藍を染める火花⑤ 〜夜空に咲く記憶〜
令和28年、夏の朝。
蝉の声が、墓地の木々の間から降っていた。
ヨツバは、祖母の車椅子をゆっくりと押していた。
「おばあちゃん、暑くない?」
「暑いわよ」
「じゃあ、もう少し日陰を通ろうか」
「大丈夫。今日はお父さんに会いに来たんだから」
フミコは笑った。
フミコの髪は、ほとんどが白くなっていた。けれど、目だけは昔と変わらない。ヨツバが幼い頃から見てきた、あの優しい目だった。
二人の後ろから、サブキチが歩いてくる。
「母さん、無理するなよ」
「無理なんてしてないわよ。それより、遅れてるけど疲れてない?」
「年だな。車椅子押してるヨツバに追いつけないなんて」
「じゃあ、もう少し運動しなさい」
「91歳の母親に言われるとは思わなかったよ」
ヨツバが笑った。
「お父さん、昔からおばあちゃんには勝てないんだね」
「負けてやってるんだよ。もし勝ったりしたら、あとが怖いからな」
「聞こえてるわよ」
「耳がいいのは何よりで」
三人で笑いながら、墓前に立った。
そこには、太郎の名前が刻まれている。
フミコは墓石を見つめた。
「お父さん」
小さく呼びかける。
「今年も来たわよ」
風が、木々の葉を揺らした。
「もうずいぶん経ったわね」
フミコはしばらく黙っていた。
「今日はね」
そう言って、隣のヨツバを見る。
「あなたの娘の孫が、花火屋さんになったのよ。」
「『花火師』っていうのよ。」
ヨツバが笑う。
「そうだったかしら。」
ヨツバは返事をしなかった。
ただ、墓前に手を合わせた。
蝉の声だけが、夏の空に響いていた。
墓参りを終えた三人は、墓の近くに住む親戚の家に寄った。
縁側には、扇風機が一台。その前に、よく冷えた大きなスイカが置かれていた。
「ほら、ヨツバちゃん。食べな」
「いただきます!」
ヨツバは三角に切られたスイカを手に取った。
シャクッ
「甘い!」
「今年は出来がいいんだよ」
サブキチもスイカをかじった。
「うん。うまい」
フミコは小さな扇子を動かしながら、縁側に座っている。
「こういう夏も、いいわねぇ」
「お店って、昔はもっと忙しかったんでしょ?」
「そうよ。夏は戦場だったんだから」
ヨツバは思い出したように笑った。
「そういえば、おばあちゃんのお父さんの話、前に聞いたの思い出した。」
「お父さんの話?」
「うん」
「どんなこと話したかしら?」
「『お父さんはGHQだった』って話」
サブキチが吹き出した。
「まだそれ言ってるのかよ」
「え?」
「ヨツバ、違うんだよ」
ヨツバはスイカを持ったまま、サブキチを見る。
「何が?」
「太郎じいさんは、GHQなんかじゃない」
「じゃあ何?」
「ALSだ」
「……ALS?」
ヨツバの手が止まった。
フミコは、きょとんとしている。
「そうだったかしら?」
「そうだったんだよ」
サブキチは苦笑した。
「太郎じいさんは、少しずつ身体が動かなくなっていく病気だったんだ」
「身体が?」
「ああ」
サブキチはスイカの種を皿に吐き出した。
「最初は、針を落としたり、箸を持つ手に力が入らなくなったりしたらしい」
ヨツバは黙って聞いていた。
「それから歩くのが遅くなって、やがて立てなくなった。オレが物心着く頃には、車椅子に座って、首を動かすくらいしかできなくなった」
「……」
ヨツバはフミコをチラと見た。
車椅子に座るフミコの姿に、会ったこともない曽祖父の影が重なる。
「じゃあ……」
ヨツバが呟いた。
「おばあちゃんが言ってた『GHQ』って……」
「ALSのことだよ」
「なんで間違えたの?」
フミコは少し恥ずかしそうに笑った。
「子供の頃、病気の名前なんて覚えられなかったのよ」
「それでGHQ?」
「そう」
「全然違うじゃん」
「アルファベットは苦手だったの」
「オレも何回も教えたんだぜ?それでも母さん、その言い間違いだけはずっとなんだよな」
「お父さんて、変なとこマジメだよね。」
「母さんの手にかかれば、NHKもPTAもGHQさ」
サブキチが笑った。
「だって太郎おじいちゃんの写真見たけど、どう見ても日本人だもんね」
ヨツバも笑う。
サブキチとフミコも、同時に笑う。
笑い声が、夏の縁側に広がった。
けれど。
ヨツバは少しだけ考えていた。
祖母にとって「GHQ」は、ただの言い間違いではなかったのではないか?
その言葉の奥には、父親が少しずつ身体を失っていった時間を、記憶の箪笥の中にしまい込んでいたからなのかもしれないと。
「おばあちゃん」
「なあに?」
「おじいちゃん、花火大会に行けたんだよね?」
フミコの笑顔が、少しだけ変わった。
「ええ」
「初めて?」
「……ええ」
「一緒に?」
「一緒に」
フミコは遠くを見るような目をした。
「夏はね、店が忙しくて。お父さんは、ずっと花火大会に行かなかったの」
「でも、最後に行ったんだ」
「そう」
フミコは頷いた。
「私が車椅子を押してね」
「……どんな花火だった?」
フミコは少し考えた。
「金色だった」
「金色?」
「ええ」
フミコは笑った。
「金色の雷みたいな花火」
その言葉を聞いた瞬間、ヨツバの胸に何かが引っかかった。
「雷みたいな音?」
「そうよ」
「山に反響する?」
「そう」
「細かい火花がいっぱい落ちてくる?」
「そう」
「線香花火みたいな?」
「……そうね」
フミコが目を見開く。
「どうして知ってるの?」
ヨツバは笑った。
「おばあちゃん、昔から何度も話してたじゃん」
フミコはしばらくヨツバを見つめていた。
そして、少しだけ笑った。
「そうだったかしら」
「そうだよ」
その声に、サブキチも笑った。
「母さん、本当に昔のことはよく覚えてるんだか、覚えてないんだか分からないな」
「花火のことは覚えてるわよ」
フミコはそう言った。
「一度だけだったから」
夕方。
自宅の呉服店へ帰ると、サブキチは一枚の包みを持ってきた。
「母さん」
「何?」
「これ、着てみてくれないか」
「何よ?」
「開けてみて」
フミコが包みをほどく。
中から現れたのは、古い藍色の浴衣だった。
ヨツバが息を呑む。
「あ……」
小さな花火柄。
少し色褪せている。
けれど、間違いない。
昔、黙って桐箪笥を開けた時に見たのと同じ。
「おばあちゃんの浴衣」
「そう」
フミコの指が、生地をそっと撫でた。
「……懐かしい」
「覚えてる?」
「忘れるわけないでしょう」
フミコは浴衣を胸元に当てた。
「お父さんが、作ってくれたの」
「うん」
「私のために、一枚だけ」
その声は少し震えていた。
ヨツバは浴衣を見つめた。
この一枚は、ただの古い布ではない。
曾祖父の太郎が、幼い娘のために針を動かした時間。
その娘が店を継ぐことを決めた夏。
そして、何十年もの間、桐箪笥の中で眠っていた時間。
全部が、この一枚に残っている。
「でも、なんだか新品みたいだね。」
ヨツバが言った。
「それは、」
サブキチが答えた。
「仕立て直した」
「お父さんが?」
「俺が三代目だからな」
サブキチは照れくさそうに笑った。
「昔の寸法を調べて、できるだけ元の形を残した。生地も、使えるところは全部使った」
そして、浴衣の裾を広げる。
「それから、もう一つ」
そこには、小さな金色の花火が刺繍されていた。
古い藍色の生地の上に、金糸が光っている。
「これ……」
フミコの目が潤んだ。
「花火?」
「ああ」
「どうして?」
「母さんが一番覚えてるのが、金色の花火だったから」
サブキチは笑った。
「一枚だけだったからな。だったら、これからも着られるようにしてやりたかった」
フミコは何も言わなかった。
ただ、金色の刺繍を指先でそっと撫でた。
「……ありがとう」
「母さん」
「何?」
「着たら花火になれると思うよ」
フミコは顔を上げた。
「それ、お父さんが言ってたわ」
「え?」
「この浴衣を初めて渡してくれた時にね」
フミコは笑った。
「『これ着てたら、花火になれるからな』って」
ヨツバも笑った。
「じゃあ、今日は私も言う」
「何を?」
「着たら花火になれるよ、おばあちゃん」
フミコは少し照れたように笑った。
「そう?」
「うん」
「こんなお婆さんになって、浴衣着てもねえ。お父さんが見たら、何て言うかしら」
ヨツバは、少しだけ考えてから答えた。
「きっと、同じこと言うよ」
「なんて?」
「『似合ってる』って」
フミコは浴衣の袖を握った。
「そうね」
その顔は、少女のようだった。
夜。
花火大会の会場。
川の向こうには、二つの山がそびえている。
その間に広がる夜空。
屋台の明かり。
焼きそばの匂い。
子供たちの笑い声。
浴衣姿の人々が行き交っている。
フミコは車椅子に座っていた。
その隣にはサブキチ。
そしてヨツバ。
「始まるよ」
ヨツバが言った。
フミコは空を見上げた。
「……昔と同じね」
「何が?」
「始まる前の、この感じ」
風が止まる。
川面が静かになる。
観客の声が少しずつ小さくなる。
「花火ってね」
フミコが言った。
「見るものだと思うでしょう?」
ヨツバは笑った。
「それ、昔も言ってた」
「そうだった?」
「うん」
「じゃあ続きも覚えてる?」
「聴くものでもある」
「そうなの」
フミコは空を見上げた。
「音が、体の中まで入ってくるのよ」
次の瞬間。
――ドォォォン!
花火が上がった。
空気が震える。
二つの山に音がぶつかり、
――ドォン……ドォン……ドォォン……。
何度も返ってくる。
「……すごい」
ヨツバが呟いた。
夜空に金色の狼煙が昇っていく。
細く。
高く。
暗闇を突き抜けるように。
そして。
一気に開いた。
――パァン!
金色の光が四方へ走る。
大輪の花が夜空いっぱいに広がる。
無数の細かな火花が、線香花火のように枝分かれしながら落ちていく。
金色の雨が、川面へ降り注ぐ。
「……お父さんと見たのも、これだった」
フミコが呟いた。
「うん」
「私、ずっと覚えてたのね」
「うん」
「たった一度だったのに」
「だからだよ」
ヨツバは空を見上げた。
「一度しかなかったから、ずっと覚えてたんじゃないかな」
フミコは、ヨツバを見た。
「この花火ね」
ヨツバが言う。
「私が作ったの」
「……え?」
「おばあちゃんが昔見た花火を、私なりに作った」
フミコは、空を見上げた。
また金色の花が開く。
「花菱さんに弟子入りしたのも、そのためだったんだ」
「おい、花菱さんって……」
「お父さんの友達の、花菱さん」
サブキチが驚いた顔をする。
「お前、あいつのところに行ったのか」
「うん」
「そうだったのか……」
サブキチは夜空を見上げた。
「親子二代で世話になったってわけか」
「そういうこと」
ヨツバが笑う。
フミコは、昔のことを思い出していた。
息子のサブキチが13歳だった頃、花火大会から帰ってきて嬉しそうに話してくれた。
花菱と夏祭りに出かけたこと。
初めて見た、新しい二色の花火。
伝統を壊すのかと問われた職人が、
――壊すんじゃない。
――続けるために、変えるんだ。
そう言っていたこと。
あの少年だった花菱が、今は孫のヨツバに花火を教えている。
変わったものもある。
変わらないものもある。
そのどちらも、夏の夜空の中に残っている。
「おばあちゃん」
「なあに?」
「私ね」
ヨツバは自分のお腹に手を当てた。
「もうすぐ、お母さんになるんだ」
フミコの目が大きく開いた。
「……本当に?」
「うん」
「そう……」
フミコは、ゆっくりと笑った。
「おめでとう」
「ありがとう」
「お父さんにも孫の孫を見せたかったわね」
「うん」
「この浴衣も」
「うん」
「あなたの花火も」
「うん。きっと全部、花火の上から眺めてると思うよ」
ヨツバは祖母の肩に手を置いた。
「おばあちゃん」
「なあに?」
「見てくれてよかった」
「何を?」
「私が初めて作った花火」
ヨツバは、ふっと息を吐く。
「子育て落ち着いたらね、呉服屋を継ごうと思うから。」
「店は気にすることないよ、花火屋さん続けなさいな。」
「おばあちゃんに見せたら、もう花火熱は散っちゃったんだ。それより、おばあちゃんみたいに浴衣を作りたい。」
フミコの目から、涙が一筋こぼれた。
「……ありがとう」
その声は、次の花火の音にかき消されそうだった。
けれど。
ヨツバには、はっきり聞こえた。
「ありがとう、ヨツバ」
しばらくして、花火の間隔が長くなった。
ヨツバがふと、祖母の顔を見る。
フミコは黙って夜空を見ていた。
「でもね」
フミコが言った。
「その日は動けたのよ」
「え?」
「お父さんの指が少しだけ」
フミコは笑った。
「花火に向かって、人差し指だけがね」
ヨツバの胸が熱くなった。
「そっか。」
「きっと、花火の神様のご褒美ね」
「おじいちゃん、なにか言ってた?」
フミコは少し考えてから、答えた。
「『綺麗だ』って」
ヨツバは笑った。
「それだけ?」
「それだけ」
「おじいちゃん、口数少なかったんだね」
「昔からよ」
フミコは空を見上げた。
「でもね」
「うん」
「『来年も来よう』って言ったの」
ヨツバは黙った。
「……来年も?」
「ええ」
「来られたの?」
フミコは、答えなかった。
ただ、金色の刺繍をそっと撫でた。
「私には、あの日の『ああ』が、ずっと残ってるの」
ヨツバはそれ以上聞かなかった。
花火が一発、夜空に上がった。
――ドォォォン。
その音が、山々に反響していく。
フミコは目を閉じた。
父の声を、もう一度聞くように。
最後の花火が上がった。
赤。
青。
緑。
そして。
最後に、金。
色とりどりの光が夜空いっぱいに広がり、その中心から金色の火花が無数に枝分かれしていく。
ヨツバは、その光を見つめていた。
8歳の夏。
幼馴染の黄金崎と見た、七色の花火。
あの日、自分はただ、
――花火ってすごい。
そう思った。
あの小さな感動が、いつの間にか自分をここまで連れてきた。
祖母の記憶を聞き。
花菱のもとで火薬の扱いを学び。
何度も失敗して。
ようやく今日、この花火を作った。
自分が好きだった七色の花火ではない。
祖母が一度だけ父と見た、
金色の花火。
それを、自分の手で空に咲かせた。
フミコは、夜空を見上げていた。
その瞳に、金色の光が映っている。
父・太郎と初めて見た花火。
父が仕立ててくれた、一枚だけの浴衣。
息子のサブキチが、その浴衣を受け継ぎ、仕立て直した今日。
そして。
孫のヨツバが、自分の記憶を受け取って作った花火。
四代の夏が、一つの夜空に重なっていた。
太郎。
フミコ。
サブキチ。
ヨツバ。
そして、これから生まれてくる新しい命。
フミコは、ふと隣のヨツバを見た。
「ねえ、ヨツバ」
「なあに?」
「黄金崎くんとは、仲良くやってるの?」
「え?」
「幼馴染の、あの子」
「ああ」
ヨツバは笑った。
「もう家族なんだから、下の名前の『ソラ』で呼んでよ」
「ソラ?」
「そう」
「そうなの?」
「うん。それに……」
ヨツバは自分の苗字を思い出したように笑う。
「それにアタシももう、『黄金崎』なんだよ?」
フミコは目を丸くした。
「まあ!」
そして、声を上げて笑った。
「そうだったの?」
「そうだよ!」
「知らなかったわ」
「もう、おばあちゃん!」
三人の笑い声が、川辺に響いた。
その向こうで。
最後の一発が上がる。
――ドォォォォン!
二つの山が鳴った。
川が震えた。
金色の花が、夜空いっぱいに咲いた。
無数の火花が、ゆっくりと降りてくる。
フミコは、その光を見つめた。
父が見た花火。
自分が見た花火。
息子が受け継いだ浴衣。
孫が作った花火。
そして、これから生まれてくるひ孫。
一瞬だけ夜空に咲いた光は、やがて消えていく。
けれど。
消えた光は、記憶になる。
記憶は、誰かに語られる。
語られた思い出は、また次の誰かの手に渡っていく。
父から娘へ。
母から息子へ。
祖母から孫へ。
そして、孫から、その次の世代へ。
だからきっと。
来年の夏も。
その次の夏も。
誰かが布を藍に染める。
誰かが反物を裁断する。
誰かが一枚の浴衣を仕立てる。
誰かが、その浴衣を着る。
誰かが火薬を詰める。
誰かが夜空を見上げる。
そしてまた。
どこかの夏の夜に、
大きな花が咲く。
その花は一瞬で消える。
けれど、
誰かの心には、いつまでも残る。
夏は、終わる。
花火も、消える。
それでも、
受け継がれたものは、終わらない。
夜空の向こうで、次の夏が静かに待っている。




