180.羨望と、友人の兄
――どうして、こんなことになっているのかしら。
「そう固くならなくて構わない。こちらとは習慣が違うことは私もわかっている。多少のことで礼儀がどうこうと咎めることはないと約束しよう」
鷹揚に言われても簡単に納得することなどできるはずもなく、感謝いたしますとカチコチになりながら辛うじて答える。
運ばれて来たのはセラフィナと会う時に出されるのと同じ、甘いコーヒーだったけれど、今は喉の渇きがなおさら強くなっただけだった。
目の前にいるのは、カイラム・バシャール・ザフラーン。
セラフィナの兄であり、帝国の皇子である。本来ならば対面するどころか、一生言葉を交わす機会すらなかっただろう身分の人だ。
本当に、なんでこんなことになったのか。
現実逃避したい気持ちで、オーレリアは今日、王宮にきたときのことを思い出していた。
* * *
王都は本格的な夏を前に、夏呼びの雨の季節に入っていた。その日も朝からしとしとと雨が降り続けていて、馬車の窓を雨粒が優しく濡らしていた。
「えっ、アリアさん、拠点に引っ越すの?」
ウォーレンの驚いた声に、オーレリアははい、と頷く。
「今は色々と準備をしていて、来週には移ってくることになったんですよ。私も、今から楽しみです」
ウィンハルト家にあるアリアの部屋は広く、レイアウトも凝っている。貴族の屋敷で暮らし慣れているアリアには拠点の部屋では物足りなく感じてしまうのではないかと少し心配していたけれど、当の本人は、そんな不安など気にする様子もなく、うきうきと準備を進めている。
アリアの部屋にあった本は厳選して、拠点の本棚に並べることになり、ジェシカも今から楽しみだと笑っていた。
「そっか……アリアさん、思い切ったね。未婚の貴族の女性が仕事のために家を出るなんて、ほとんど聞いたことないから」
「はい。本人も、自分が先駆者になるだろうって、笑っていました」
女性の社会進出は少しずつ進み、すでに一定の地位に就く女性も現れている。
それでも、家を継ぐにせよ仕事に邁進するにせよ、女性は一度結婚し、子どもを産んだ後で夫の理解のもと社会に出るという風潮は、まだまだ強い。
そんな中で、若く未婚の貴族女性であるアリアが家を出て、商人として身を立てるというのは、相当思い切った選択らしい。
「エレノア様に続く先駆者になるのだと、張り切っていました」
アリアは、今でも十分に頼れるパートナーだ。けれど、これから先は、ますますそうなっていくのだろう。
「いいな。俺も引っ越したい」
その声があまりにしみじみとしていたので、思わずウォーレンの顔を見つめてしまう。
彼は、はっとしたように目を見開き、慌てた表情になった。
「あっ、今のはそうなったら楽しそうだなって思っただけで、深い意味はなくて……。ごめん、今の拠点は女性ばかりなのに、軽率だった」
拠点では時々食べ物やお酒を持ち寄ってささやかなパーティをすることもあるし、それはいつも楽しい時間だった。そうした記憶から、つい思ったことが口から出てしまったのだろう。
そこまで慌てる必要はないと思ったものの、ウォーレンの顔がみるみる赤くなっていくのを見ているうちに、オーレリアも赤面してしまう。
「いえ、分かります。みんなと一緒にいると、とても楽しいですもんね」
「うん。そうだね。よければ、また食べ物とビールを持ち寄って、宴会でもしよう」
「はい、ぜひ」
そんなことを話しているうちに、馬車は王宮に到着し、いつもどおり城門で手続きを済ませて中へ入る。
セラフィナとの面会に毎回ウォーレンを付き合わせてしまうのは申し訳ないと思っていたけれど、オーレリアがセラフィナと会っている間、彼の弟たちが顔を出すこともあり、それなりに良い交流の時間になっているようだった。
控え室に通されて少し待ち迎えの侍従官に従って控室を出る。
セラフィナには定期的に会いに来ているため、このやり取りもすでに慣れたものだ。いつもどおり侍従官の少し後ろを歩きながら通路を進んでいると、ふと、いつもとは道順が違うことに気づく。
「あの、今日は温室ではないんですか?」
そう声をかけると、先導していた侍従官は振り返ることなく、はい、と答えた。
「本日は、別室をご用意しております」
これまで、セラフィナと会う場所は、庭に面した大きな温室であったけれど、初夏を迎え、雨期に入った王都は日に日に蒸し暑さを増している。
そういうこともあるのだろうと納得してしばらく移動すると、立派なドアの前で立ち止まる。
扉の両脇には、護衛なのだろう、褐色の肌にザフラーン風の衣装を身にまとった二人の男性が立っている。そのうちの一人が扉を開くと、侍従官は私はこれでと一礼した。
「お疲れさまでした」
そう声をかけ、中へ足を踏み入れて、ぎくりと足を止めた。
「ようこそ、オーレリア嬢」
そこにいたのは、見慣れた友人ではなかった。
褐色の肌に、腰まで届く黄金の髪。
複雑な青を宿した瞳を持ち、どこか面白がるような笑みを浮かべているセラフィナの兄――カイラムだった。
* * *
「ご無沙汰しております、カイラム殿下」
辛うじてそう答え、淑女らしく礼を執る。
セラフィナからは仰々しい礼儀作法を好まず、対等な友人として振る舞ってほしいと何度も告げられていたので、すっかり油断していた。
「堅苦しい振る舞いは必要ない。君は私の臣下というわけではないからな」
「恐れ入ります」
そう答えたものの、他国の王子を相手にどう振る舞うのが正解なのか、オーレリアにはよく分からない。思えばアイザック王子にも義姉と呼ばれて近しく声をかけてもらっているので、ますますどうすればいいのか参考にならなかった。
「あの、セラフィナ様は」
「後から案内させよう。少しばかり私から君に聞きたいことがあってね。どうぞ座ってくれ」
着席を勧められて、ちらりと後ろのドアを見る。すでにドアはきちんと閉められているが、壁際には数人の女性が控えていた。
ザフラーンではどうか知らないけれど、レイヴェント王国では未婚の男女が密室に二人きりでいることはあまり外聞の良いこととされない。まして婚約者がいるような立場ならなおさらだ。
男女が同室で話をする場合は、扉を少し開けておいたり、侍女や使用人を同席させたりするのが一般的なマナーである。
この様子なら問題なさそうだと、オーレリアは少し肩の力を抜いた。
カイラムとは以前、褒賞を与えると言われた席で顔を合わせて以来である。
基本的にオーレリアはセラフィナと交流するばかりで、彼が普段どのように過ごしているか知らない。
セラフィナの口ぶりでは、妹に甘い兄ではあるようだけれど、セラフィナの靴を直した褒賞として、この大陸ではすでに失伝している【出水】の術式を与えると言い出すような人物でもある。
あの日から、褒賞の件についてはうやむやにし続けてきたけれど、おそらく、その話なのだろう。
「私はこちらの大陸に来てから、いろいろな場所を見て回っていてね。君とセラフィナが知己を得たのも、私が冒険者ギルドに足を運んだ折りのことだろう」
「はい」
西区で偶然セラフィナに会った時も、カイラムが神殿へ行っている間のことだった。
彼がダンジョンに入ってみたいと願い出て、冒険者ギルドが許可を出したという話も聞いている。
おそらく、それ以外にもあっちこっちに足を運びいろいろなものを見ているのだろう。
「先日、北区にも視察に行かせてもらったが、その時面白いものを見つけてね。ちょっとした塔のような建物で、案内人に聞けば新たな浄水施設なのだという」
カイラムはそう言って、資料をテーブルの上に置く。
地区に設置する前提の浄水器の仕様書と計画書で、それに少し動揺した。
浄水装置についてはアウレル商会が意匠権を取り、冒険者ギルド、商業ギルド、そして象牙の塔が協業で研究と設置を続けている。意匠権の登録から五年の独占権はアウレル商会にあるとはいえ、関わる機関が多い分情報の共有もされているけれど、仕様書がおいそれと外部の、それも国外の人間の手に入るようなことはないはずだ。
「飲用に適さない水を、わざわざ飲めるように綺麗にする事業らしい。いずれは王都全域を賄えるほどのものにすると聞いた。ギルドは君のこの案を砂漠で水を見つけたかのように有り難がっている様子だが、正直私には滑稽に見える」
その言葉に、冷たい手で心臓の裏側を撫でられたような、ひやりとしたものが走る。
緊張に身を強張らせているオーレリアに、カイラムは静かに、けれど強い懐疑を滲ませて、言った。
その声は、まるで罪人を咎めるような、非難のこもったものだった。
「あえて巨大な施設を作り、維持管理に多額の金をかけ、水質の確認のために水の魔法使いに巡回させる。なぜそんな回りくどいことをする? 【出水】の術式一つで、この街の喉の渇きは一瞬で癒えるというのにだ」




