【第二章】③ダイアローグ
ここまで話し終えると、ニノくんは急に黙り込んだ。沈黙がカウンセリングルームを支配した。雨は烈しさを増してきたのだろう、窓を叩く雨音が耳に届く。カウンセリングの時間は残り少ない、もしこれ以上、話したくないのなら続きは次回にしましょうと僕が言い出す前に彼の方から続きを話し始めた。
「トイレから戻ってきた彼女に、直接聞いたんです。『森田さんって、誰?』って、そしたら、彼女は『スマホ、見たの?』って聞き返してきました。『見たんじゃなくて、見えた』と答えると、彼女は『じゃあしょうがないね』って言って、その森田っていう人が彼女の処女を奪った相手だと言いいました」
「彼女は、その中年男性とまだ付き合っていたっていうこと」
「ええ、そういうことでした。メッセージにあった『この間は気持ちよかったよ。来週また会ってくれる』ってどういうことって聞いたら。『あなたの入試の合格発表があった後、森田さんと会ってセックスしたの』っていうんです」
「彼女が平然と言うんで、それは浮気したっていうことだよねと問い詰めると、即座に言い返してきたんです。『悪いんだけど、あなたとのセックスは全然気持ち良くないの。あなたはちゃんといくけど、私はあなたとのセックスでいったことがないの。でも森田さんとのセックスでは何回もいくことができる。だから、したくなった時はいつでも良いよって森田さんがいうんで、そういう時に会ってセックスしてるの』って」
「それ完全に浮気じゃんっていったら、彼女は『浮気なんかじゃない。森田さんは恋人でもなんでもないし、愛情なんかは全くない。単なるセックスをする相手だから。私の好きな人はあなた一人なの』って言い返すんです」
「僕は、それはいやだ。他の男とセックスをしているお前に好きだと言われても、許せることはできないと言ったら、『許すって言ったじゃん』って答えるんです」
「それはお前が他の男に処女を捧げたことを許すってことだけで、他の男とセックスをしているお前を許すってことじゃないよと言い返しました」
「すると、『じゃあ、どうすれば良かったのよ。私が処女だった時、あなたは私に挿入できなかったよね。いつも萎えちゃって、私の手の中や口の中で射精して終わりだったでしょう。でも私が処女を失ってから、普通に挿入できるようなったでしょう。多分、私が森田さんとセックスしなかったら、今でも処女と童貞のままだったにちがいないでしょう』というんです」
「彼女の言っていることの意味が僕にはわかりませんでした。いや、意味が分からないというより、彼女の思考そのものが理解できないって言った方がいいと思います」
「さらにこういうんです。『あなたは私とセックスすると必ず射精するよね。でも私は一度も満足できたことがないの。これは不公平だよね。だから、すでにセックスの相手をしてもらった森田さんに満足させてもらってるの。これは私の責任ではなく、あなたの責任よね』って。まるでバレたときの準備をしていたようにスラスラと答えたんです」
「そんなに森田さんとのセックスは気持ちよいのかって聞いたら、『あなたとは全然比べ物になりません。森田さんは元AV男優だから、女性の扱いも上手いの。前戯も丁寧で長くて気持ち良いし、何よりおちんちんの大きさも比べ物にならない。あなたのは入っているのかどうかも分からないけど、森田さんの奥まで届いて、私の気持ち良いところに何度もあたってくるし』と一気に答えたんです」
ニノくんは、残りの麦茶を一気に飲み干した。
「セックスって、性器を相手に挿入することだけじゃないよね。その前の段階とか、終わったあとでする話とか、そういった部分のことを彼女はどう受け止めているのかな?」という僕の問いに、
「彼女の他の人との性行為に関して詳しく聞くのは、やはり精神的にきついんで聞いていません。ただ挿入に関して彼女が僕を責める、というか僕の責任だというのは、僕のおちんちんのことなんです」
彼はそこまで言うと、話すのを止めた。また沈黙が部屋を支配した。耳に届く雨音は更に激しさを増し、時折雷鳴も聞こえてきた。
「話したくなかったら、話さなくても良いんですよ」と僕がいうと、ニノくんは明らかに迷いの表情を浮かべた。ふと顔を上げ、壁の時計を見た。カウンセリング時間の90分が過ぎているのに彼も気が付いたようだった。
実は90分を過ぎても終わっていないので、和美さんがカウンセリングルームの前まで様子を伺いに来ていたことに僕は気づいていた。でもニノくんの話が佳境に入っていたので、僕はそのまま話を続けさせていた。
ニノくんは顔を上げてこういった。
「すいません、先生。もう時間が過ぎてますよね」
「気になさらないで結構ですよ。今日のカウンセリングの予定はあなたが最後です。ですからお気になさらずに。言い足りないことがあったら、今話してくれても構いませんよ」と僕が告げると、ニノくんは意を決したように話しを再開した。
「中途半端に止めたら、先生も困りますよね。」
「実は僕のおちんちんは極端に小さいんです。幼少時から大きさが変わっていないんです。お風呂で見た父親のおちんちんは、大きくて、皮が剥けていますよね。それが大人になるとおちんちんの形が変わるというのは解ってました。だから小学校の修学旅行のとき、みんなでお風呂に入ったら、陰毛が生えている奴、先端から亀頭が見えている奴とかがいて、早く大人になった奴もいるんだな程度だったんですが、中学校の修学旅行でも僕は小学生のおちんちんのままでした。周りの多くは大人のおちんちんになっているのに、僕のはいつまでも大きくならないし、皮も剥けないし、陰毛も生えてこないんです。ネットで調べたら、日本人の平均の長さは平常時は8センチくらいで、勃起時は12センチから13センチらしいんです」
「でも僕は平常時で4センチしかありません。勃起しても硬くなるだけで、大きさはほとんど変わらないんです。陰毛もほとんど生えていません。いつまでたっても皮を被っているので、お風呂で剥こうとしてもまったく無理で、激痛がするだけでした。調べたら、真正包茎だと分かったんです」
「いつまでも子供のままなので、僕は成長が遅いんだなと思っていたんですが、週に1~2回朝起きたらパンツがぐっしょりと濡れていることがあって、それが夢精だと分かった瞬間に、僕は小さいおちんちんのまま、大人になってしまったと判ったんです」
「そうですか、実際におちんちんが小さいことで医療機関にかかりましたか」
「はい、彼女の母親の知り合いの泌尿器科の先生に診てもらったんですが、特にホルモンなどの影響などでなく、先天性のものなので心配いらないと診断されました。真正包茎の方は手術で直す方法があるから、必要になったら手術しましょうと言われただけでした」
「つまり、そのおちんちんのことを彼女に責められているっていう理解でいいんですね」と僕が言うと、ニノくんは烈しく首を振った。
「いえ違うんです。彼女は今もこう言うんです。『このおちんちんは、あなたとの子ども作るための大切なもの。だからこのままで良いの。セックスの気持ちよさを与えてくれるおちんちんは他にいるから、あなたがそれを認めてくれれば何の問題もないわけでしょう』って」
相変わらず僕は彼女の理屈を理解できなかった。このときもニノくんの心情に強く共感した。だからこそ、彼になんと声をかけてあげれば分からなかった。ただ時間は過ぎている。続きは次回に持ち越すしかない。なにより、今回ニノくんから語られた話の振り返りと解析にはある程度の時間が必要だ。
「今日のカウンセリングはここまでにしましょうか。次回はどうしますか」と僕が訪ねると、「7月は下旬に大学のテストがありますから、月末が都合が良いです」
「分かりました。では受付に行って確認してください。たしか7月の最終週は予定通りカウンセリングを実施できるはずです。それで今度は彼女の人となりというか、パーソナルデータについて教えてください。勿論、君の主観で結構ですからね」
ニノくんは分かりましたと簡単に返事をし、再び時間を超過したことを詫びていた。和美さんと時間のカウンセリングの予約を確認した後、片山君やアルバイトの子までお礼をいってオフィスを出て行った。相変わらず性格の良い子だなと思った。
彼が去って、視線を窓に移す。あの激しかった雷雨は去り、嘘みたいな青空が窓外に広がっていた。
「今日は随分と長かったわね」と和美さんが話しかけてきた。てっきりお小言だと思った僕は、まず超過したことを詫びた。しかし和美さんは言ったのはそういう意味ではなかったようだ。
「今日の岡田さん、よく話していたなと思って。井坂先生は聞き手一辺倒だったでしょう」
「うん、そうなんだ。今日のニノくんの話で随分と拝啓は把握できたと思う。あとは分析なんだけど、やはり彼女本人の話も聞かなければと思う」
「つまり、真のクライアントは彼女の方だということだね」と片山君が話しかけてきた。
「ニノくんの精神分析は多分、スムースに行くと思う。無意識の領域や過去の体験の影響なども読み解けると思う。ただ彼女との関係のパターン分析やコミュニケーションに関しては推測の領域からは出ていけないかな。なにせ彼女の思考や理屈には常識から逸脱して部分が大きい。だから、そんな相手とのコミュニケーションの取り方をどうすれば良いのかの具体的にどのように改善していくか、その方法を考えていかなければなあ」と僕がいうと、和美さんは、
「ごめん、何言っているか今いちよく解らない。片山先生は解る?」と振り返った。
「まあ、一応わかる。臨床心理士だし」と答えた片山君は、僕の方を振り返ると、
「僕も手伝うよ。かなり難しいクライアントのようだしね」と言ってくれた。僕は、
「ありがとう。多分、いろいろ助けて貰うことになると思う」と返事した。
自席に戻り、僕はノートを開き、イヤフォンジャックをボイスレコーダーに差し込み、整理を開始した。4時過ぎに和美さんは娘さんのお迎えのために退勤し、アルバイトの子も5時には帰っていった。6時過ぎに片山君が僕のタンブラーにコーヒーを淹れて持って来てくれた。
「忙しそうだね。何か手伝えることがあったら言って」と話しかけてくれたが、正直、この情報整理は僕にしかできない。
「ありがとう。でもこれは僕にしかできないと思うから、君はもうあがってもいいよ」と返事をした。
「わかった。分析が終わったら、すぐに見せて欲しい」と答えると、帰り支度を始めた。
「給湯室の電源はすべて抜いてある。電話もアンサーリングにしてあるから、施錠してセキュリティだけかけてね」と告げて、片山君も帰っていった。
僕はこれまでのニノくんの話を最初から読み返し、時系列にまとめて整理した。今日語られた内容で、話の筋のようなものが見えてきた。8時を過ぎ、作業を終えたとき、これからどのような内容、というか真実がこのノートに「肉付け」されていくのだろうか。愚かにも、このとき僕は核心に触れていっている高揚感のようなものを感じていたのだった。




