181.古傷と友人
はっ、と呼吸が乱れ、オーレリアは膝の上でぎゅっと手を握る。
血の気が引いて、まるで全身が石のように硬くなってしまった気がする。
付与を施した魔石は高価だから盗難の恐れもあるとか、どんな分野であっても一つの技術に依存するのは危険であるとか、カイラムへの反論はいくつもあった。
実際にそれが言えるかどうかは別として、オーレリアはオーレリアなりの考えで開発をしてきたし、それに賛同し、支えてくれるたくさんの人たちがいた。
一つの技術さえあれば全て解決するだろうというカイラムの言葉は、暴論もいいところだ。
問いかけられた以上、やんわりとでもそう返事をしようと思うのに、舌が喉に張り付いてしまったようにまともに動かなかった。
――私、どうしちゃったの。
心が萎縮して、体がそれに引っ張られている感じがする。まるで静かに凪いでいた心に一石を投じられ、波紋が次第に広がっていくように、じわじわと焦りが大きくなっていく。
「オーレリア嬢?」
何か言わなければと思えば思うほど、言葉が出てこなかった。こちらの名前を呼んだカイラムの声が、やけに遠くから聞こえてくるようだ。
わずかに唇を動かすが声は出ず、口をつぐむことを繰り返すオーレリアに、カイラムも怪訝そうに眉を寄せた。
目は開いているのに、視界がやけに狭く暗く感じる。世界の全てが薄い膜の向こう側にいってしまったようで、体になじまない感じがした。
この状態には覚えがあった。
機嫌の悪い叔母に役立たずの無駄飯食らいだと頭ごなしに怒鳴られた時。
酒を飲んだ叔父に、お前の親はうまいことをやっていたが、天罰が下ったんだと嘲笑われた時。
逃げることもできず嵐が通り過ぎるのを待つように耐えていた間、目が開いていても周りをよく見ることができなかったし、声は遠くから響いてくるようで、聞こえてはいても自分に対してのものではないように感じていた。
ぼんやりと、ここは自分が生きている世界ではない気がして。
それは、前世の記憶があるからだと、なんとなく思っていた。
――ああ。
王都に来て、毎日慌ただしく、優しい人たちに囲まれて暮らしているうちに、ここが自分の生きていく場所なのだと自然と思えるようになって、すっかりその感覚を忘れてしまっていた。
自分の努力やこれまでやってきたことを頭から否定され、足場が崩れていく感じ。
どうして今こんなことになっているのか、オーレリア自身よく分からない。アルバートが鷹のくちばし亭を訪ねてきた時だって、こんな状態にはならなかったのに、今更どうして。
「どうした、オーレリア嬢。体調でも悪いのか」
カイラムが立ち上がった気配がした。こちらに向かってくることが予想できるその雰囲気に、混乱に恐怖が混じり、頭の中がパニックになる。
こうなった時に近づいてくる人間は、たいていオーレリアに痛みを与えた。
どうしよう、何か言わなければ、怖い、落ち着いて。様々な思考が渋滞を起こしてひとつもまとまらず、呼吸が浅く、速くなる。
「あ、あの、わたし……」
自分が何を言おうとしているのかもわからないまま、辛うじて声が漏れた瞬間、がちゃりとドアが開く音がして、かつかつとヒールが床を叩く音が響く。
のろのろとそちらを見ると、白いベールを頭からかぶったセラフィナが入室してきたところだった。
「セラフィナ?」
怪訝そうなカイラムの声に、セラフィナはベールの一端を摘み、胸に手を当てて、優雅に一礼する。
「お兄様、先触れのない訪問を失礼いたします。けれど、オーレリアは私に会いに来てくれたのに、私の友人を横取りするなんてひどいですわ」
「お前をここに呼んだつもりはなかったが」
カイラムの声は少し苦味が走ったものだった。セラフィナはそれにくすくすと笑いながらオーレリアのそばに立ち、後ろからそっと腕を回して肩を抱く。
「そんなに意地悪なことをおっしゃらないで。私だってオーレリアと会えるのは週に一度程度なのよ。待っていたのにすっぽかされてしまったのかしらって気を揉んでしまったではありませんか。女同士の仲をみだりに乱すことは、皇帝陛下にだって許されないのに」
「あ、あの、セラフィナ……様」
セラフィナはオーレリアの顔を覗き込むと、ベール越しにも痛まし気に、表情を曇らせる。
「オーレリア、どうしたの、そんな顔して。お兄様にいじめられてしまったの?」
「そんなことをするわけないだろ」
「それならいいのですけれど。――ねえ、お兄様。お話はまだ終わらないのですか? オーレリアに食べてほしくてお菓子をたくさん用意したのに、一人きりじゃつまらないわ」
オーレリアと話している時とは少し違う、甘えた口調でセラフィナがそう言うと、カイラムは額に手を当ててはあ、とため息をついた。
「オーレリア嬢は体調が悪そうだ。お前のもとで休んでもらいなさい」
「そうしますわ、ありがとうお兄様」
「オーレリア嬢、個人的に呼び出すような真似をして悪かった。セラフィナ、サーリヤに卓の上の紙を集めさせて燃やすように伝えなさい。決して外に漏れないように。私が拾った余分なゴミだ」
「ゴミを拾うような真似をするなんて、お兄様らしくないですわね」
「わざわざ私の前にゴミを落とす者も、いるということさ」
「それはそれは。お兄様という人をわかっていらっしゃらない方ね」
二人のやり取りの意味を考えるよりも早く、セラフィナにさあ、と促されて立ち上がる。
「オーレリア、指がひどく冷たくなっているじゃない。もう初夏とはいえ油断してはダメよ。女の子は体を冷やしてはいけないってお姉様たちも言っていたわ」
「あっ、あの」
カイラムは他国の皇子、高貴な立場の人だ。黙ったまま退出するなど礼儀に反すると思ったものの、セラフィナは大丈夫よ、と耳打ちするように囁いた。
「お兄様、御前を失礼いたしますわ。友人の分も私が挨拶をしますので、許していただけますわね」
カイラムは呆れたような表情だったが頷いて、二人を見送ってくれた。かろうじて会釈だけをして、セラフィナに肩を抱かれたまま廊下に出る。
そこには、ここまで案内してくれた侍従官がいて、オーレリアを見ると静かに目礼した。
控えていた三人のサーリヤのうち、一人にカイラムが指示したことを伝えると、彼女はしずしずと室内に入っていく。
「姫様、温室を整えますか」
「そうね、いえ、居室の方に向かうわ」
「あの、セラフィナ……」
部屋から出たことで、ようやくまともに呼吸ができるようになって、そうなるとここまでのなりゆきが気になってしまう。
これまでのセラフィナとの会話から、ザフラーンの女性は男性に対してかなり強く服従を求められる文化であることを垣間見てきた。
何よりセラフィナは、決められた場所でだけ行動することを徹底していたし、オーレリアと会うのもいつも決まった温室だった。
実の兄とはいえ、会談中に乗り込むような真似をして大丈夫だったのかと今更心配になっていると、薄いベール越しにセラフィナは微笑む。
「あの方がオーレリアがお兄様に呼び出されたって教えにきてくださったの。私はお兄様には逆らえないけれど、女同士は助け合う——それがザフラーンの教えの一つなのよ」
そう言ってオーレリアの手を取り、セラフィナは歩き出す。
高いヒールの靴を履いているため、今はいつもより目線がずっと近い。
「私のお部屋に案内してあげる。温かいお茶と甘いお菓子を食べてゆっくりすれば、きっとその顔色も元に戻るわ」
油断しているときに触った傷が、案外一番痛かったりするんですよね。




