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境界の地図師  作者: あお
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07.境界の共鳴

 執行官アルトリウスとの対峙を経て、一行の旅はアムネ・テラにおいて最も不安定な、空間が幾重にも重なり合う「深層」へと足を踏み入れていた。色彩を失い、モノクロームの視界の中で、エルムは「自分」という存在が希薄になっていく感覚を、かつてないほど強く感じていた。


 湿地帯を覆う灰色の霧は、もはや気象現象ではなかった。それは世界の座標が溶け出し、過去と現在の境界が曖昧になった「情報の澱」だ。エルムは、一歩進むごとに足元の感覚が「記号」へと変わっていくのを感じていた。歩いているという実感、地面の硬さ、それらさえも白地図に座標を刻むための演算ノイズに変換されていく。


「……シオン。僕の右手は、まだそこにあるか?」


 エルムが、色のない視界の中で自分の掌を見つめながら問いかけた。

 シオンは歩みを止めることなく、無機質な、しかしどこか縋るような響きを隠しきれない声で応じた。


「回答。管理者エルムの右腕は、現時刻において物理的な欠損を検知していません。……ただし、あなたの生体信号は、次第に地図師のペン先としての機能に同調し、個体としての『境界』を維持する強度が低下しています」


「境界の強度が低下、か。……アルトリウスの言った通りだ。僕は地図を埋めるたびに、僕自身を白紙に戻しているんだね」


 エルムは自嘲気味に笑った。

 味も匂いも、師の声も、世界の色彩も燃やした。今の彼は、白地図を完成させるための「生きた燃料」に過ぎない。自分の中にある残りのアーカイブをすべて燃やし尽くしたとき、彼は物理的な形すら失い、ただ世界を繋ぎ止める「一本の線」そのものになってしまうのではないか。そんな恐怖が、灰色の霧のように彼を包んでいた。


「おいおい、そんなに急いで『向こう側』へ行こうとするなよ、地図師様」


 案内人のロキが、ひょいと枯れ木の枝を飛び越えて一行の前に出た。彼は手にした方位磁盤を弄びながら、エルムを振り返った。


「あんたの境界が薄れているのは、単なる代価のせいじゃない。……お隣の『お人形様』、あんたの中にある何かが、エルムの魂を呼び寄せてる。……調律体としての鼓動が、始まってるんだろ?」


 シオンの瞳が、青く、そして今までになく激しく明滅した。



 その時だった。

 シオンの胸の奥から、低く、しかし空間を震わせるような重低音が響き始めた。

 それは機械の駆動音でも、呼吸の音でもない。それは「銀の心臓」――アルトリウスが指摘した、世界を再編するための根源的なパーツが、初めてその鼓動を刻んだ音だった。


「……警告。内部システムに定義不能なエラーが発生。記録アーカイブが、外部の座標であるエルムと同調を開始。……離れてください、エルム。私の内部にある『何か』が、あなたの存在を侵食しようとしています」


 シオンが激しくよろめき、膝をついた。

 彼女の銀色の髪が、まるで意志を持つかのように周囲の霧を吸収し、その全身から白金色の微細な光が漏れ出す。


「シオン!」


 エルムが駆け寄ろうとするが、ロキがその肩を強く掴んで引き止めた。


「行くな! 今の彼女はただの記録機じゃない。世界そのものを書き換えるための『特異点』だ。あんたみたいな半分透明になった人間が近づけば、そのまま吸い込まれて、彼女のシステムの一部になっちまうぞ。それが聖団の狙いだ」


「でも、シオンが苦しんでる! 彼女が僕の身代わりになって、失った記憶をずっと守ってくれたから……今度は僕が……!」


「……エルム、さん……」


 シオンが、顔を上げた。

 その瞳は、もはや無機質な水晶ではなかった。

 彼女の中に保存された「エルムがかつて見た鮮やかな景色」「母のスープの温もり」「師の声」――それらすべての「記憶の欠片」が、銀の心臓のエネルギーと結合し、彼女に未知の『心』を擬似的に構築し始めていた。


「私の中に……あなたが、溢れています。あなたが失ったはずの色彩が、音が、味が……私の回路を焼いて、苦しい……。どうして、あなたはこんなにも痛いものを抱えながら、笑っていられたのですか」


 シオンの頬を、無色の雫が伝い落ちた。

 自動人形に涙を流す機能など備わっているはずがない。それは、溢れ出した情報の過負荷が、彼女の器を壊しながら流出している「記録の血」だった。


 エルムはロキの手を振り切り、眩い光に包まれるシオンの前に膝をついた。

 シオンから放たれる光の波動が、エルムの皮膚を削り、彼の存在そのものを薄めていくような激痛が走る。しかし、エルムは逃げなかった。


「……痛かったんだね、シオン。ごめん。僕の代わりに、僕の汚れた部分も、寂しい記憶も、全部一人で背負わせて。アルトリウスは僕を『燃えカス』だと言ったけど、僕を燃やした熱が、君をこんなに苦しめていたなんて」


 エルムは、シオンの冷たい頬を両手で包み込んだ。

 モノクロームの世界の中で、シオンだけが眩い白金色の輝きを放っている。その光に触れた瞬間、エルムの中に、彼がとうの昔に失ったはずの感覚が逆流してきた。


(あぁ……暖かい)


 それは、母のスープの温もりだった。

(うるさいな……でも、優しい)

 それは、師匠の叱咤する声だった。


 シオンの中に保存されていた彼の「欠片」が、彼女の涙と共に、再びエルムの魂へと流れ込む。それは一時的な幻影に過ぎないのかもしれない。だが、その熱量だけは本物だった。


「シオン。僕たちは、地図師と自動人形じゃない。僕が世界を繋ぎ止める線を書き、君が僕の心を預かる。僕たちの『境界』がなくなっても、君がいて、僕がいる。そのこと自体が、この壊れた世界の唯一の真実なんだ」


 エルムの言葉に応えるように、銀の心臓の鼓動が、静かなリズムへと変わっていった。

 荒れ狂っていた光の波動が、穏やかな余韻となって霧の中へと溶けていく。


 ロキは、その光景を黙って見つめていた。

 方位磁盤の針は、もはや北を指してはいなかった。それは、この二人が作り出した新しい「中心」を指して、小刻みに震えていた。


「……ハッ、お熱いねぇ。案内人としては、あんたたちが一つに溶け合って、そのまま世界を再編しちまうのも『収穫』のひとつだと思ったんだが。どうやらあんたたちは、あくまで不器用な『個体』として、この地獄を歩き抜くつもりらしいな」


 ロキの言葉には、皮肉の裏に、深い安堵が隠されていた。彼は、エルムが完全に空っぽになることを、心のどこかで拒んでいたのかもしれない。



 やがて光は収まり、湿地帯には再び、重苦しいモノクロームの静寂が戻ってきた。

 シオンは、自分の手のひらを見つめ、それからエルムを見つめた。


「……管理者エルム。いいえ。エルム」


 彼女の声から、不自然な「個体名」という呼称が消えていた。


「私の内部システムに、不可逆的な変更が加えられました。私はもはや、あなたの客観的な記録機ではありません。私は、あなたと共に『痛み』を共有し、あなたの喪失を悲しむことができる……そんな、出来損ないの命になってしまったようです」


「……いいよ、シオン。それがいい。出来損ないの僕たちだからこそ、描ける地図があるはずだ。アルトリウスたちが望む完璧な静止なんて、僕たちには必要ない」


 エルムは、シオンの手を引いて立ち上がった。

 彼の視界は、依然として灰色のままだ。味覚も、嗅覚も戻ってはいな。

 しかし、シオンに触れているその場所から、かつて失ったはずの「温もり」だけは、確かに感じることができた。


「さあ、行こう、ロキ。僕たちは、まだ何も諦めていない」


 エルムの力強い言葉に、ロキは外套を翻して歩き出した。


「いいぜ。この先の領域は、空間の歪みがさらに酷くなる。あんたたちのその、新しく繋ぎ直した『境界』がどこまで持つか、案内人としてしっかり見届けさせてもらうよ」


 三人の背中が、灰色の霧の中に消えていく。

 シオンの胸の奥で、銀の心臓は静かに、しかし力強く、新しい世界を書き換えるための鼓動を刻み続けていた。

 それは秩序の番人たちが望む「静止」のためではなく、一人の少年の「明日」を守るための、叛逆の鼓動だった。


 一行は、音さえも吸い込まれる忘却の底、静寂の都へと歩みを進める。

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