七十二話 「勘」
夜の営業が終わり、静まり返った『定食屋 つむぎ』の厨房。俺はカウンターに腰掛け冷たい水を喉に流し込みながらじっと自分の手のひらを見つめていた。
ここ最近店が落ち着いてきたこともあってか、この世界にやってきたときから現在にいたるまでをふと振り返ることが多かった。森で魔物に襲われて森を抜けてリィンを助け、王都で小さな屋台から始まり、立派な店舗を構えアイリスやルナ、セリアという最高の従業員に囲まれている。
それは俺がこの世界に降り立ったその瞬間から今日この時まで、俺の命を支えている不思議な「勘」の存在があるからだ。
思い返せば、この世界にきて右も左もわからない状態で放り出されたあの最初の時から、その「勘」は起きていた。見たこともない異世界の原生林でどの草が食べられて、どの魔物が危険なのか、本来なら知るはずもない知識が必要に迫られた瞬間につぶやきみたいな程度に自然と頭の中にフワリと思いうかぶ。
最初は前の世界で読んだ創作物やゲームの知識である「スキル」だったり「能力」ということで持っているものだと思っていた。
しかし結果的には出来すぎているのだ。例えば仕入れのために深い森の中を一人で歩いている時。何が起こるのか分からない静寂の中で脳裏に「右の茂み、距離三十、隠伏中の魔物あり」という特定的な位置情報に近い感覚が閃く。
あるいは崖崩れや強力な魔物のブレスといった、一歩間違えれば確実に命を落としているであろう危機的状況の直前でも閃くことがある。
(これは……ただの勘って言葉じゃ説明がつかないな)
いつかの営業後、片付けをしながら知識が豊富なアイリスにそれとなく世間話を組み立てて聞いてみたことがあった。
「なぁ、アイリス。……例えば普通の人には見えないものがわかったり、危機を事前に観察できたり、不思議な『感覚』を持った人って、聞いたことないか?歴史上の人物でもいいんだが」
俺の抽象的な質問にアイリスは包丁を研ぐ手を止め、知性的な瞳を少し丸めて考えた。
「ごく稀に、ではありますが……神からの恩寵、あるいは世界の理から直接知識を授かったかのような『特殊な能力』を発現させる者が歴史の表舞台に現れることがあるのは確かです。お伽話や、古い王宮の記録に数例だけ残っていると聞いたことがあります」
「その能力って、具体的にどんなものがあるんだ?あ、誰が持っている、とか知ってたりするのか?」
俺が少し身を乗り出して聞いてみると、アイリスは困ったような感じで首を横に振った。
「いえ……それに関する詳細はほとんど不明とされています。どのような能力が、どのような条件で発現するのかの法則はありません。一応能力を持つ者は自らの身を守るため、あるいは他人に利用されないために口外しないのが普通です」
「そうか……やっぱり、謎だらけなんだな」
「でもカケルさん、なぜ突然そんなことを?もしかして……」
「あ、いや!ほら、うちに来る冒険者たちがさ『俺には危機を観察する天才的な勘があるんだ!』って言ってたからさ、本当にそんな奴がいるのかと思っただけだよ」
アイリスの言葉から推測するに、俺の「勘」はこの世界において【ごくまれに与えられる特殊能力】の一種である可能性が最も高い。
以前よくあった流行の異世界ファンタジー小説やゲームのように、頭の中で「ピコーン!」と電子音が鳴って『ステータス画面』が目の前に半透明で表示される、なんて便利な機能はこの世界には一切ない。
「ステータス」とか「評価」と心の中で念じてみても、目の前には薄暗い厨房の風景が見えているだけだし、自分の『レベル』がすごいとか『力:999』だとか、そんな数値化されたデータはどこをどう探しても見当たらない。
これまで自分の能力の名前が何なのか(例えば『危機感知』とか『万能知識』とか『世界の声』とか)その詳細な効果や制限時間、魔力を消費するかどうかなどは一切不明のままだ。
名前についても「勘」と言っているが、なぜそうなったのかは俺にもわからない。最初に気づいたときにそう思っただけであってこれが正式な名前なのかも不明だ。
「本当に、ちょっとしたことではあるんだけどな……」
基本的には俺が危機的状況になる時や「これって何だ?」と疑問に思った時に脳裏に直接「答え」や「警告」が滑り込んでくるだけだ。
しかし、この「ちょっとしたこと」の積み重ねが先々の冒険者生活、そして店主としての生活を助けてくれている。魔物の正確な位置が分かれば無駄な戦闘を避けて効率良く食材だけを仕留めることができる。危険な毒性が先に分かれば準備の段階でお客さんに危険な料理を出てしまうリスクを完全にゼロにできる。
地味ではあるがこれ以上ないほど実用的で、かつ強力な「生命維持のセーフティネット」である。
もしこの「勘」がこの世界に俺を連れてきた何者かがくれた贈り物だというのであれば、俺はとりあえず感謝しなければいけない。
水を飲み干し、俺はカウンターの奥を深く見つめた。
「……まあ、今は店の運営も軌道に乗って、新メニューのカレーもアイリスたちの料理も成功してる。今すぐこの能力の正体を突き止めないと死ぬ、じゃないからな」
今は『定食屋 つむぎ』をきっちり営業し、来てくれる客たちの胃袋を満足させることで手一杯だ。
「よし、難しいことを考えるのはここまでだな。明日も早いし、確認だけして帰るか」
立ち上がり厨房のコンロの火が完全に消えていることを目視で確認する。
店の明かりをすべて落とし、扉を閉めて鍵をかける。
王都の街は怖くはないが深夜の帰り道、闇からかすかな足が聞こえた気がした。しかし「勘」は何も警告を発していない。ただの風の悪戯か、あるいは夜警の足音だろう。こういったときにもかなり役立ってくれる「勘」にはこれからもお世話になるだろう。




