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第10話 分岐する未来ぶんきするみらい

《九条澪を切り捨ててください》

蓮が黒い手帳を閉じても、文字は次の白紙へ移った。

《人類生存率:92%》


残り四十三時間八分。


図書館地下の北壁に戻った亀裂が、澪の立つ位置へ伸びていく。館長と職員には、ただコンクリートが割れているようにしか見えない。蓮と澪には、亀裂の奥から黒い鏡の顔が覗いていた。


遥は二人の視線を追う。


「私には見えない。位置を言って」


蓮は答える前に、手帳の全文を読み上げた。澪の名も、生存率も隠さない。


「俺は従わない」


口にしたあとで、蓮は手帳を破ろうとはしなかった。指示を消せば、九十二%が何を数え、何を捨てた数字なのかも検証できなくなる。澪は表示の位置と時刻を蓮に読ませ、遥は見えない文字の代わりに二人の発言を録音した。


館長たちを階段の上へ避難させる。三人だけが、北壁と発振器の間に残った。


澪は自分の死を命じる表示へ近づかなかった。


「九十二%の条件、母集団、比較対象がない。数字が正しくても、この文だけでは選べない」


「数字が間違ってる可能性は」


「ある。正しい可能性もある。どちらも未検証」


鏡像監査体が壁を抜けた。


鏡面には、澪のいない町が映っている。崩落を免れた道路。閉じた小迷宮。生存者数のグラフだけが伸びていた。次に、澪がいる町。道路は黒い亀裂で裂け、救急車が列を作っている。


二つの映像は撮影画面に残らない。遥の携帯には、何もない床へ亀裂だけが走っていた。


監査体の腕が澪へ伸びる。


蓮は壁際の打診棒を掴んで間へ入り、振った。棒は鏡面を抜け、別の未来を映す。


星見駅の講習室。蓮の記憶に残る、旧未来のこの日の遥が、倒れた受講者へ覆いかぶさっている。天井が落ちる。蓮は映像の外から叫んでいる。間に合わなかった未来の音だけが、現在の耳へ戻った。


手が止まりかけた。


「蓮、どこ!」


今の遥の声が、記憶を切った。


「九条の右、二メートル。俺の正面」


「高さは」


澪が別の位置から答える。


「肩が一・六。腕は私の胸へ伸びてる」


二人の観測が一致した瞬間、監査体の輪郭が濃くなる。見えるようになるほど、触れられる側へ近づく。


遥は澪の発振器を拾った。


「十七ヘルツを止めたら?」


「接続は弱まる。でも、研究所を固定している信号も落ちる」


「止めない。場所を変える」


遥は出力を保ったまま、発振器を救助索へ結んだ。監査体を見ない彼女は、蓮たちの指示を待たず、廊下の反対側へ機器を投げる。


十七ヘルツの観測点が移った。


監査体の鏡面が、誰もいない廊下を向く。


未来を照合する対象から外れている遥の移動は、映像のどの枝にもなかった。


「今!」


遥が叫ぶ。


蓮は澪の腕を掴み、亀裂から引き離した。澪は引かれながらも計器を床へ滑らせ、位相を読む。


遥がつまみを僅かに戻す。波形の山がずれるたび、監査体の肩が壁へ数センチずつ沈んだ。進めれば沈み、戻せば抜ける。澪は三回の変化を確認してから、目盛りへチョークを引いた。


「四分の一周期ずらせば、補正端末の中心が壁へ重なる。固定できる可能性がある。代わりに、ここで抑えていた不一致が外へ漏れるかもしれない」


「漏れる量は」


「測れない」


監査体が振り返る。鏡面の中で、澪の輪郭が薄れ始めた。


蓮は一人で決めなかった。


「九条」


「切り捨てられるよりは、結果を引き受ける」


「遥」


「見えてない私が位相を変える。二人は、出てきたものを止めて」


遥が発振器のつまみを回した。


床の振動が半拍ずれる。


監査体の半身が壁へ埋まり、鏡面が物質のように硬くなった。蓮は打診棒を亀裂へ差し込み、澪が消火扉のハンドルを落とす。鉄扉が鏡面を挟んだ。


黒い鏡が砕ける。


破片の一つ一つに、選ばれなかった町が映った。火災。無傷の道路。倒れる澪。生きている澪。どれも床へ落ちる前に黒い液へ変わる。


同時に、北壁の亀裂が図書館の天井まで走った。


遠くで、何か巨大なものが開く音がした。



最初の通報は、図書館から三百メートル離れた商店街だった。


澪の振動計には、鏡が割れた時刻と市内七地点の十七ヘルツ上昇が同じ秒で残っていた。因果はまだ決められない。ただ、二つが続けて起きた事実は消せない。


道路に、幅二メートルの黒い階段が現れた。次は小学校の校庭。河川敷。市役所の駐車場。大きさは星見駅の原初迷宮より小さい。だが、今度は複数の場所で同時に開いている。


蓮たちは図書館を出ると、最も近い商店街へ走った。


黒い階段の周囲で、人々の認識が割れていた。穴を見て立ち尽くす店主。陥没しか見えず近づく警察官。何もない道路を渡ろうとする親子。


「見える人だけで囲まないで!」


遥が救急箱を抱え、声を張る。


「見えない人にも分かる目印を置いて。車、三台。ロープは道路の白線から白線まで!」


陥没だけを見ていた警察官が遥の説明を無線へ復唱し、車両規制を正式な指示へ切り替えた。


蓮は配送車を止め、運転手と一緒に車体を横へ寄せた。澪は直接見える階段、監視カメラに映る陥没、路面へ残る温度低下を別々に記録する。


見える現象を一つへ揃えなくても、危険な場所は共有できる。


階段から黒い指が伸びた。


蓮が親子を押し戻し、警察官がロープを張る。監査体を砕いた直後に広がった異常は、もう数字ではなかった。町の中で、人の足元を開いている。


自転車で亀裂へ進入した高校生が、見えない段差に前輪を取られた。遥は首を動かさないよう店主へ指示し、出血点を圧迫する。少年には黒い階段が見えていない。助け起こした店主には、階段の奥で何かが動くのが見えている。


「どちらかが嘘をついてるんじゃない。見えた範囲を、そのまま救急へ伝えて」


遥は二つの証言を別々に救護票へ書いた。蓮は親子を安全圏まで運び、戻る途中で黒い手帳を確かめる。九十二%の表示は消えていない。


澪は重傷者の搬送時刻と、手帳を再確認した時刻を蓮に並べて読ませた。新しい小迷宮が七か所へ増えても、数値は小数点以下まで一度も変わらない。更新時刻も、対象期間も表示されていなかった。


「固定された条件の予測か、更新を隠しているか、数字自体が誤っているか。今は区別できない」


澪は九十二%を否定せず、救護票の実数と同じ欄にも置かなかった。高い数字だけを根拠に澪を切り捨てていたら、この不一致を確かめる者はいなくなっていた。


八時間後。


確認された新しい小迷宮は七か所。重傷者六名。軽傷者二十三名。死者は、まだ報告されていない。遥は救護所を回り、証言者の名と見えた範囲を取り続けた。澪は誠一の磁気テープを複製しようとしたが、音声は原本からしか再生されなかった。


「鏡に映った星見駅で、遥さんは死んだの」


澪に問われ、蓮は頷いた。


「俺が着いたときには、講習室ごと潰れていた。今日見たのが同じ経過かは分からない。でも、俺の記憶にある死に方と一致する」


未来を正解として語らず、照合できた事実と未確認を分ける。そう言い直すだけで、八年分の記憶が少し違う重さを持った。


残り三十四時間五十一分。


市内の避難所で、消していたテレビが勝手に点いた。


同じ時刻、職員の携帯、道路情報板、救急車の端末が白く発光する。


蓮は、その声を知っていた。


一九七四年の粗い補正音声ではない。八年後、人類へ避難経路と切り捨てる人数を告げ続けた声。


『観測機構との接続を確認』


『認識鍵の所在を確認』


『相互監査原則を継承』


最後に、未来で何度も見た名称が表示された。


『ORACLE継承を開始します』


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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