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一、少女の決意

 あれは確か、信長伯父上のお城で起きたこと。私がまだ六つか七つくらいの時のこと。私がいつものように妹たちと庭に出て遊んでいると、突然身なりの良い男が現れたの。にやにやとした、猿のような顔の人。


 面白い人だ、と思ったわ。私はこんなによく笑う大人の男の人を見たことがなかったし、何よりその顔と歩き方。ちょっと前のめりで、音も立てずに駆け寄ってくる姿は、まるで猿そのものだったわ。


 私は手に持っていた鞠を落として、その人に近づこうとした。しかし、それを誰かに遮られたの。部屋にいたはずの母上が、私を庇うようにして前に立っていたのよ。


 母上は、いつもの優しい声とは違う厳しい声音で、難しい言葉をいくつも並べて怒鳴っていたわ。男は、やはりにやにやして、謝るように右手を忙しなく動かしていた。でも母上の侍女たちが集まってくると、諦めたように去っていった。


 母上は男の背中が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。そして、私のことを強く抱きしめたの。私には、母上のお考えがよくわからなかったわ。


 結局その後、母上は何も言ってくださらなかった。でも侍女がこっそり教えてくれたわ。あの猿男は羽柴秀吉という名で、父上のお城に攻め入り私の兄上を殺した張本人なのだと。

 姫様も、あの男に近づいてはなりませぬぞ。侍女はそう私に厳しく言いつけた。


 それから、猿は時々私たちの元を訪れたわ。伯父上を訪ねるついでとかなんとか、理由をつけて母上に会いたがっていた。もちろん、母上はそれを拒絶したし、私や妹の初と江も猿を無視するようになった。


 ある日、たまたま母上が岐阜にいらっしゃらなくて、初と江も離れたところにいて、私だけが庭で土に絵を描いて遊んでいたことがあった。隣に誰かが来たと思って見上げたら、そこには猿がいたのよ。私は悲鳴を上げそうになった。


 猿は、何を描いているのかと尋ねた。私は答えなかった。次に、お市の方様は、と尋ねた。母上はいない、とだけ答えた。


 猿は私の目を見た。醜くて、伯父上とは全然違う顔だった。きっと、父上とも違っていたでしょうね。

 ーーお市様に似て美しい姫様にございますな。そう猿がおだてるように言って笑う。これも、無視。私は黙って絵を描き続けた。でも、不思議、何を描いているのか、自分でもわからなくなってしまったの。


 猿の手が、私のどこか、手か頬か頭かに触れようとした。怖かった。気持ちが悪かった。それなのに、なぜだか動けなかった。


 ーー結局、慌ててやって来た侍女が猿を追い払ったことで、猿が私に触れることは叶わなかった。以降、猿が来ることは滅多になくなった。

 けれど、十くらいになった頃、私はようやく猿の訪れる目的を知ったの。


 母上を見る、あの熱い眼差し。楽しげな口調、罵倒すらちっとも苦にしない様子。これが答えだった。やはり、気持ちが悪いと思った。

 あんな人、大嫌い。母からも私たちからも遠ざかって、どこかへ、何なら死んでしまえばいいのに。十四になる頃には、そんなことすら思うようになっていた。


 ――けれど、死んだのは猿ではなかった。天正十年、信長伯父上が突然亡くなってしまったの。本能寺という場所で、明智光秀に殺されてしまったんですって。


 そして、伯父上を殺した光秀を討ったのが、伯父上の家臣である猿だった。おかげで猿は偉くなってしまった。偉くなってすることが何かというと、それはもしかしたらあり得たかもしれない、おぞましい未来。母上への、求婚だったの。


 私たち姉妹は祈り続けた。どうか母上が、猿などの側室になることがありませんように。私たちも、猿の娘になんかなりたくなかったもの。


 祈りが通じたのか、猿の求婚話はきれいさっぱりなくなってくれた。代わりに、母上は重臣の柴田勝家様と結婚することになったわ。猿でなかったのは本当に良かったけれど、勝家様は御年六十一歳。そんな方をいきなり父上だなんて思うのは、なかなか難しかった。


 私たちの新しい生活は、越前(えちぜん)北ノ庄城(きたのしょうじょう)で始まったわ。私は十四で、初は十三、江は十。


 新しい暮らしに馴染むのには時間がかかった。だって、食べるものも、侍女の態度も、暑さ寒さも、岐阜とは全然違ったんですもの。私も初も江も何となくむしゃくしゃして、喧嘩をすることも多かったわ。初は本当は心根の優しい子だし、江だって明るくて気さくなのに、この時ばかりは本当に人が違っていた。まだ二人とも幼かったし、環境の変化が堪えたのでしょうね。


 母上はいつも、私たちのことをわがままばかりだとおっしゃったわ。でも私だって、いつも我慢ばかりしていたんだもの、多少は許していただきたかったわ。不躾な行動をする生意気な侍女は嫌い。度々母上に近づこうとする猿が大嫌い。落城なんて負け犬みたいで気に入らない。可哀そうな姫だなんて思われたくない。いつもそう思っていたの。


 それでも、この頃の私は自分の置かれた状況を受け入れられたし、呑み込めていた。屈辱的ではあったけど、母上や妹たちが一緒にいるから、そこまで辛くはなかった。

 大柄で強面な新しい父、勝家様は見た目に反してお優しい方だった。私たちとどう接するべきか迷っていたようだけど、いつも優しくしてくれたわ。越前は雪が深くて、何だか生まれ育った場所を——小谷城を思い出すようだった。


 大きな勝家様が私を見下ろして笑いかけてくれると、ぼんやりと最初の父上の姿が浮かんだわ。元小谷城城主、浅井長政。これが私の本当の父上。父上もやっぱり背が高くて、ひげが生えていて、優しかったの。

 勝家様——父上と暮らしていると、なんだか私は、失っていたものを取り戻したような気分になれた。ようやく、戦に振り回されない安全な居場所を手に入れたように思えた。


 ――それなのに。猿は、またも私から家族を奪った。


 天下統一のために父上が邪魔だったのかしら。それとも、母上を手に入れようとしたのかしら。猿は雪に埋もれた越前に向かって一気に侵攻してきた。とうとう二月になって、父上も出陣なさることになったのよ。そして父上は、猿に敗れたの。


 まだあんなに幼かった兄上を殺した残酷な男よ。母上に色目を使う気持ち悪い男よ。それなのに、何故神様は彼に追い風を吹かせるのかしらね。


 皆、猿に負けてしまう。負ければ従属か、切腹に追い込まれる。それは父上も同じだった。北ノ庄城へ退いた父上は、私たちに負けを伝えて、腹を切るとおっしゃったわ。

 ほんの一年間、共に暮らしただけの方だったけれど、私にとっては初めての『父』だった。だから愛おしかったし、死んでほしくなかった。


 ――その上、猿が私から奪ったのは、私たち姉妹にずっと寄り添ってくださった方――母上だった。母上は、父上と運命を共にするとおっしゃったの。


 私たちは縋った。死なないでほしい。母上を亡くすくらいなら私たちもお供をと。敗者である柴田勝家の娘たる私たちには、猿の庇護下に下る道しか残されていなかった。母上に懸想していた猿は、喜んで私たちを迎え入れるとわかってはいたけれど、そんな屈辱は耐えられなかったの。


 ずっと我慢してきた涙を、小袖の裾が重たくなるくらいに落とした。母上、私は父上や兄上を、家を失った時だって泣かなかったのよ。猿が気持ち悪い目で母上を見るのは辛かったけど、だからって頬を濡らしたりしなかったわ。私が泣くのは生涯今だけなの。母上がいればどんなことだって悲しくないの。


 でも、私が、初が江が何を言っても母上は曖昧に笑っているだけだった。私たち姉妹をそっと抱き寄せて、ただこれだけおっしゃったのよ。


「たとえ筑前や他の者の庇護下に入ろうと、其方らは浅井の子、この市の子。そのことだけは忘れずに、今は守ってくださるお方に付き従って耐えなさい。表向きはどんなにへりくだっていたっていい。心の中で、揺るがぬ誇りを持ってさえいれば――」


 ・・・私たちは、父と母を置いて北ノ庄のお城を出た。ほんの数人の侍女と姉妹で身を寄せて、生臭い香りに包まれた汚らわしい戦場を進んでいった。響くのは頭を締め付けるような敵兵の鬨の声、草履を引き止めるのは味方の兵の亡骸。

 この香りを、景色を、音も空気も私は知っていた。ああ、五つの秋の日、きっと私が歩いたのもこの道だわ。私のような高貴な姫は踏み入れるはずもない魔境。それを今、頼る者もなく、無力な女子らだけで歩いている。小谷で落城を経験して既に十年、私の十五の儚い夏。


 総大将の陣に入るまでもなく、私たちは猿の家臣と思しき者どもに囲まれて誘導された。汚い、臭い、気持ち悪い、本来私を見ることだって許されない卑しい者が、両親を失った憐れな姫として私を見た。

 ざめざめと泣いている妹たちをよそに、私は無表情を貫いて早足で進んだ。五三の桐が描かれた旗が見えたのは間もなくのことだった。


 醜悪な間抜け面で、にやにやと笑いかけてくる猿。私はそれを見たくない一心ですぐに跪いた。頭を深々と下げて、適当な挨拶を述べる。


 嫌だ、嫌だ。猿なんて嫌いだ。猿は猿らしく、畑でも耕しておけばいい!屈辱を胸に押し込めて、私は平伏していた。猿は、これからは自分がお守りするだの、不自由はさせぬだの、胡散臭い言葉をつらつらと並べた。最後に笑みを崩さぬまま、お市の方様はと尋ねてきた。奇しくもあの日と同じ問いかけだった。


 母上は、武家の妻の誇りをお守りになるのよ。お前のような百姓にはわからないような固い決意をして。もう父上も母上も助けられない。きっともうすぐ、切腹して介錯に首を撥ねられる頃だわ。私は心の中で猿を嘲笑した。


 ――その時、突然賑やかな管弦の音色が聞こえてきた。北ノ庄城の本丸からだ。

 その音を聞いてすべてを悟ったのか、猿はその面に滝のような汗を流して家臣を指図し、城へと向かわせた。

 あれは現世との送別の宴。母上は心変わりなどなさらない。お前の手は届かない。


 私の予感は至極当然的中した。天守閣の内部がちらちらと光り始め、すぐに外へと広がっていく。夕暮れ時、橙に染まる空に炎の色が混じり、目を離せない絶対的な破壊が城に襲い掛かる。


 初も江も、しゃくりあげるようにして泣いた。猿は動揺した様子で床几(しょうぎ)に深く腰掛け、がたがたと手を震わせている。


 ――さようなら、北ノ庄城。さようなら、私の二人目の父上。さようなら、大好きな母上。さようなら、子供だった私。

 ――表向きはどんなにへりくだっていたっていい。心の中で、揺るがぬ誇りを持ってさえいれば――

 母の声が蘇る。ああ、これは遺言というものだったのだ。母上が私たち姉妹に伝えたかった、一番大切なこと。


もう、私は泣かない。世の中の流れを男に任せきりになどしない、この日の本で一番強い女子になってやる。戦にしか能のない男共を跪かせ、頂点に立ってやるんだ。

 美しい着物なんていらない。身勝手な愛なんていらない。私が求めるのは力のみ。誇るべき浅井の血を、母の血を、信長公の血を、一番高い所へ導くんだ。


 そのためなら――私は、どれほど大嫌いなひとのものになったっていい。燃え落ちる城を、二度目の悲しみを、私は胸の深いところに強く刻み付けて、涙の代わりに笑みを戦場に落とした。

以前、高校の部活で書いた歴史小説です。既に書き上げているので、改稿しつつ自分のペースで更新していこうと思っています。

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