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柱の手形

通報


鏑木俊哉が異変に気づいたのは、朝の七時前だった。

六十歳。大工。日焼けした顔に、使い込んだ手。早起きは職業的な習慣だった。

小渕ため池の展望台に来たのは、特に理由はなかった。

現場に向かう前に、空気を吸いたかっただけだ。

ここ数年、朝の習慣になっていた。

展望台から見る可児市の景色が、鏑木は好きだった。

梅雨の晴れ間。

朝靄が池の水面に漂っている。

鏑木は展望台の手すりに寄りかかって、煙草に火をつけた。

一口吸った。

視界の端に、何かが引っかかった。

展望台の柱。

そこに、ぶら下がっているものがあった。

鏑木は煙草を持ったまま、固まった。


男だった。

首に縄をかけて、柱から吊られていた。

動いていなかった。

鏑木は煙草を足元に落とした。

携帯電話を取り出した。

手が震えていた。

110番を押した。

「もしもし、警察ですか。小渕ダムの展望台で、人が、人が死んどります」


通報から二時間後。

鏑木はラクカのカウンターにいた。

警察の事情聴取を終えて、そのまま来た。

顔色が悪かった。

太田マスターが何も言わずにコーヒーを出した。

鏑木はそれを両手で包んで、黙っていた。

根古は隣に座っていた。

缶コーヒーを飲みながら、特に何も言わなかった。

フェルナンドは二つ離れた席で、静かにコーヒーを飲んでいた。

昨日の今日だった。

まだ可児にいた。


理由は自分でもよくわかっていなかった。

しばらくして、鏑木が口を開いた。

「根古」

「うん」

「ワシ、大丈夫か」

根古は鏑木を見た。

「大丈夫や」

「そうか」

それだけで、鏑木は少し落ち着いたようだった。

長い付き合いなのだろう、とフェルナンドは思った。

根古の一言が、この男には効く。

「身元はわかったんか」鏑木が聞いた。

「まだや」根古は答えた。「でも」

「でも?」

根古は缶コーヒーを置いた。

「自殺やないかもしれん」

鏑木の目が変わった。

「なんでわかる」

「お前が行った場所やろ」根古は静かに言った。「何か見たか」

鏑木はしばらく黙った。

コーヒーカップを両手で包んだまま、何かを思い出すような顔をした。

「柱に」鏑木はゆっくり言った。「手形があった」

根古の目が細くなった。

「手形」

「大工やから、わかる」鏑木は続けた。


「古い手形やない。最近のもんや。しかも」

「しかも」


「一つやなかった。何枚も重なっとった。まるで」鏑木は言葉を選んだ。

「まるで、誰かが必死に掴もうとしたみたいな」

ラクカが静かになった。

太田マスターの手が止まった。

フェルナンドはノートを取り出した。

根古は缶コーヒーを持ったまま、じっと考えていた。

ヤマトが根古の膝から降りた。

そして窓の外を見た。

小渕ダムの方角を、じっと見た。

根古はそれを見た。

「行くか」

誰に言うともなく、呟いた。


では書きます。


小渕ダム展望台

軽自動車は可児市の山側へ向かった。


朝の光が木々の間から差し込んでいた。梅雨の晴れ間は長くは続かない。


根古はそれを知っているように、少し急いでいた。



カーラジオからJAZZが流れていた。


チェット・ベイカーのトランペットだった。

哀愁のある、静かな音だった。


鏑木が後部座席から言った。

「根古、ワシも行くぞ」

「来るな」

「嫌や」

根古はため息をついた。


助手席のフェルナンドは黙っていた。

こういうやり取りに、少し慣れてきていた。

小渕ため池に着いた。


駐車場には警察車両が二台残っていた。

規制線が張られている。

根古は車を降りた。

鏑木とフェルナンドも降りた。

展望台への道を歩いた。


途中で警官が立ち塞がった。


すみません、立入禁止です」

根古は無言で歩き続けた。

「あの、ちょっと」

「榊原に電話しろ」根古は言った。「根古が来たと言え」


警官は困惑した顔で無線を取った。

三十秒後、道が開いた。

フェルナンドは小声で鏑木に言った。

「ああいう感じなんですね、いつも」

鏑木は苦笑いした。


「いつもや」


展望台は静かだった。

遺体はすでに搬送されていた。

しかし柱には、まだ縄の跡が残っていた。


根古はゆっくりと展望台に上がった。

フェルナンドと鏑木は下で待った。

根古は柱の前に立った。


鏑木が言っていた手形が、そこにあった。

柱の表面に、いくつもの手形が重なっていた。

泥と、何か黒いものが混じっていた。

根古はしゃがんだ。

手形をじっと見た。

大きさを確認した。

男の手だった。


しかし所々に、小さな手形も混じっていた。

根古の目が細くなった。

右手を、柱にそっと触れた。

サイコメトリー。

物に残った記憶を読む。

フェルナンドは下から根古を見ていた。


根古は柱に手を触れたまま、動かなかった。

目を閉じていた。


一分。


二分。


三分。


鏑木が小声で言った。

「根古がああなったら、話しかけたらあかん」

「わかりました」フェルナンドは頷いた。


「長い付き合いやけど」鏑木は続けた。「あいつが何者なのか、ワシにも全部はわからん」

「怖くないですか」

鏑木は少し考えた。


「昔はちょっとあった」鏑木は言った。「でも根古はな、人を傷つけるために能力を使わん。それだけはわかる」

フェルナンドは根古を見た。


柱に手を触れたまま、微動だにしない。

風が吹いた。

池の水面が揺れた。

やがて根古が目を開けた。

ゆっくりと立ち上がった。

右手を見た。


何かを確認するように。

それから展望台を降りてきた。

フェルナンドは聞いた。


「何が見えましたか」

根古はしばらく黙っていた。

池を見た。


梅雨の晴れ間の光が、水面に反射していた。

「二人おった」根古は静かに言った。

「二人」


「死んだ男と、もう一人」根古は続けた。「もう一人が、男を吊るした」

鏑木の顔が険しくなった。

「やっぱり他殺か」

「他殺や」根古は言った。「男は最後まで抵抗した。柱を掴んで、必死に」


手形の意味が、わかった。

フェルナンドは息を呑んだ。

「もう一人の人間は」


根古は少し間を置いた。


「顔は見えんかった」根古は続けた。「ただ」


「ただ?」


「手が見えた」根古は自分の右手を見た。「もう一人の手が」

「どんな手でしたか」

根古は池を見たまま言った。

「女の手やった」


鏑木が息を止めた。


フェルナンドもノートを持ったまま、固まった。

風が吹いた。

池の水面が、また静かに揺れた。

「根古」鏑木がゆっくり言った。「死んだ男の身元は」


「まだわからん」根古は言った。「でも」

携帯電話が鳴った。

雨月からだった。

根古は出た。


「うん」「そうか」「名前は」「……どこの人間や」「わかった」

電話を切った。


フェルナンドと鏑木が根古を見た。

根古は池を見たまま言った。

「身元がわかった」

「どこの人間ですか」

根古は静かに言った。

「可児市の人間や」

「地元の人が」フェルナンドは言った。「なぜ殺されたんですか」


根古は答えなかった。

しばらく池を見ていた。

やがて静かに言った。

「柱に残っとったもう一つのもんが気になる」


「もう一つ?」フェルナンドは聞いた。「手形以外に何かありましたか」

根古はジャージのポケットに手を入れた。


「匂いや」根古は言った。「女の匂いやない」

「どんな匂いですか」

根古は少し間を置いた。


「線香の匂いや」

鏑木の顔色が変わった。


「根古」

「うん」

「それ、ワシ知っとるかもしれん」

根古が鏑木を見た。


静かな、しかし鋭い目だった。

「話せ」


鏑木はため息をついた。

池の方を見た。


梅雨の晴れ間が、少しずつ曇り始めていた。

雨が来る気配があった。


「ラクカで話す」鏑木は言った。「太田さんにも聞いてもらいたい」

根古は頷いた。


三人は展望台を後にした。

軽自動車に乗り込んだ。

エンジンをかけた。

チェット・ベイカーのトランペットが、また静かに流れ始めた。

哀愁のある音が、曇り始めた空に溶けていった。


線香の匂い

ラクカに戻ると、太田マスターは何も言わずに四人分のコーヒーを用意した。

根古、鏑木、フェルナンド、そして太田マスター自身の分。

太田マスターがカウンターの前に立ったのは珍しかった。

いつもは奥にいる。


それだけで、この話が普通ではないとわかった。

ヤマトはカウンターの端に座っていた。

緑色の目で、鏑木をじっと見ていた。


鏑木はコーヒーカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。

根古は何も急かさなかった。

コーヒーを飲みながら、ただ待っていた。


フェルナンドはノートを開いた。

やがて鏑木が口を開いた。

「十五年ほど前の話や」


「可児市の外れに、古い寺があった」

鏑木は静かに話し始めた。


「今はもう廃寺になっとるが、当時はまだ住職がおった。年老いた住職でな、弟子が一人いた」

「弟子」根古が言った。


「女の弟子や。三十代やったと思う。住職の遠縁の娘で、寺の雑用をしながら修行しとった」鏑木は続けた。

「真面目な女やった。無口で、愛想はないが、悪い人間やなかった」

「名前は」

「妙円、と名乗っとった。法名や。本名は知らん」


フェルナンドはノートに書いた。


「その女と線香がどう繋がるんですか」鏑木に聞いた。

「その寺の線香は特別やった」鏑木はコーヒーを一口飲んだ。

「住職が自分で調合した線香でな、他では嗅いだことのない匂いやった。甘くて、少し重たい匂いや。一度嗅いだら忘れられん」


「根古さんが展望台で嗅いだ匂いと同じですか」

鏑木は根古を見た。

根古は頷いた。

「同じや」

鏑木はため息をついた。


「その廃寺な、七年前に火事で焼けた。住職も、その火事で亡くなった」

ラクカが静かになった。

「妙円は」根古が聞いた。


「行方知れずになった。火事の後、誰も見とらん」鏑木は続けた。

「火事の原因は不明のままや。失火とも放火とも結論が出んかった」

「疑われたんか、妙円が」


「表立ってはない。でも」鏑木は言葉を選んだ。

「住職と妙円の間に、何かあったという噂が当時あった」


「何かというのは」フェルナンドが聞いた。

鏑木は少し間を置いた。


「住職が妙円に、寺の土地と金を全部残すという遺言を書いたという話や。住職には親族がおった。それを快く思わん連中が」


「揉めたんか」根古が言った。

「揉めた。かなりな」鏑木は続けた。

「結局、火事で全部燃えてしもうて、遺言も証拠も何も残らんかった。

親族が土地を相続した。妙円は何も残らんかった」


太田マスターが静かに言った。

「その親族というのが」

「今回の死んだ男と、繋がっとるんか」フェルナンドは言った。

根古はコーヒーを置いた。


「雨月に確認する」根古は携帯電話を取り出した。

電話した。


短いやり取りの後、切った。


「死んだ男の名前は永田浩二。五十二歳。不動産業や」根古は静かに言った。


「七年前に、可児市外れの土地を相続しとる」


鏑木の顔が険しくなった。

「廃寺の土地や」

「そうや」

誰も喋らなかった。


ヤマトがカウンターから降りた。

そして根古の膝に飛び乗った。

根古はヤマトを撫でながら、静かに言った。

「妙円が戻ってきたんかもしれん」


「七年ぶりに」フェルナンドは言った。

「恨みというのはな」根古は続けた。「長く持つもんや」

太田マスターがコーヒーを淹れ直した。


窓の外では、梅雨の雨が降り始めていた。

静かな雨だった。


しかし何かを予感させる、重たい雨だった。

「根古」鏑木が言った。「妙円を捜すんか」

根古は答えなかった。


しばらくヤマトを撫でていた。

やがて静かに言った。


「捜すんやなくて」根古は窓の外を見た。「見つけてもらうんや」

「どういう意味ですか」フェルナンドが聞いた。


根古はヤマトを見た。

ヤマトが根古を見た。

緑色の目が、細くなった。

根古は小さく頷いた。

「こいつに頼む」

鏑木は苦笑いした。


「猫に頼むんか」

「悪いか」

「悪くはないけどな」鏑木はコーヒーを飲み干した。「根古、お前ほんまに変わらんな」


根古は答えなかった。

コーヒーを一口飲んだ。

雨が少し強くなった。


ラクカの窓を、雨粒が叩き始めた。



ヤマトの道

雨は午後になっても止まなかった。

根古はラクカのカウンターで三本目の缶コーヒーを開けた。

鏑木はいつの間にか帰っていた。現場の仕事があると言って。


フェルナンドは根古の隣で、ノートを見返していた。

ヤマトはカウンターの端で丸まっていた。

眠っているように見えた。


しかし耳だけが、ときおりぴくりと動いた。

太田マスターが根古に言った。

「そろそろやないか」

根古はヤマトを見た。

「まだや」

「そうか」


フェルナンドは二人のやり取りを見た。

「ヤマトが動くタイミング、わかるんですか」

「わかる」根古は答えた。


「どうやって」

「雰囲気や」


それ以上の説明はなかった。


フェルナンドはノートに目を戻した。

三十分後だった。

ヤマトが目を開けた。

伸びをした。


そしてカウンターから降りた。


入口のドアの前に座った。

根古はコーヒーを置いた。

立ち上がった。


「行くぞ」


フェルナンドはノートを閉じた。

太田マスターがヤマトのリードを根古に渡した。

根古はヤマトにリードをつけた。

ヤマトは嫌がらなかった。


「猫にリードをつけるんですか」フェルナンドは言った。

「迷子になったらあかんやろ」

「迷子になるんですか、ヤマトは」

「ならん」根古は言った。「でもつける」

理屈ではなかった。


外に出ると、雨は小降りになっていた。

ヤマトは迷わず歩き始めた。

根古はリードを軽く持って、ヤマトの後をついていった。

フェルナンドはその後ろを歩いた。


傘を差しながら、根古とヤマトの背中を見ていた。

ヨレたTシャツの冴えないオッサンと、黒猫。

それだけ見れば、ただの散歩だった。


しかし二人の歩き方は、迷いがなかった。


ヤマトは住宅街を抜けた。

国道を渡った。


田んぼの脇の細い道に入った。

根古は何も言わなかった。

ただついていった。


フェルナンドも黙ってついていった。

雨が上がり始めた。


雲の切れ間から、夕方の光が差し込んできた。

田んぼの水面が光を反射した。

しばらく歩いた。


山の裾野に差し掛かった。

細い山道に入った。

木々が深くなった。

鳥の声がした。

ヤマトは止まらなかった。


一定のペースで歩き続けた。

根古もフェルナンドも、無言だった。

二十分ほど歩いたころだった。

開けた場所に出た。


かつて何かがあった場所だった。

礎石が残っていた。

焼けた木材の残骸が、草に埋もれている。

石段が残っていた。

苔むした石段が、今は誰も上らない場所に続いていた。

廃寺の跡だった。


フェルナンドは周囲を見回した。

七年前に焼けた寺。

住職が死んだ場所。

妙円が消えた場所。

ヤマトが石段の前で止まった。


座った。


動かなかった。

根古はヤマトを見た。

それから石段の上を見た。

「おるな」

低く、静かな声だった。


フェルナンドは石段の上を見た。

礎石だけが残る、草の生えた平地。

誰もいないように見えた。

しかし根古にはわかるのだろう。


根古はリードを外した。

ヤマトは動かなかった。

根古は石段を上り始めた。


フェルナンドも後に続こうとした。

根古が振り返らずに言った。

「一人で行く」

「でも」

「ここで待っとれ」


フェルナンドは止まった。

根古は石段を上っていった。

ヤマトはフェルナンドの足元に座った。


二人で、根古の背中を見ていた。

根古が石段を上りきった。

草の中に、人影があった。

木の根元に座っていた。

女だった。


五十代前後。黒い服。髪は乱れていた。痩せていた。

目が落ち窪んでいた。


しかし根古を見た目は、鋭かった。

「根古親司」女は言った。

「そうや」根古は答えた。

「来ると思っていた」


「なんでや」


「あなたのような人間が、黙っているはずがない」女は続けた。


「永田が死んだら、必ず動くと思っていた」


根古は女の前に立った。

しゃがんだ。

目線を合わせた。

「妙円か」

女は答えなかった。

しばらく根古を見ていた。

やがて静かに言った。

「七年、待った」


根古は黙って聞いた。


「師匠が死んだあの夜から、ずっと待った」女は続けた。


「証拠は全部燃えた。訴えることもできなかった。でも」

「でも」

「永田があの土地を売ろうとしていた」女の目が細くなった。


「師匠が守り続けた土地を、金に変えようとしていた。それだけは」


「許せんかった」根古が静かに言った。

女は答えなかった。

答えが、答えだった。

根古はしばらく黙っていた。

草が風に揺れた。


夕方の光が、廃寺の跡を照らしていた。

「妙円」根古はゆっくり言った。「お前の気持ちはわかる」

女は根古を見た。


「でも」根古は続けた。「師匠は、お前にこれを望んどったか」

女の目が、揺れた。

初めて、鋭さが消えた。

根古は立ち上がった。


「警察が来る前に、ワシに話せ。全部や」

女はしばらく根古を見ていた。

やがて目を伏せた。


肩が、小さく震えた。

草の中で、女は静かに泣き始めた。


声を出さない泣き方だった。

長い年月を、そこに置いてくるような泣き方だった。

根古は何も言わなかった。


ただ、そこに立っていた。

夕方の光の中で。

廃寺の跡で。

静かに、ただ立っていた。


石段の下で、フェルナンドはヤマトを見た。

ヤマトは前を向いたまま、緑色の目を細めていた。

根古の背中を見ていた。


フェルナンドはノートを開いた。

しかしペンを動かさなかった。


書けなかった。


書くべき言葉が、見つからなかった。

ただ、根古の背中を見ていた。


冴えないオッサンの、しかし今だけは大きく見える背中を。

夕方の光が、廃寺の跡に静かに降り注いでいた。



妙円の告白


根古は草の中に胡座をかいた。

妙円の前に座った。警察が来るまでの時間、根古はただそこにいた。

急かさなかった。妙円が泣き止むのを、静かに待った。

夕方の光が少しずつ傾いていった。やがて妙円は顔を上げた。

目が赤かった。しかし声は静かだった。七年間、誰にも話せなかったことを、今初めて話す人間の声だった。


「師匠と出会ったのは、二十年前です」妙円は草の上に手を置いたまま、話し始めた。

「ワシは身寄りがなかった。親族とも折り合いが悪かった。

行く場所がなかったときに、師匠が拾ってくれた」根古は黙って聞いた。

「師匠は厳しい人やなかった。ただ静かな人やった。

毎朝同じ時間に起きて、同じ時間に線香をあげて、同じ時間に掃除をする。

そういう人やった」「線香は自分で調合しとったんか」根古が聞いた。

「はい」妙円は続けた。「材料を山で集めて、自分で作っていた。

あの匂いはどこにもない匂いです。

師匠だけの匂いや」根古は頷いた。

「師匠が遺言を書いたのは、五年前のことです。

体が弱くなってきた頃でした。

土地と建物と、わずかな金を全部ワシに残すと言ってくれた」


「親族は知っとったんか」「知っていた」妙円の目が細くなった。

「永田浩二は師匠の甥でした。遠縁やけど、唯一の親族やった。

師匠が遺言を書いたと知って、何度も寺に来た。

遺言を撤回させようとした」「師匠は」


「断り続けた」妙円は続けた。

「師匠はあの土地を守りたかった。

開発されることを嫌っていた。


永田はあの土地を売って金にしたかった。

それだけの人間やった」根古は草の上に手を置いた。

聞きながら、何かを感じ取っていた。

「火事の夜のことを話せ」根古は静かに言った。


妙円の肩がわずかに動いた。

「あの夜、永田が来た」妙円は言った。

「遅い時間やった。師匠はもう休んでいた。

永田はワシに、遺言書を出せと言った」

「出さんかったんか」「出せるわけがない」妙円は続けた。


「揉み合いになった。永田はワシを突き飛ばした。

ワシは外に出た。しばらくして、寺から煙が出た」根古は黙っていた。

「走って戻った。でも火の回りが早かった。


師匠を助けられなかった」妙円の声が揺れた。


「永田は闇の中に消えていた。証拠は何もなかった。遺言書も、全部燃えた」

「警察には」「言った。でも永田は最初から寺に来ていないと言い張った。証人もいない。失火と片付けられた」妙円は続けた。


「ワシには何もなかった。土地も、金も、師匠も。

全部なくなった」夕方の光が、さらに傾いた。


廃寺の跡に、長い影が伸びた。

「七年、どこにおったんや」根古が聞いた。

「各地を転々としていた」妙円は答えた。


「師匠に教わった修行を続けながら。生きているのか死んでいるのかわからないような日々やった」

「戻ってきたのは」

「永田があの土地を売るという話を聞いた」妙円の目が再び鋭くなった。


「不動産屋が動き始めたと、昔の知人から連絡が来た。


師匠が守り続けた土地が、マンションになると聞いた」

根古は頷いた。

「それで展望台に呼び出したんか」

妙円は答えなかった。

「どうやって呼び出した」根古は続けた。

「手紙を送った。師匠の遺言書の写しが手元にある、取引をしたいと」妙円は静かに言った。「永田はすぐに来た。金のことになると、必ず動く人間やった」

「展望台で何をした」

妙円はしばらく黙っていた。

草の上に置いた手が、静かに震えていた。

「話し合いのつもりやった」妙円は言った。


「最初は。師匠の遺志を守ってくれと頼むつもりやった」

「でも」

「永田は笑った」妙円の声が低くなった。


「師匠のことを、老いぼれの坊主と言った。


遺言書の写しなど意味がないと言った。そしてワシに、金を払うから消えろと言った」

根古は黙っていた。

「気がついたら、手が動いていた」妙円は続けた


。「縄は、山で拾ったものやった。なぜ持っていたのか、自分でもわからん。ただ、手が動いた」

廃寺の跡に、静けさが戻った。

虫の声だけが聞こえた。

根古はしばらく黙っていた。

やがて静かに言った。

「師匠は」根古は草の上に視線を落とした。「今もここにおるで」

妙円の目が、大きく開いた。

「師匠が」

「おる」根古は続けた。「ずっとここにおった。七年間、ここを離れんかった」

妙円の目から、また涙が溢れた。

「師匠は」妙円は震える声で言った。「怒っていますか」

根古はしばらく黙っていた。

目を閉じた。

何かを感じ取るように。

やがて静かに言った。

「怒っとらん」

「でもワシは」

「怒っとらん」根古は繰り返した。「ただ」根古は目を開けた。


「心配しとる。お前のことを」

妙円は声を上げて泣いた。

七年間、声を上げて泣けなかった人間の泣き方だった。

根古は何も言わなかった。

ただそこにいた。

廃寺の跡に、妙円の泣き声が静かに響いた。

夕方の光が、草の上に柔らかく降り注いでいた。


しばらくして、根古は口を開いた。

「垂井に連絡する」

妙円は泣き止んで、根古を見た。

「弁護士ですか」

「悪い人間やない」根古は言った。「信用できる」

「でもワシは」

「お前がしたことは、消えん」根古は静かに、しかしはっきりと言った。


「それはちゃんと向き合わなあかん」

妙円は目を伏せた。

「でも」根古は続けた。「師匠のことは、ちゃんと話せる人間がおる。


七年前に何があったか、永田が何をしたか。それを聞いてくれる人間がおる」

「今更、信じてもらえますか」

「わからん」根古は言った。「でも黙っとったら何も変わらん」

妙円はしばらく根古を見ていた。

やがて小さく頷いた。

根古は携帯電話を取り出した。

二件、電話した。

一件目は垂井美智子ミーコ。

二件目は雨月だった。

電話を切って、根古は立ち上がった。

妙円を見下ろした。

「立てるか」

妙円はゆっくりと立ち上がった。

よろけた。

根古が腕を掴んだ。

右手ではなく、左手で。

妙円は根古を見た。

根古は前を向いていた。

「歩けるか」

「歩けます」

「ならええ」

根古は妙円を連れて石段を降り始めた。


石段の下で、フェルナンドは二人が降りてくるのを見た。

根古と、女。

女の目が赤かった。

しかし歩き方は、しっかりしていた。

ヤマトが立ち上がった。

女を見た。

女はヤマトを見た。

ヤマトはゆっくりと女に近づいた。

女の足元で、一度だけ鳴いた。

小さな声だった。

しかし静かな山の中に、よく響いた。

女は目を細めた。

「猫又ですね」女は静かに言った。

根古は答えなかった。

それが答えだった。

フェルナンドは根古に近づいた。

小声で聞いた。

「師匠は、まだここにいるんですか」

根古は少し間を置いた。

「もうすぐ行く」根古は静かに言った。「妙円が落ち着いたのを見届けてから」

「行くというのは」

「成仏や」根古は言った。「七年待っとったんや。もうええやろ」

フェルナンドは廃寺の跡を振り返った。

礎石だけが残る、草の平地。

誰もいない。

しかし確かに、何かがそこにある気がした。

温かい、静かな何かが。

遠くでサイレンが聞こえ始めた。

雨月が来る。

根古は妙円に言った。

「来たら、全部話せ。包み隠さず」

妙円は頷いた。

「根古さん」妙円は言った。

「なんや」

「師匠に、伝えてもらえますか」

根古は妙円を見た。

「遅くなってごめんなさいと」妙円は続けた。


「ちゃんと向き合いますと」

根古はしばらく黙っていた。

やがて、廃寺の跡を振り返った。

何かに向かって、小さく頷いた。

それだけだった。

サイレンが近づいてきた。

夕方の光が、山の端に沈み始めていた。

ヤマトが根古の足元に座った。

緑色の目で、空を見上げた。

根古も空を見上げた。

フェルナンドも空を見上げた。

夕暮れの空に、雲が静かに流れていた。

その雲の切れ間に、一瞬だけ、淡い光が見えた気がした。

フェルナンドは目を細めた。

根古は何も言わなかった。

ただ、静かに目を細めた。

それだけだった。


垂井美智子、登場


雨月が廃寺の跡に着いたのは、日が完全に沈む前だった。

山本彩織巡査長も一緒だった。

二人は妙円を見て、根古を見た。

雨月が静かに言った。

「また、たまたまですか」

「たまたまや」

山本は何も言わなかった。

ただ妙円に近づいて、静かに言った。

「寒くないですか」

妙円は首を振った。

山本は自分の上着を妙円の肩にかけた。

それだけだった。

余計なことを言わない女だった。

フェルナンドは山本彩織という人間を、初めてまともに見た。

二十八歳。きりっとした目。しかし今の動作は、職業的なものではなかった。

ただの、人間としての動作だった。

雨月が根古に近づいた。

「状況を教えてください」

「垂井が来てから話す」根古は言った。

「垂井先生が来るんですか」

「呼んだ」

雨月は少し驚いた顔をした。

それだけ根古が本気だということを、雨月はわかっているようだった。


垂井美智子が山道を上がってきたのは、それから二十分後だった。

四十四歳。パンツスーツ。ヒールではなくフラットシューズを履いていた。


山道を歩くことを想定していたのか、それとも普段からそういう人間なのか。

顔立ちは整っている。しかし愛想笑いをしない顔だった。

目が鋭い。

弁護士の目だった。

根古を見て言った。

「呼んだら来ると思ってたか」

「来るやろ、お前は」

「失礼な呼び方やな」垂井は言ったが、怒っていなかった。「状況は」

「自分で見い」

垂井は周囲を見回した。

廃寺の跡。妙円。雨月と山本。

全部を、素早く把握した。

妙円に近づいた。


「垂井美智子といいます。弁護士です」垂井は妙円の前にしゃがんだ。


目線を合わせた。「あなたの話を聞かせてもらえますか。警察に話す前に」

妙円は垂井を見た。

しばらく黙っていた。

やがて言った。

「根古さんが呼んだ人ですか」

「そうです」

「根古さんが信用できると言った人ですか」

「そう言ってくれたなら、そうです」垂井は静かに言った。


「でも最終的に信用するかどうかは、あなたが決めることです」

妙円はしばらく垂井を見ていた。

やがて小さく頷いた。

垂井は立ち上がった。

雨月を見た。

「少し時間をもらえますか。依頼人と話をしたい」

雨月は根古を見た。

根古は缶コーヒーを飲んでいた。

「ええやろ」根古は言った。

雨月は頷いた。

「十五分だけ」

垂井は妙円を連れて、少し離れた場所に移動した。

二人だけで話し始めた。


「垂井さん、すごい人ですね」

「有能や」根古は缶コーヒーを飲んだ。「口は悪いけど」

「根古さんとは長い付き合いですか」

「まあな」

「どういう経緯で」

「昔、ちょっとした話があった」根古は言った。


「ミーコが困っとるときに、たまたま近くにおった」

「たまたま、ですか」

「たまたまや」

フェルナンドは苦笑いした。

この男のたまたまは、全部たまたまではない。

それはもう、わかっていた。


十五分後、垂井が戻ってきた。

雨月の前に立った。

「依頼を受けました」垂井は言った。


「これ以降、妙円さんへの聴取は私を通してください」

雨月は頷いた。

「わかりました」

山本が妙円に近づいた。

「行きましょうか」山本は静かに言った。

妙円は頷いた。

歩き始める前に、廃寺の跡を振り返った。

礎石だけが残る、草の平地。

妙円はそこに向かって、深く頭を下げた。

長い間、頭を下げていた。

やがて顔を上げた。

山本と一緒に、山道を降り始めた。


人が減った。

廃寺の跡には、根古とフェルナンドと垂井だけが残った。

ヤマトが根古の足元に座っていた。

垂井は根古を見た。

「根古さん」

「なんや」

「七年前の火事の話、証明できますか」

根古は少し間を置いた。

「証明はできん」根古は静かに言った。「ただ」

「ただ?」

「物に残っとるもんがある」根古は廃寺の跡を見た。


「焼け残った礎石に、あの夜の記憶が残っとる。それをどう使うかは、お前が考えることや」

垂井は根古を見た。

一秒。

二秒。


「証言として使えませんね、それは」

「わかっとる」

「でも」垂井は続けた。「方向性を決めるヒントにはなる」

「そういうことや」

垂井はため息をついた。

「根古さん、あなたといると」垂井は言った。「常識の外側を歩いとる気がする」

「嫌か」

「嫌やない」垂井は言った。「ただ、疲れる」

根古は缶コーヒーを飲み干した。

空になった缶をジャージのポケットに入れた。

「ミーコ」根古は言った。

「なんですか」

「妙円を、頼む」

垂井は根古を見た。

根古は廃寺の跡を見ていた。

その横顔を見て、垂井は小さく息を吐いた。

「わかりました」垂井は言った。「任せてください」

それだけだった。

垂井は山道を降り始めた。

フラットシューズが、草を踏む音がした。

やがて聞こえなくなった。


廃寺の跡に、根古とフェルナンドとヤマトだけが残った。

夜の空気が降りてきていた。

虫の声が大きくなった。

フェルナンドは根古の横に立った。

しばらく二人で、廃寺の跡を見ていた。

「根古さん」フェルナンドは言った。

「なんや」

「師匠は、行きましたか」

根古は空を見上げた。

星が出始めていた。

「行った」根古は静かに言った。「妙円が頭を下げたとき」

「そうですか」

「七年待っとった」根古は続けた。「やっと行けた」

フェルナンドは空を見上げた。

星が増えていた。

梅雨の晴れ間の夜空だった。

「根古さん」フェルナンドはもう一度言った。

「まだ何かあるか」

「いや」フェルナンドは言った。「何でもないです」

根古は何も言わなかった。

ヤマトが立ち上がった。

山道の方を向いた。

帰る時間だった。

根古はヤマトにリードをつけた。

歩き始めた。

フェルナンドは後をついていった。

山道を降りながら、フェルナンドは思った。

この男と出会ってから、まだ一週間も経っていない。

取材を断られた。

カメラも回せていない。

しかし。

フェルナンドはノートをジャケットの内ポケットに入れた。

これは、記録しなければならない。

カメラでなくていい。

映像でなくていい。

この男が生きている間に、誰かが記録しなければならない。

根古親司という人間を。

山道を降りる足音が、夜の山に響いた。

ヤマトの鈴の音が、静かに鳴った。


ラクカに戻ると、太田マスターがコーヒーを用意していた。

何も言わなかった。

ただ、四人分のカップを並べた。

根古、フェルナンド、そして鏑木が戻っていた。

仕事を終えて、様子を見に来たのだろう。

何も言わずに座っていた。

四人でコーヒーを飲んだ。

JAZZが静かに流れていた。

ビル・エヴァンスのピアノだった。

夜のラクカに、静かな音が満ちていた。

誰も喋らなかった。

それでよかった。

ヤマトがカウンターに上がった。

丸まった。

目を閉じた。

ラクカの夜が、静かに続いた。

















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