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境界の地図師  作者: あお
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08.静寂の都、残響の歌

 一歩、踏み出す。

 本来ならば石畳が靴底を叩く音が響くはずのその場所で、エルムが感じたのは、音波が空気に吸い込まれ、霧散していく不気味な感触だった。


「……ここが、静寂の都」


 エルムは自分の声さえも、喉の奥で震える振動としてしか認識できない。色彩を失った視界に、今度は「音」という情報の欠落が加わる。視覚も聴覚も奪われつつある世界で、彼は自分が「個体」としてそこに存在しているのか、それとも景色の一部になりつつあるのか、その境界が曖昧になっていく恐怖に襲われていた。


 シオンはエルムのすぐ隣を歩き、時折、彼の袖を引いて進むべき方向を示す。以前に「痛み」を共有して以来、彼女の指先からは、言葉よりも確かな意思が伝わってきた。


「……警告。この領域の空間圧は、通常の三倍以上に達している。……聖団による『絶対固定』が、ここでは物理的な音波の伝達さえも禁じている。……エルム、あなたの精神的負荷が限界領域クリティカルに近づいている」


 シオンの声は、彼女と繋がっている精神リンクを通じて、直接エルムの意識に響く。それは、この死に絶えた都で唯一、エルムが耳にできる「音」だった。


「大丈夫だよ、シオン。……慣れっこだ。失うことにはね」


 エルムは強がってみせたが、その足取りは重く、白地図を握る指先は白く強張っていた。色彩のない、音のない世界。それは、彼が地図を描き終えた後に訪れる「無」の予行演習のようでもあった。


 1. 記憶の剥離ノイズ

 都の中央、巨大な時計塔がそびえ立つ広場に辿り着いたとき、一行を異変が襲った。

 時計塔の針は「静止」を象徴するように12時を指したまま凍りついていたが、その周囲には、かつてここで暮らしていた人々の「残響」が、灰色の影となって幾重にも重なり合っていた。


「……見て。みんな、笑ってるみたいだ」


 エルムの目には、灰色の影たちが市場で談笑し、子供たちが駆け回る姿が見えた。しかし、音はない。それは、過去の幸福な記憶が、世界の固定レコードに失敗し、逃げ場を失って淀んでいる「情報の墓場」だった。


 影たちに触れようとした瞬間、エルムの脳裏に、彼自身のあずかり知らぬ記憶が奔流となって流れ込んできた。それは、見知らぬ誰かの誕生日の喜びであり、名もなき老人の最期の看取りの瞬間であり、恋人たちが交わした秘密の約束だった。


「う、あぁぁぁ……っ!」


「エルム!」


 白地図が呼応するように激しく明滅し、周囲の灰色の影を無理やり「座標」として吸い込み始めた。


「ダメだ、エルム! それに触れるな!」

 ロキの鋭い警告が、意識の中に割り込む。

「そいつらは、聖団が『永遠』を作る過程で切り捨てた残骸だ。あんたの地図は、そいつらさえも飲み込んで完成しようとしてる。……今これ以上書き込めば、あんたの残りの記憶……『自分自身の名前』さえも、その空虚な都と等価交換されちまうぞ!」


 エルムの意識が遠のいていく。膨大な他人の記憶が、彼の脆弱になった「自己」の境界を押し潰そうとしていた。

(僕は……誰だ?)

(リフェの街で……何をしていた?)

(スープの味は……あぁ、もうわからない。色彩は……あぁ、もう見えない。僕は……僕は……)


 脳裏に、真っ白な空白が広がる。

 アルトリウスが言った「燃えカス」という言葉が、呪いのようにエルムを蝕む。

 世界を救うために自分を削り、その結果、自分が何のために世界を救おうとしていたのかさえ忘れていく。この「静寂の都」は、そんな地図師の末路を鏡のように映し出していた。


 崩れ落ちそうになるエルムを力強く支えたのは、ロキだった。

 彼はエルムの背中を支えながら、凍りついた時計塔を忌々しげに見上げた。その瞳には、いつもの軽薄な光はなく、澱んだ怒りと深い後悔が渦巻いていた。


「……いいか、地図師様。しっかりしろ。あんたがここで消えちまったら、俺が案内してきた旅が台無しだ」


 ロキの声には、隠しきれない焦燥と、古い傷跡を抉るような苦しみが混じっていた。


「……俺も、かつてはこの都の人間だった。変化を恐れ、美しさを永遠に閉じ込めようとした連中の片棒を担いでいたのさ。聖域を造り、シフトを押し留めることが『救済』だと信じていた。だが、完成された『静寂』の中に、救いなんてなかった。そこにあるのは、自分たちが何者であるかさえ忘れた、幸福な死体だけだ。俺は、それを認めたくなくて逃げ出した……卑怯な案内人なんだよ」


 ロキは方位磁盤を地面に叩きつけた。

「あんたは『燃えカス』なんかじゃない。自分の記憶を燃やして、それでも『明日』という不確かな線を引こうとする、世界で唯一の、生きたインクだ。……自分の名前を忘れてもいい。だが、今、そのペンを握っている熱さだけは忘れるな! それこそが、あんたが生きている『境界』なんだ!」


 ロキの叫びが、エルムの冷え切った意識を強く叩いた。

(熱い……。そうだ、僕の指先は、まだ熱い。他人の記憶じゃない、僕が苦しんで、僕が選んだこの『痛み』だけは……僕のものだ)



 その時、シオンがエルムの前に進み出た。

 彼女の胸の奥で、銀の心臓が不規則な、しかし激しい鼓動を刻んでいた。その鼓動は、静寂の都の「静止」を拒絶するように、激しく世界を揺らしている。


「……エルム。あなたは、忘れてもいい。……私が、覚えているから」


 シオンが口を開いた。

 そこから漏れ出したのは、音のないはずのこの都で、初めて響いた「歌」だった。

 それは、かつてエルムが失った「師匠の声」であり、「母が口ずさんでいた旋律」であり、「雨上がりの土が立てる静かな音」であり、彼が旅路で出会った人々の喧騒の欠片だった。


 彼女の中に保存されていたエルムの欠片たちが、銀の心臓のエネルギーを触媒にして、一つの「旋律」として再構成されたのだ。


 音のない都に、エルムの人生そのものが響き渡る。

 歌声が広がるとともに、エルムを侵食していた灰色の影たちは、救われたように淡い光となって霧散していった。白地図の暴走も収まり、少年の瞳に再びかすかな意志が戻る。


「……シオン。君が、僕を歌ってくれているんだね」


 エルムはゆっくりと目を開けた。

 視界は灰色のまま。音も、シオンの歌以外は何も聞こえない。

 けれど、自分の内側にある「空白」が、シオンという存在によって、かけがえのない意味で満たされていくのを感じた。自分自身の名前を思い出すことは難しくなっていたが、「自分を大切に思う誰か」が隣にいるという実感こそが、今の彼にとっての「名前」だった。


「……再確認。エルムの精神状態の安定を検知。私は、あなたの喪失を保存するだけの機械ではない。……私は、あなたの痛みを『歌』に変えて、この世界に響かせるための器だ」


 シオンの瞳に、かすかな、けれど確かな光が宿っていた。それはプログラムされた反応ではなく、彼女の中に芽生えた、名付けようのない感情のの発露だった。


 ロキは、粉々になった方位磁盤を拾い上げることなく、前方の暗闇を指差した。その先には、重厚な「聖域」の門が待ち構えている。


「案内人の仕事も、いよいよ大詰めだ。この静寂を抜けた先に、聖団の本拠地……そして、あんたの旅の終着点である『約束の地』がある。そこで待ってるのは、救済か、それとも破滅か。……見極めさせてもらうぜ、地図師様」


 エルムは、シオンの手を強く握りしめた。

 自分という存在がどれほど薄くなろうとも、その手の中に残る温もりだけは、誰にも「静止」させることはできない。


 三人の影は、音のない都を抜け、最後の境界へと向かって歩み出す。

 背後の時計塔が、一秒だけ、運命を刻むように重く動き始めた。

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