだろ!?)
酔って覚束ない手をどうにか顔まで持っていき、急な刺激に反応して涙でぬれた目元をシャツの袖で擦る。
そこにはいつもと変わらない風景、車窓からは不動産会社の看板が勢いよく過ぎ去っていくのが見える。
(…なんだったんだ)
ふと、視線を下におろす。
目の前の座席に人がいる。
先ほどまでは空席だったはずだが、朦朧としている中で、いくつか駅を見逃していただろうか。
慌てて社内の表示灯を見る、見知った駅名が流れて安心のため息を漏らす。
再び視線を前に向ける、男だ。
革張りのベストにどこかあせた茶色のズボン、はだけた胸からは筋骨が山脈ばりに隆々としている、どこかファンタジックな服装。
赤みの差した髪色、オールバックで固められたそれは車内等を反射して輝き、同じ色味の髭を眺めに蓄えた、どこか海外のそれを感じる体に見合った濃い顔立ちだ。
大きく口を開けて、中年男性のそれとは比較にならないほどの大いびきをかいている。
映画撮影中なのかと思わず思ってしまうほどの異質さに、思わず目を見開いて観察してしまう。
しかし…。
(さ、酒くせえぇ…っ!!)
接待帰りのアルコール漬けにこれはきつい!
慌てて、その場を離れようと吊革から、手を離しその場を離れようとする…が。
その瞬間、電車が勢い良く揺れた。
踏ん張るが、酔った自分の三半規管ではどうやっても支え切れるものではない。
勢いよく、目の前の男性の体に向かって倒れこむ。
鈍く、固い感触、そのあとに「ぐぉッ!?」と、野太い声が耳に入る。
「す、すいません!」
慌てて身をよじり、男性の隣の席に腰かける形になる。
男性は胸板の辺りをさすりながら、金色の光を放つそれを重そうな瞼からのぞかせた。
男性と目が合う。
「…おぉ…ん…」
「すいません!
自分酔ってて、バランス崩しちゃって…け、怪我とか」
「…ん、大事ない、ないが…」
男性は自らの体を見やり、両手を持ち上げて顔の前に持っていく。
「ふむ…これは」
「ほ、本当にすいません…で、では…」
声が上ずる、正直…恐怖だった。
どうにか体を持ち上げようと腕に力を入れる。
この酔った状態で筋骨隆々の、それもすこぶる酔っているであろう大男に勢いよく突っ込んでしまったのだ。
何をされるか、言われるか…。
「まぁ待て」
大男に肩をつかまれる。
一気に酔いと血の気が引く、この後に起こりうる事はいくつかあるが、どれもろくでもないことの方が多い。
今すぐ振りほどいて逃げたい衝動に駆られるが、男の手の力にそんな意思は簡単に粉砕される。
「は、はい…」
顔をすこぶる強張らせながら振り返る。
するとそこには、満面の笑みの男の顔があった。
「こうして、顔を会せたのも何かの縁よ。
お主、少し付き合わぬか」
そういうと、男は俺との顔の間に、革の張られたスキットルを突き出した。
「え…あ…?」
「今宵はいい月であったゆえ、些か飲みすぎた。
まさかこのような形で顕現してしまうとはな…」
男は俺の肩から手を離し、どこからかぐい飲みサイズの黄金の酒器を取り出す。
「い、いや…俺もさっきまでしこたま飲んできたところで…」
正直、もう臭いを嗅いだだけでも戻してしまう自信があったが、そんな俺の様子を見て男は顎髭をさする。
「しかし、良い酒ではなかったようだ、違うか?」
「い、いや…展示会で…どれも高級酒ではあったというか…」
そう、何を隠そう俺は酒販店の営業である。
今日は各地の酒蔵や蒸留所が一同に会する、大規模展示会の帰りだったのだ。
呂律の回らない口でそう説明すると、男は豪快に笑った。
「なんと、酒の司であったか!!
では我の眷属も同然ではないか!
では、断るとはいわんのぅ…?」
男は青ざめたこちらにはお構いなしに、スキットルから酒器に酒を注ぐ。
「よい酒とは、あのような男の事を言うのよ」
そういうと、男は酔いつぶれた中年男性を見やる。
「娘の婚前の祝いでな、それはそれは良い酒であった」
…彼の親族か、何かなのだろうか。
男の口ぶりは断定的で、しかし中年男性の様子はどこか納得できる雰囲気を纏っていた。
「酒で気分を害するようでは、酒の司の役が泣く。
全く持って嘆かわしいことだ」
男はそういって酒器を俺に差し出した。
「わが眷属であれば、良い酒を知ることだ」
目の前に酒器に注がれたそれが覗く。
その酒…いや酒なのだろうか、それは鈍く光を放ち、えもいわれぬ芳香を放っていた。
果汁酒、いや穀物由来の…それも違う気がする。
仕事柄、様々な種類の酒を見てきたが、これはそのどれにも当てはまらない、というか。
「…こ、これは酒なんですか?」
「うん?
…おう、それはちがいない」
とてもではないが、なんというか。
この世のものではない…とさえ思わせるような、そんな雰囲気を立ち昇らせるそれは、不思議とアルコールで焼かれた脳に、嫌悪感というものを一切感じさせなかった。
思わず、酒器を手に取る。
男はその様子をみて、笑みを浮かべると手に持った酒器をこちらに掲げた。
「乾杯だ、意味は知っておるな」
その言葉に、軽く頷くと一口、それを含んだ。
一瞬、口の中で何かが爆発したのかと思った。
それは蒸留酒の様に強く、そして軽やかで、舌の上を滑り落ちるように喉奥へと滑り落ちていく。
口の中で転がすことすら許されないような、雲のような軽さ。
そして、それに追従するようにこの世の酒の良い香りとされる部分が全て合わさったような、香の爆弾がさく裂する。
止まらない、気が付けば、酒に満ちていたそれは乾いていた。
文字通りの「乾杯」、残すことは許さぬと酒がこちらに命令するかのような、そんな酒だった。
「…う…」
吐いた息から感じる残り香すら、心地いい。
思わず、口から言葉が漏れでる。
「…うま…すぎる」
「んん?
…バッハッハッハ!!
そうだろうそうだろう、当たり前だ!」
「こ、こんな酒、生まれて初めて飲みました!」
「おお、そうであろうな。
これは神ですらおいそれとは口にできん代物よ」
「…ほ、本当に…そういうフレーズでも、納得できるような…!
あ、あの、あなたも酒造業でお勤めに?
で、でしたら、め、名刺をぜひ!
当社でも取り扱いができれば…!」
「「酒」とはすなわち「我」よ。
生業だなんだと、つまらんことを申すな。
…ほれ、まだいけるであろう?」
なんだか突拍子もないことを言われた気がするが、フワフワと柔らかい感覚の中で、その感覚はどこかへ流れ去っていく。
男から注がれたそれを、両の手で支えられた酒器で受け取り、もう一度あおる。
なんということだ、今度はまた違った感覚が突き抜けていく。
柑橘を思わせる薬草酒…ジンの類だろうか。
木々の生い茂った清らかな場所で、深呼吸をしているかのような。
すがすがしい感覚が、脳裏を突き抜けていく。
またしても、酒器を空にしてしまう。
乾いた酒器の底を残念そうに見つめると、男は再び酒を注いでくれた。
「お主、名前は」
「は、はい…乾…イヌイといいます」
「ではイヌイ、この出会いに乾杯だ」
男はそういうと、酒器をこちらのそれに打ち合わせる。
小気味いい音と共に、二人で酒器を空にする。
今度は重々しい、しかしその重厚感の中にどこか優しさを思わせる、大地の味がした。
目の前に穀物の畑が広がっている感覚さえ覚える、柔らかくも力強い香味。
どういう理屈なのだろうか、この酒は、見るたびに味を、香をを変化させる。
まるで、この世の全ての酒の完成系のような。
「あ、あの…私もお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「む…そうだな」
男はそういうと、顎髭をさすり、思案する。
「我はバッカス、全ての酒、酒の司、豊穣の守護神。
偉大な主神のもと、全ての陶酔を享受するを許されし者よ」
「…は、はぁ」
どうやら、お互い大分酔っているようだ。
浮くような感覚の中で、必死にその名前を飲み込もうとするが、あまりに壮大すぎる自己紹介に脳がついていけていない。
「…バハハ!
よいよい、非礼は免ずる、今宵は無礼講よ。
それ、お主も我に注がんか」
「は、はい…!
では、ご返杯…」
差し出されたスキットルを恭しく受け取り、バッカスと名乗った男の酒器に注ぐ。
「ほれ、では我も…返杯だ」
「どうも…おっとと」
「バッハハ!零すでないぞ!
それで、お主は何故そこまでくたびれておったのだ」
「ま、まぁ…仕事で今日は忙しくて」
「酒の肴だ、許すゆえ、話してみるがいい」
「先ほども言いましたが、私は所謂酒類の…酒の販売をしておりまして…」
それからは、仕事の話から始まって、身の上の話まで…俺のありふれた人生について、酒の勢いで彼にこぼしてしまった。
そのたびに酒は進み、お互いに酒器を空にしあいながら時間は流れた。
…
「ですからね!?
おれは思うんですよ!
…酒っていうのは、仕事の…うぇっ!
…道具にしたらいけないんだってぇ!
お互い…へッ!…楽しくならなきゃ、いみなぁいでしょッ!ってぇ!」
「おお!よくぞ言うた!
そうよ、陶酔に呑まれ、他者を害するようではそれは真の良い酒とはいえん!
酒の司たるお主がそれを分かっておることを我は誇りに思っておるぞ!」
「あり…ありが…ありがとうござぃますぅ!!
飲めないなら!飲めない!
それはぁ!それでいいんですぅ!
無理やりぃ!飲ませる酒はぁ!
酒じゃないッ!それは毒なんです!」
「そうともよ!イヌイ、お主は良い酒の司である!
…のう、イヌイ」
「ひゃい!!
なんれ…んが!?
…なんでしょう、バッカスひゃん」
「お主、この世に家族はおらんようだな」
「…なん…なんれすか、とつれん」
「孤児院に捨てられ、学びを収めて職に就き、現在27歳、その歳では安定はしておるが。
…どこか、空虚も覚えておる、違うか?」
「…わた…おれぇ、そんなころまではなしましらっけ?」
「遠見の術を用いたのよ。
我はな、此度のこの縁に何かを感じておる。
偉大なる主神のお導きをな」
「しゅしん…れすか」
「我の父であり母である、偉大なお方よ。
…それでなぁイヌイよ、お主、本当の我の眷属になる気はないか?」
「けんぞくぅ…ですかぁ…」
「どうだ?」
「だうも…なにも…俺は、もうバッカスひゃんの眷属れす!
おかわりくだひゃい!」
「おうおう!
…いや、そうであるのだが、真性の契約を結ばんかと言っておるのだ」
「…ろうもどうも…ささ、ご返杯…。
でもこれぇ…すごいれすねぇ…じぇんじぇんお酒…なくならないじゃないれすかぁ…。
でもぉ…けいやくってそれぇ…うさんくさくないぃれすかぁ、俺、ちょきんとかぁ、ないれすよ」
「おっとと、こぼすなこぼすな。
我の神器の一つであるからな、「尽きぬ酒樽」というやつだ。
いやないやな、決してそういった類の契約ではない。
お主には世を跨いで、こちらで我の眷属として仕えてほしいのよ」
「…それって…引き抜きって事れすか?
俺…そんあ実績もけいれきもないれすよ?」
「まぁ、それで間違いではないな。
それで、どうだ?」
「…なんか」
バッカスさんの雰囲気が変わった気がする。
纏うオーラというのだろうか、どこか有無を言わせぬような、そんな圧を感じる。
「それって…楽しそうれすねえ!」
しかし、思考力は限界まで落ち込んでしまっている。
今の俺は風に飛ばされるビニール袋の様に無力だ。
「いいれすよぉ!
中途採用っれことれすよねえ!
面接とかぁ、ある感じれすぅ?」
バッカスさんは俺の言葉を聞いてにやりと笑った。
「いや、それには及ばん」
そういうと、バッカスさんは俺の額に人差し指を押し付けた。
直後、目を焼くような光が目の前で閃く。
「うおぉ…バッカスさんはまじっくも…できるんれす…ね」
光を見つめていると、強烈な眠気に襲われる。
意識が遠く、不覚に落ちていく感覚に、抗うこともできずに落ちていく。
『これで我のお役目も果たせるというわけよ。
では、わが眷属、酒の司たるイヌイよ』
バッカスさんの声がどこか遠くに聞こえる。
『向こうで相まみえることを、楽しみにしておる』
その声を最後に、俺は完全に意識を手放した。
…
……
「…ん…」
声が聞こえる。
「…さーん」
透明感のある、綺麗な声だ。
思わずずっと聞いていたくなる声…。
「…ヌイさーん…」
ゆさゆさと揺さぶられる。
直後、酒に焼かれた脳が痛覚を復活させる。
痛い、とてつもなく、頭が。
「…ん…んおぉぉ…」
声が出ない、正確には、うめき声しか発することができない。
「よかった、目覚められましたか」
「んんおあぁぁ…」
喉が渇いた…焼けつくような痛みに呻き、手をわさわさと周囲に伸ばす。
水が、水が欲しい…。
「きゃ…ッ!
…もう、飲みすぎですよ」
何か柔らかいものに触れた後、手に硬質な何かを当てられる。
これは…。
「…み、水?」
「そうです、お水ですよ。
起き上がれますか?
危ないですから、起きて飲んでください」
どこか呆れの混ざったその声に従い、どうにか身を起こし、かすむ視界で周囲を見渡す。
「………んが…ほしぞら?」
周囲一面、プラネタリウムのような…いや、作り物とは思えない星の空間にいる。
「…なんだ、ゆめか」
「はい、お水ですよ」
目の前に水の入ったコップが差し出される。
思わずコップを手に取り、こめかみを抑えながら飲み干す。
「…っはぁ!!」
喉の渇きが急速に癒され、同時に少し頭痛も和らいだ。
「もう、どれだけ飲まれたんですか」
「…いや、すいません…昨日は、えっと…」
ふと視界を横にやると、この世のモノとは思えない絶世の美女がかがんでこちらの様子を伺っていた。
うねる柔らかそうな金髪、心配そうにこちらを伺う碧の双眸、南国のそれを思わせる豊かな体つき…。
纏っている衣服もこの世のモノとは思えない仕立てだ。
「…ゆめだな、白昼夢ってやつか」
「はい、もう一杯どうぞ」
女神ともいえるような女性はもう一杯、水差しから水を注いでくれる。
再び口に含むと、それは一杯目では感じられなかった清涼感を口に与え。
「…あったまいてぇぇぇえああぁ…!」
同時に、ふたたび焼けるような二日酔いの痛みをはっきりとさせた。
「もう、自業自得です。
神性の酒をあのように飲まれたら、神でさえ三日は寝込みますよ」
「…あい、もう二度と酒は飲みません…だからこの痛みを消し去ってください女神様ぁ…」
「まぁ、ふふふ」
もだえる俺のあさましい様子を、それでも女性は慈しみのこもった瞳で見てくれる。
本当に女神なのかもしれない、きっとそうだ。
「昨日の事、どこまで覚えてらっしゃいますか?」
「…さくじつ…」
痛む頭で考える、昨日俺は…。
「バッカスさん…そうだ、彼に電車で…」
「あら、良かった。
記憶はしっかりとされているようですね」
「…すっごいうまい酒をごちそうになって…それで…あれ?」
こめかみを抑えつつ考える。
「…引き抜きを受けたような、眷属がどうたらって」
「そうそう、そうです…がんばれ、がんばれ♪」
「んおぉぉ…美女の声援…頭に染み渡る…」
我ながら頓珍漢な事を口走りながら考える。
「……いや、でもこれ、夢ですよね」
「イヌイさん、あなたはいま、世界の境、境界にいるのです」
「またまた、アニメじゃないんだから」
「…♪」
微笑む女神の顔を見つめた後、自らが座り込んでいる地面を見やる。
いや…地面?
「…すッ…ごい…!
おれ、星空に浮いてる…!?」
確かに座っている感覚はある、だが手で触れると触れているようなそうでないような。
奇妙な感覚に身をよじる。
とりあえず、転がってみよう。
「…おおお、すごい、全周星空って感じだ…!!」
「あらあらあら」
女神が俺の転がる先にトコトコといった具合についてくる。
「そんなに転がったら…」
「…んおえええぇぇッ!!」
猛烈な吐き気に襲われ、その場で四つん這いになる。
吐しゃ物が星空の中へ霞となって消えていく、不思議だ、きっと目覚めたらとんでもないことになっているだろう。
二日酔いの三半規管にダイレクトダメージ、夢の中と言え、調子に乗りすぎてしまった。
「よしよし、大丈夫大丈夫、全部ゲーってしちゃいましょうね」
蹲る俺の背中を女神がさすってくれる。
なんだか、泣きたくなってきた、孤児院の先生を思い出す。
しばらく、仰向けになり、女神がどこからともなく取り出した手拭いを顔にかけてもらう。
「あー…すいません、本当に」
「いえいえ、面白い方。
もっと取り乱される方の方がほとんどですのよ」
女神はこれまたどこからか現れた、見事な意匠の施された丸テーブル、その一組のチェアの片方に腰かけている。
これ以上、迷惑はかけられない。
震える足を抑えながら、どうにか立ち上がり、俺もチェアに腰かける。
「…夢でも二日酔いなんて…起きたらきっとこれ以上にひどいことに…」
「あらあら」
女神は口元に手をあて、微笑むとまたまたどこからか茶器を出現させ、俺に注いでくれた。
両手でいただき、口持ちに運ぶ。
爽やかな香味だ、ハーブだろうか、頭の痛みが和らぐ。
「…美味すぎる…」
思わずティーカップを両手に持ちながらテーブルに顔面を押し付ける。
意思で出来たそれが冷たくて心地いい。
「イヌイさん」
女神の声に慌てて顔を上げる。
「少しは落ち着かれましたか?」
「は、はい…すいません。
内容物を出し切ったら楽になりました」
「あらあら、あの子の雫は貴重ですのよ」
ころころと女神は笑い、お代わりのお茶を注いでくれる。
「では、改めてになりますが」
女神は姿勢を正し、こちらを見据える。
「初めまして、東人の子。
私は女神アフロディーティ。
かつてあなたの世界にあり、一つの神域を治めた12の柱の一人です」
なんと、本当に女神様であった。
なんだかどこかで聞いたお名前である。
「もしかして、とんでもなく有名な方では…?」
「ええ、それはもう。
若いころはブイブイいわせてましたのよ♪」
おお、夢とはいえ、とんでもないことだ。
女神様にとんでもなく見苦しい姿をお見せしてしまった。
「すいません…夢とはいえ、お見苦しい姿を…」
「よいのです、神の力に当てられたのでしょう。
むしろこの程度で済んでいるのは、あの子の眷属故でしょうね」
「…そうです、バッカスさんは…おれ、あの後は…」
「ええ、あなたの体であれば、今頃は終点の駅で当直の者に見つかっているでしょう」
「え?」
「少しの間、お茶の間を騒がすことになるでしょうね。
悲しむ者も幾名か…でも大丈夫、人の子の世は強くそして早く回るもの、東の神々も苦言を申しておりましたが、幾年か過ぎれば…」
「いや、あの女神様、それってどういう」
「あら?」
女神様は小首をかしげながら、こちらを見てくる。
「あの、はは…その言い方だと、俺って…なんだか、その」
「?…ええ、あなたの魂は現世を離れております」
「あ、そうなんですか、へー」
ふと自分の体を見やる、体はしっかりしている。
服装も昨日のままだ。
足だって透けていない。
「またまたぁ、夢にしたってもっと段階がありますよ。
…いや、夢だからか?現実味なんてあってないようなもので…。
そういえば、白昼夢って自分の思い通りになるっていうよな…」
「確かに、ごく稀に人の子が夢を通じて旅をすることがありますわね」
「ですよね、ではやっぱりこれもまた夢…」
「いえ、貴方の魂の主線たるは今、この時です」
「え?」
「幻想、夢想ではありませんわ」
「…?」
思わず、首をかしげる。
女神さまも真似をするように首をかしげる。
「あ!」
女神さまが突然声を上げる。
「な、なんですか?」
「もしかして、あの子、何も説明をしていないのではありませんか?」
「な、何がです?」
「契約についてです」
「…眷属が、どうたらってやつですか?」
「そう、それです」
女神が立ち上がり、俺の手を取って同じように立ち上がらせた。
手を引かれるまま、道なき星間を歩いていくと、突然真っ白な空間に世界が塗り替わった。
空間の先に、何か点のようなものがみえる。
と、思った次の瞬間。
目の前に凝った意匠の水盆が現れた。
中で小魚が泳いでいる。
「こちらをご覧になって」
いわれるがまま、水盆に目を落とし見つめる。
するとすぐに、ある一つの光景が映し出された。
そこには…。
「…これは」
そこには必死の形相で救命活動をしている救急隊員たちと、そのそばで所在なさげにうろつく駅員の姿が映っている。
そしてその中心には。
「…俺だ」
真っ青な表情で胸に何かしらの器具をつけられている自分の姿が映っていた。
「あなたは神との契約を結び、真性眷属となりました。
魂は古い殻を捨て、あなたは神人として、いまここにいるのです」
女神さまの声が、えらく耳の奥底に響いた。
「…ああ、あれってそういう」
頭の中で、電車内での出来事がフラッシュバックする。
確かに、俺はあの時に、バッカスさんとそのような会話をした。
しかし、しかしだ。
「えらい急な話じゃないですかね!?」
「ごめんなさい…あの子の眷属契約は、このような形で行われることが多いことを失念しておりました」
女神さまが心の底から申し訳なさそうな顔でこちらを見てくるものだから、つられて泣きそうになる。
「…つまりは、死んだってことですか」
「端的には、そういうことになりますわね」
「はぁ…そうですか…なるほど」
水盆の光景が消え、再び、小魚の泳ぐ水面に戻る。
…あれ、これ小魚じゃない、クジラだ、潮吹いてる、すごい。
「…落ち着いておられますね」
「…正直、びっくらこいたー!…ってかんじではあるんです。
まだ夢だとおもいたいですし、でも…これはあまりにも…」
「ええ、そうですわよね」
「現実味がないというか…あまりにも…その、あっさりしていたので」
こっそり足をつねってみる。
…痛いんだな、夢では…ないらしい。
「ちなみに、神人となった貴方を害することができるのは、あなた自身か、同じ神族だけです。
…いろいろと例外はありますが」
「あ、いまちょっと濁しませんでした?」
「まぁ、ほほ。
…先ほど足をつねられて痛みを感じたのは、そういう事です」
「やっぱり、この確認法は万国共通なんですか」
試しに頬も抓ってみる。
「東の人の子に多いと聞きますわね。
私自身も張り手をしてほしいと、頼まれたこともありますわ」
「頼んだらしてくれるんです?」
「私が叩いてしまったら、その…」
「あ、そういう感じですか」
流石は女神様、こんなに美しいのにお強くもあられるのか。
「神人程度の子であればひとたまりも…手加減はしますが、試してみます?」
「ちなみにそれで死んじゃったらどうなるんです…?」
女神さまがひゅんひゅんと、輝く右手で素振りをしている。
「お兄様の所に送られて、そこでお仕事の手伝いをやらされるそうですわ」
「やめておきます」
女神さまの素振りの軌道に光の残滓が残っている、喰らえば恐らく光になってしまう
「ええ、私もせっかくできたお友達を失いたくありませんもの」
どこか悪戯気な笑みを浮かべた後、女神様は少し申し訳なさそうに眉を落とした。
「…整理は、つきましたか?」
「…ええ、自分でも不思議なんですが」
自分の今までの人生を思い出す。
家族はいない、恋人も、生きるためにしていた仕事は嫌いではなかったが、それでも…一生の仕事ですと、胸を張れるかと言われればそうでもない。
バッカスさんの言う通り、どこか空虚さを感じていたのは…事実であった。
それに…。
「なんだか、アニメの世界みたいで、ワクワクもしているんです」
「…あにめ…物語ですわね、その様に感じる者達も過去におりましたわ」
「その人たちはどうなったんですか」
「自らがあこがれたような物語となったもの。
仕えし神よりも名を轟かしたもの、星になったものも何柱か。
争いで敗れ闇を受け入れたり、人々から忘れられ消え去ったものもおります」
「後半…神様っていうのも、大変ですね」
「ええ、ですが」
女神さまは再び、俺の手を取って歩き出す。
「我々の世界はきっと、あなたを飽きさせぬでしょう」
…
「あなたはあの子…バッカスと契約を結び、神人となりました。
生まれ変わりを果たし、新たな世界で生きるのです、神の眷属として」
女神さまは再び、星々の中を俺の手を取りながら歩いていく。
「…でも女神様」
「ディーティちゃんでもよろしいのですよ」
恐れ多い。
「…アフロディーティ様、俺は普通の会社員で、特に変わったことはできませんよ」
「バッカスは奔放、神の許しで快楽に酔っておりますが、決して愚かではありません。
あの子があなたを眷属に選んだのであれば、きっと訳があるのです」
「…あなたの眷属もいらっしゃるんですか」
「もちろん、私は愛と美、そしてバッカスと同様、豊穣を司っています。
私の眷属は慈しみ深く、そして心身ともに美しい、自慢の子らですのよ」
心の底からの笑みを浮かべながらに女神さまは歩く。
「かの地でわが眷属に相まみえたら、仲良くしてあげてください。
…仮に見初める際は覚悟をもって、でないとわたくしが叩きにまいりますわ」
女神さまが再び右手の素振りを見せる。
光の塵が舞う、心しておこう。
「つきましたわね」
気づくと、そこには青い星があった。
緑鮮やかな大陸があり、白くまばゆい雲が流れ、力強い台地が脈動し、懐の深そうな青を湛えた海がある。
「地球ではない、んですよね?」
「ええ、ここは名もなき新天地。
既に息づく人々は『テラ』と呼びます」
「テラ…」
「我々は彼の地では既に絶えたに等しい。
多くの人々は信仰を忘れ、見えぬ場所はなくなり、我々のような存在の力が人の子らに明らかにされ始めている。
幾柱はいまだ彼の地にとどまり、信仰を受け、人の子を支えておりますが。
我々の様な…まあ、なんといいますか」
「…奔放な?」
「ふふ…ええ、我々のように奔放な神々は彼の地を離れ、新天地を求めました。
…まぁ、ごくたまに遊びに言ったりもしますが。
神としての役割は既に失っておりますからね、旅行客のようなものです。
わたしも幾度か現界したことがありますわ」
「なるほど、だからですかね。
アフロディーティ様は接しやすいというか…」
「うふふ、これでも昔はブイブイ言わせてましたのよぉ…!」
ひゅんひゅん。
その素振りは怖いからやめてほしい。
「では」
気づくと女神さまは俺から手を離し、彼女との間に大理石のテーブルと椅子が現れる。
「お掛けになって」
…
「あなたの素性を整理しましょう。
まずは、年齢から、おいくつがよろしい?」
向かいに座る、ピンクの縁のメガネをかけた女神さまが、羽ペンを片手にくるくると弄びながら告げる。
「ね、年齢ですか?」
「正確には見た目ですわね。
こちらをどうぞ」
突如鏡が現れ、底に見慣れた自分の顔が映る。
「赤子のころの姿でも、ダンディなおじさまとなった姿でも、熟し練られた姿でも、どの姿でも現界することができます」
「…顔は変えられないんです?」
「ごめんなさい、あなたはその姿と魂で契約を交わされた身、魂は勿論、それを覆う殻も、変えることはできません。
ここで変えられるのはあくまで、その殻がたどった、たどる筈だった年月のみ。
…それに私は、あなたは貴方のままで、十分美しいと思いますわよ」
「さすがは愛の女神さまですね、心底うれしいです、胸が張り裂けそう」
「あら、あなたは神人、人の身であればこんなものではありませんことよ?」
ちょっと怖いことを言われ、身がすくむ。
「畏れられてなんぼの世界に在りましたので、ほほ」
姿は、今のままにしてもらった。
どうやら、歳をとることは無くなり、姿かたちを変えるすべはいずれ自分で見つけるか、それを行える神々か、その眷属に頼むしかないらしい。
「あなたの通力の話になりますが」
女神さまは羊皮紙をめくりながら、さささとペンを走らせる。
「あなたは陶酔と豊穣の神、バッカスの眷属となります。
よって力もそれに準じたものになるでしょう」
ちょっとワクワクする展開だ。
一体どんな力が与えられるのだろう。
「まず、貴方は今後、一切悪酔いをしません」
「ほう」
「酒に酔って身を滅ぼすこともありませんし」
「ほうほう」
「酒宴では望めば誰とでも、最高の友情を築くことができるでしょう」
「死ぬ前に欲しかったですね、その力」
「酒造というくくりでは無類の才能を発揮し、最高の酒造りを約束されます。
まぁ、神の雫には劣りますが、それも努力次第では。
限りなく近いものが作れるようになるかもしれませんわ」
「…酒造りの知識は、教科書程度しかありませんけど…酒販店勤務でしたし」
「あら、では一から学んでみてもよろしいのでは、きっとあなたの役に立ちますわ」
「…なるほど」
「それにほんの少しの狂気も…これはあまり役立つことは無いでしょうが。
…役に立たないことを祈りますわ」
「え、狂気」
「神々のそれは厳しいでしょうが、大抵の狂乱の気には抗えるでしょう」
「…おっと、物騒になってきましたよ」
「…あと、これは…」
「なんです?」
「…左手に、チャーム…魅了の力が宿っておりますわね」
「おお、魅了」
「しかし、なぜ…あ!?
…もしやあの時…」
「あの時?」
「いえ、ふふ。
貴方が目覚められた際、お手が私の胸に触れたもので、恐らくその時に私の神気が流れたのでしょう」
「えッ」
「これも何かの縁です、その力、伴うことを許しましょう」
左手を見て震える。
何かとても大事な瞬間を、失ってしまった気がする。
許すまじ、二日酔い。
「とりあえず、これで以上ですわ」
「…ほとんど酒に関することでしたね、お話を聞く限り、わかってましたけど」
「バッカスの眷属になったからにはお酒とは切っても切り離せぬ身になります。
…身を滅ぼすことは無いとはいえ、無理は決っしてなさらぬように」
「はい、もとは酒にかかわる身でしたので、飲酒運転、だめぜったい、です」
「ええ、その調子で、どうかよき神人になられるように、私も祈っておりますわ」
女神さまに祈りを賜るとは、大変恐れ多い気がするが、ここまでの会話で、少なくともこの女神様は大変接しやすいお方のようだし、ありがたく受け取っておこう。
「俺も、貴方にしっかりと祈りを捧げるようにします。
…あの光に、向かえばいいのでしょうか」
気づけば、青い星「テラ」の方へ、光輪が現れていた。
女神アフロディーティはこちらの様子をみて、うっすらと微笑む。
「俺は、あの星で、生きるというか、なんというか…神様的な何かになるのですよね?」
「ええ、むかいなさい。
そして良き神人とおなりなさい。
我らの子にしてバッカスの眷属、イヌイ」
アフロディーティ様の手が光輪へと差し伸べられる。
「…この星の子らを、良き方へ、導く一助となりなさい」
その言葉を耳にしっかりと残して、視界が白に染め上げられる。
高鳴る胸を抑えつつ、不思議と焼かれる感覚のない光を感じながら、俺は歩みをすすめる。
『どうか、我々のような過ちは起こさぬように』




