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一. 彼女


 (ふすま)をピシャリと閉める。


 そして布団に横になり、目を閉じる。

 いつもより少し熱い体がじんわりと沈んでいく。

 まるで沼にでもゆっくりと沈んでいくようだ。

 その心地よさを感じているうちに眠りに落ちた。

 

 そして夢を見る。




 それは寒い季節。


 私は泣いている。


 私はまだ五つか六つくらい。

 氷のように冷たい板張りの廊下。


 私の目の前には襖戸。


 この襖の向こうには四畳ほどの狭い座敷部屋があることを私は知っている。

 離れにある日当たりの悪い小さな部屋。


 その襖がゆっくりと遠ざかっていく。


「いやああ! ここにいるの! あたしも中にはいるの!」


 私をそこから遠ざけようとするのは中年の女性。


「いけません。さあ、戻りますよ。立ちなさい」


 手を握る女の手が強くなった。

 私はこの女の手にぶら下がり、泣いている。


 この時の私はどうしてもこの小さな座敷部屋に入りたかった。


「いたい! いたい! はなして!」


「大人しくしなさい。あっ! こら!」


 私が痛そうにしたせいか、女は掴んでいた手をゆるめたようだ。

 その隙をつき、私は部屋の前まで走り戻った。

 襖を開ける。



 そして彼の名を叫んだ。 



 その男の子はしばらく前から風邪で寝込んでいる。


 氷の張った池に落ちたと私は聞いた。

 男の子たちで度胸試しをしていたという。

 なんてバカなことをするのだろう。


 その子は氷が割れてびっくりしたと言い、笑った。

 だから私も笑った。


 それから数日後、その子は熱を出した。

 彼はバカだよねと笑ったので、私もバカだねと言って笑った。


 その時の私は、彼はすぐ良くなると思った。

 

 けれど、そうならなかった。


 そのうちに彼は離れにあるこの小さな部屋へいってしまった。

 彼の母も私を置いてそちらへ行ってしまった。


 私はとても心細かった。

 また一人になると思った。

 また置いていかれると思った。


 だからこの小さな部屋に入った。入りたかった。

 部屋に入ると咳き込む男の子に何度も「あっちいけ」と言われた。

 かなしかった。

 寂しかった。

 もう嫌われたと思った。


 大人にも引きずり出されて怒られた。

 それでも私は()りずにその部屋に行った。


 けれどそのうちに男の子は体を起こすこともなくなった。

 咳き込むばかりで言葉を返してくれない。

 こちらを向いてくれない。


「アレはもう長くはあるまい」


 ある日、大人たちがそう話しているのを聞いた。


 そんなわけないと、そう思った。

 それでも彼の声が聞こえないと、言葉が返ってこないと不安になった。

 どうしようもなく悲しくなった。

 寂しくなった。

 怖くなった。


 だから私は毎日その部屋に入った。


 声を聞きたかったのだと思う。

 怒った声でもなんでもよかった。


 もしかしたら今日は話してくれるかもしれない。

 もしかしたら今日は良くなっているかもしれない。

 毎日そう思った。

 だから毎日行った。



 その日もその小さな部屋に飛び込んだ。


 ツンと変な匂いがした。

 少し鼻を突くような、酸っぱいような、甘いような、よく分からない変な匂い。


 狭く、薄暗いその部屋の中央には薄い布団。

 そこにうつぶせで横になっているのは藍染の着物の七つか八つくらいの男の子。


 日当たりの悪いその狭い座敷の中にいるのはその子だけ。


 長さの揃わないぼさぼさの黒髪。

 顔はこちらを向いていない。


 夜着(よぎ)は足元にしかかけられていない。

 着物の袖から伸びる細く白い腕はピクリとも動かない。

 わずかに彼の背が上下する。


 男の子の頭の近くには水の入った木桶。

 横倒しになった湯呑。

 近くには白い手ぬぐいが何枚か。


「あたしがきたよ。おっきして!」 


 私はその男の子の肩と背に両手を当て、揺らした。


 ひやっと湿った木綿の感触。

 そのうちにじんわりと温かくなった。

 

 ぐにゃぐにゃと体が揺れる。

 動いてほしい。

 話してほしい。

 言葉がほしい。


 そう思って揺らした。



 動かない。



 今日も動かなかった。

 私は心細くなった。


「こらっ。いい加減にしなさい。汚いでしょ!」


 あの女が来た。

 私の手を女が握り、持ち上げた。

 そこから私を引きはなそうとした。



「いやああ! いっしょにいるの!」


 私は大声をあげ、なんとかそこに留まろうと足をばたつかせた。


 

 ドンッ



 寝ている男の子の身体に足が強く当たった。


 ぐにゃりとした感触。



「あっ」



 私は何か、とんでもないことをしたと思った。



「……ゲッ、ケホッケホッ」



 男の子がやっと反応を示した。

 肩を大きく揺らし、ひどく咳き込んだ。


 動いた。


 その様子を見て私は少し安心した。


 布団をキュッと掴んだ小さな指先が白く変色する。

 その子は身体を動かし、頭を左右にゆっくりと振っていた。

 顔を布団にこすりつけるように。

 震える肩。少し丸まる背。胸を押さえる小さな手。

 もがいているようにも見えた。


 私は少し動揺した。



 私が蹴ったから。



 でも蹴るつもりなんてなかった。

 そう、足が、足が少し当たっただけ。少しだけ。

 この人が私を引っ張ったから悪い。この人が悪い。

 ただ、そばにいたかっただけ。私は悪くない。



 その時の私は、そう思った。

 そう思うしかなかった。



「ケンッ、カフッ」



 だって、だって、彼も悪いもん。

 凍った池に立てるかな、なんてバカなことするから悪い。 

 なんで男の子たちってそんなバカなことするんだろ。

 バカなことしてるから悪い。


 だから私は悪くない。



 その時の私は、そう思った。

 そう思うしか、どうしようもなかった。



「ケンッゲッゲッゴポ……」



 そのうちに男の子はえづき始め、吐いた。

 薄い唇が震え、そこから細い糸が垂れるのを見た。

 酸っぱい匂い。

 じわじわと布団の色が変わる。



 ちがう、ちがう。私のせいじゃない。



 この人が悪い。私は悪くない。

 この人が引っ張ったから私の足が当たったんだ。

 だからせいて、せいて……。


 あたし、なんにも悪いことしてない!


 その時の私はそう思うほかなかった。




「汚い。……ほら、いきますよ」


 女は私の手を掴み、その部屋から引きずり出すと襖をピシャリと閉めた。

 もう逃がさないぞと言わんばかりに手を強く握られた。



 彼が見えない。



「いやああ!」



 彼が死んじゃうかもしれない。



「いい加減になさい!」



 私のせいで死んじゃうかもしれない。



 彼の姿が見えなくなると怖くなった。

 見えなくなった部屋で、光の入らない暗い部屋で、彼はひとり。

 彼がどうしているのか、何も分からない。



 ごめんなさい、ごめんなさい。


 いっしょにいてごめんなさい。


 わがままいってごめんなさい。


 もう私は一人で大丈夫だから。



――そこで夢は途切れた。




 私はとび起きた。

 その拍子に額に乗っていた手ぬぐいが落ちた。

 襖の隙間から橙色(だいだいいろ)の光が差し込んでいる。

 夕暮れなのだろう。


 隙間から吹き込む風が冷たい。

 もう秋が終わる。


 あんなことがあったなんて忘れていた。

 どうして今さら思い出したのだろう。


 乾いた手ぬぐいを傍らの木桶の中に入れる。

 そして布団から這い出し、膝をつきながら襖を開けた。

 

 もう誰もいない客間に入る。


 座卓の上には、畳の上には花が散らばっていた。

 白、黄、薄紫の野菊。

 あの子が摘んだものかもしれない。 

 風で散らばったのだろう。


 あのあと彼はどうなったのか、私はどうしたのか、よく思い出せない。


 ふと、散らばった花がもう一度目に入る。


 そういえば小さい頃、誰かとお花を摘みに行ったことがあった。


 あたたかくなったら一緒に行こうねと約束した。


 白色の白詰草で作る花かんむり。

 黄色のタンポポの茎を吹くと音が鳴る。

 紫色のさんがい草は甘い。


 そう、教えてもらった。

 彼に教えてもらった。



 私は客間の押し入れから布団をひきずりだし、そこに敷いた。

 来客のための布団。


 私は次はそこにうつぶせになった。


 ふっと縁側から冷たい風が入って花が散らばる。

 汗で湿った木綿が冷たくなった。


 手元に落ちてきた白い野菊をつまみあげ、それを見る。

 見ているうちにゆらゆらと視界が揺れる。

 目が熱くなる。

 

 それがこぼれる前に顔を伏せる。

 



 どうして今、彼はここにいないのだろう。




 そうだ、あたたかくなったらお花をつみにいこう。

 白いお花で花かんむりを作ろう。

 あの子に作ってやろう。

 でもあの子はこんなのいらないって言うかもしれない。

 

 それならお花の茎を吹いてあの子を驚かせてやろう。

 びっくりするかもしれない。


 甘いお花があるんだよって教えてやろう。

 あの子も喜ぶかもしれない。

 

 彼に教えてもらったことをあの子にも伝えよう。

 あの子も喜んでくれたら嬉しいな。




 だから、彼が来たら言おう。


 いっしょにお花をつみにいこう、って。

 


 もう子供じゃないと彼はあきれるかもしれない。

 けれど彼はそう言いながらもいっしょに来てくれるだろう。



 私はあなたといっしょにまた行きたい。


 そう伝えてみよう。


 また私といっしょにいて、って。


 もうどこにも行かないで、って。


 伝わるといいなあ……。


 

 もうすぐあの冬がまた来る。

 

 これからもっと寒くなる。


 だから、


 あたたかくなったら、いっしょにお花をつみにいこう。



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