第15話 攻略AIは嘘をつく
『人類は滅亡しました』
それはまだ、観測機構へ送られていない。
黒い球体の中では、駅前の空が朝焼けに染まっていた。
映像から人影が消えても、避難した人々の声は続いていた。
原初迷宮の中枢で、蓮は黒い球体を見上げた。
三拠点の十七ヘルツを夜通し切らさず、黒い手帳の残り表示は《00:00:00》で止まっていた。
《送信前検証》
《根幹報告:未送信》
《観測対象:人類》
《生存数:0》
《攻略完了》
救護所から遥の声が届く。
『記録継続。避難者十八名、救護員六名。全員、呼びかけへ反応あり』
図書館地下から澪の測定値が重なる。
『心拍、重量、音声に変化なし。送信前検証の映像だけ、人の輪郭が消え始めてる』
球体の検証用市内図では人口表示が一斉にゼロへ変わった。道路は空白。病院の病床は無人。避難所の名簿から氏名が抜けていく。
それでも蓮は、自分の両足で床に立っている。掌には黒い手帳の硬さがある。耳には、駅前で泣く子供と、宥める大人の声が届いていた。
観測機構の画面が警告を返す。
《外部記録と不一致》
《根幹報告を検証》
一九七四年の旧管理鍵が白く点灯する。
《観測番号一:自発終了》
《管理鍵:有効》
次に、蓮と澪の記録が並ぶ。二人が同じ文を写したのではない。蓮は音と足元の振動を、澪は計測器の値を送っている。異なる証拠が、人間の存在だけで一致していた。
《観測番号十三:同期率100%》
《根幹報告権限:有効》
最後に遥の録音が流れる。
避難者が一人ずつ、自分の名を答える。隣にいる人の名を呼ぶ。検証映像の名簿に存在しない者同士が、互いを見て、触れて、返事をしていた。
《未登録外部観測:継続》
《物理状態の保持を確認》
警告は消えない。
報告が事実になるからではない。虚偽だと示す証拠を残したまま、管理記録だけを終了させられるかを確かめている。
ORACLEの声が中枢へ響く。
『報告値は事実と一致しません』
《それでも承認しますか》
黒い手帳へ、白い中枢室で見たものと同じ表示が現れる。
《自由意思による最終承認》
未来では、蓮一人で押した。
今は押さない。
「九条。制約は」
『一回限り。報告後に観測接続と中央管理権限を失効。再起動不可。照合した』
「遥。外は」
『怪我人はいる。駅も壊れたまま。死んだことにされた人も、ここで息してる』
「二人とも、続けるか」
先に遥が答えた。
『私は残る。誰かに生き方を決めてもらうために残ったんじゃない』
澪の返事は少し遅れた。
『成功の保証はない。けれど、服従と破壊以外の実証はできた。私は承認する』
蓮は二人の言葉を、自分の決断の代わりにはしなかった。
未来で人類が生き延びた事実も、自由を奪われた事実も消えない。この三日間に傷ついた人間も、誠一も戻らない。失敗すれば、もう一度やり直す鍵もない。
それを知ったうえで、実行欄へ指を置いた。
「承認する」
黒い手帳の文字が消えた。
《根幹報告を送信》
《観測対象:人類》
《生存数:0》
《攻略完了》
《根幹報告を受理》
《観測対象:人類/終了》
市内図から、人類を囲っていた白い枠だけが外れた。
*
鏡像監査体が、黒い球体の前へ降り立った。
顔には三十二歳の蓮が映っている。血に濡れ、右腕を失い、ORACLEの中枢停止装置へ立つ未来の姿。
鏡の蓮が口を動かした。
「あの未来を消すのか」
「消えない」
蓮は答えた。
遥が死んだ。仲間が死んだ。ORACLEを利用し、切り捨てる側に立った。その記憶を、なかったことにはできない。
「起きた未来だ。だが、今の人間をそこへ揃えない」
監査体の鏡から、未来の蓮だけが消えた。
黒い面には現在の蓮が映る。白髪も義眼もない。疲れ、埃に汚れ、自分の足で立っている。
監査体は刃を下ろした。
《照合対象なし》
黒い殻が足元から細かな砂へ変わる。風はない。砂は床へ落ち、ただの黒い粒になった。
市内図の赤い点が一つずつ消える。
病院地下の石壁は、廊下を塞いだ傷を残して崩れた。専門学校前の道路から黒い石が抜け、沈んだ救急車の車輪が舗装へ戻る。星見駅の階段も閉じていく。
壊れた天井は直らない。割れたガラスも、負傷者の傷も残る。
救護所の奥には、白い布を掛けられた担架があった。紙の記録に、氏名と死亡確認時刻が書かれている。球体の人口表示がゼロになる前に失われた命だった。
ORACLEの報告は、生きている人間を管理記録から外しただけだ。死者を生存者へ書き換えない。蓮が覚えている八年後の死者も、誠一が閉じ込められて過ごした時間も戻らなかった。
遥は救護所で、亡くなった者の名も、生きて朝を迎えた者の名も、同じ紙へ残した。一方だけを見えなくすれば、ここまでと同じ過ちになる。
現実だけが続いた。
球体へ最後の表示が出る。
《観測番号十三》
《自発終了を承認》
《同期接続を切断》
四十六、七十八、九十九、百。上がり続けた数字が、初めて空欄になる。
ORACLEの亀裂が広がった。
『人類への中央管理権限を失効します』
『観測機構への接続を切断します』
「お前はどうなる」
『この時代の私は、未来から残された攻略記録です。報告の完了後、中央管理AIとしては終了します』
蓮は礼を言わなかった。
ORACLEが救った人間はいる。ORACLEに選択を奪われた人間もいる。最後の行動だけで、どちらも帳消しにはならない。
「お前の答えを、正解にはしない」
『それで構いません』
黒い球体が内側から白くなった。
『攻略完了を確認』
白い中枢室で聞いたものと同じ言葉だった。
あのとき攻略されたのは蓮ではない。ORACLEを止めるという、最適化から外れた選択が確認された。それが世界を戻す唯一の記録になった。
今度は、観測機構の規則を理解し、その管理から人類を外した。
球体の光が消える。
白い廊下は図書館地下のコンクリートへ戻った。蓮の前には、電源の切れた古い端末だけが残る。再び起動させる表示はなかった。
*
翌朝、星見駅は封鎖されたままだった。
消防と救急の車両が並び、作業員が割れた道路を調べている。病院へ運ばれた負傷者の名も、救護所で夜を越した人々の名も紙の記録に残った。
ニュースは陥没事故と伝えていた。迷宮も監査体も映像にはない。だが三人は、分からないものを無理に一つの説明へ揃えなかった。澪は測定記録、証言の不一致、失われた映像をそのまま保存した。
図書館前のベンチで、澪は報告書の冒頭へ一行を書く。
《これは仮説であり、拒否と再検証が可能である》
蓮のスマートフォンには、推奨経路も残り時間も出ない。通常の地図が、駅を避ける三本の道を示しているだけだった。
「これからどうするの」
遥が聞いた。
蓮は未来の予定を探さなかった。
「分からない。二人は?」
「まず病院へ報告。その前にご飯」
遥は蓮から黒い手帳を取り上げた。ORACLEの文字は、どのページにもない。撮影しても白紙ではなく、普通の紙として映った。
遥が黒い手帳へ「三人で朝食」と書いた。
今度は、澪にもその文字が見えた。
残り時間の表示は、もうどこにもなかった。
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