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葦の中の声

六月の大阪は、梅雨の湿気が街全体にまとわりついていた。

フェルナンド・村田は、難波の雑居ビル四階にある自分の事務所で、配信用のカメラに向かっていた。

「というわけで皆さん、今月の運勢は以上です。フェルナンドでした、チャオ!」

カメラのランプが消える。

椅子にもたれ、大きく息を吐いた。五十二歳。日系ブラジル人の父と日本人の母を持つ。浅黒い肌、くせのある黒髪、彫りの深い顔立ち。占い師兼YouTuberとして、チャンネル登録者は三十万を超えた。

それなりに当たる。それなりに外れる。

自分の能力については、冷静に把握しているつもりだった。

スマートフォンが鳴った。

画面には「桐島」とある。大阪の霊能者界隈では顔の広い、古い知人だ。

「もしもし」

『フェルナンドか。ちょっと聞いてほしい話があんねんけど』

「なんや急に」

『岐阜に、ちょっと変わった男がおってな』

フェルナンドは缶コーヒーを開けながら、「ほう」と相槌を打った。

『根古親司いうんやけど。霊能者界隈じゃ知らん者おらんくらい有名なんやが、本人は全然表に出てこん』

「名前は聞いたことある。実際どんな人間や」

『それがな』

桐島は少し間を置いた。

『見た目は完全にただのオッサンやねん。ヨレたTシャツで、軽自動車乗り回して、缶コーヒー飲みながらボーッとしてる。無職に近いフリーランスとか言うてる』

「……それのどこが有名な霊能者やねん」

『せやから言うてんねん。でもな、あの男が動いた案件で、解決せんかったものが一件もないらしい。しかも本人は「たまたまや」とか言うて、金もろくに取らん』

フェルナンドは少し姿勢を正した。

十数年この世界にいる。「本物」と呼べる人間に、何人会えたか。片手で足りる。

「なんでワシに言うねん」

『お前、最近YouTubeで「本物の霊能者を探す旅」とかいうシリーズやってたやろ。あれの取材に行ったらどうや思て』

「断られるやろ、そんな人間」

『せやな』桐島は笑った。『でもお前なら面白いもん見れるかもしれんで。根古さんはな、「ワシに頼るな」が口癖なんやけど、なぜか最終的には動いてしまう人間らしいわ』

通話を終えた後、フェルナンドはしばらく窓の外を見ていた。

難波の雑踏。雨の気配を含んだ空。

本物中の本物。

ただのオッサン。

その二つが、どうしても頭の中でうまく繋がらなかった。

翌朝、フェルナンドは名古屋行きの新幹線に乗っていた。

カメラバッグを膝に置いて、岐阜県可児市への乗り換えルートをスマートフォンで確認しながら、ふと思った。

アポも取っていない。

会ってもらえる保証もない。

それでも、なぜか行かなければならない気がした。

二十年の勘が、そう言っていた。

可児市の駅を出ると、思ったより静かな街だった。

名古屋の喧騒とは別の空気。山と川と、古い住宅が混在する、どこか時間の流れが緩やかな場所。

地図アプリを頼りに歩くこと五分ほど。

商店街の外れ、少し引っ込んだところに、それはあった。

喫茶ラクカ

色褪せた木の看板。ガラス越しに見える店内は薄暗く、昭和がそのまま残っている。

手書きのメニューが窓に貼ってある。コーヒ三百五十円。

フェルナンドは少し立ち止まった。

カメラを回すか迷って、やめた。

まず自分の目で見る。それからだ。

扉を押すと、小さなドアベルが鳴った。

コーヒーの香り。古い木の匂い。カウンターが六席、奥にテーブルが三つ。

客は一人だけだった。

カウンターの端。

ヨレた灰色のTシャツ。ジャージのズボン。

うっすらと無精ひげ。髪は少し薄め。コーヒーを片手に、特に何を見るでもなく、ただぼんやりとしている。

隣に黒猫が一匹、丸まって寝ていた。

フェルナンドは思った。

これが……根古親司?

カウンターの奥から、白髪まじりの初老の男が顔を出した。穏やかな目をしている。

「いらっしゃい。お一人ですか」

「あ、はい」

「どうぞどこでも」

フェルナンドは迷わずカウンターに座った。男の隣、一席空けて。


マスターがコーヒーを準備し始める音。

男はこちらを見なかった。コーヒーを一口飲んで、また窓の外をぼんやり眺めている。

黒猫の耳だけが、ぴくりと動いた。


「……根古さん、ですか」

男がちらりとこちらを見た。

値踏みするでもなく。警戒するでもなく。

ただ、見た。

「そうやけど」

低く、乾いた声だった。


「フェルナンド・村田いいます。大阪から来ました。占い師です」

「知っとる」

フェルナンドは少し面食らった。

「知って……ますか」

「YouTubeくらいワシも見る」

そう言って根古は再び窓の外に視線を戻した。それ以上でも以下でもない。

マスターがコーヒーをカウンターに置いた。

「遠くからよく来られましたね」

穏やかな声。太田マスターだろう。フェルナンドは軽く頭を下げた。

「桐島さんから聞きまして」

根古の指がわずかに止まった。缶コーヒーを持ったまま。ほんの一瞬。

「……あのおっさん、また余計なこと言うたんか」

「取材させてもらえませんか。YouTubeで」

「嫌や」

即答だった。

「話だけでも」

「嫌や」

「会いに来ただけでも、もう十分ネタになりますよ」

根古はため息をついた。

コーヒーをカウンターに置いて、初めてフェルナンドの方に体ごと向いた。

目が合った。

フェルナンドは、その瞬間に気づいた。

目が、違う。

外見はたしかに、どこにでもいる冴えないオッサンだ。しかしその目だけが、妙に静かだった。

深い川の底のような、騒がしくない目。

「なんや」

根古が言った。

「ワシの目、見て固まっとるで、お前」

「……すみません」

「ほれ、コーヒー飲み」

根古は自分の

コーヒーをひと口飲んで、また窓の外を向いた。

黒猫がのそりと起き上がり、フェルナンドの方をじっと見た。

緑色の目が、じっとりと据わっている。

猫に品定めされとる。

フェルナンドは苦笑いしながらコーヒーカップを両手で包んだ。

窓の外では、六月の雨が静かに降り始めていた。


雨は少し強くなっていた。

フェルナンドがコーヒーを半分ほど飲んだところで、ドアベルが鳴った。

入ってきたのは若い男だった。二十代後半、濡れた肩。制服ではないが、立ち居振る舞いがどこか職業的だ。

太田マスターが「いらっしゃい」と言う前に、男は根古の隣に滑り込むように座った。

「根古さん」

低い声。押し殺したような緊張がある。

根古は窓の外を向いたまま言った。

「雨月か。顔に出とるぞ」

雨月雅之。警部補、二十八歳。

フェルナンドは黙ってコーヒーカップを持ったまま、気配を消した。

十数年の職業的習慣だった。

雨月はちらりとフェルナンドを見た。

根古が言った。

「気にすんな。で、何や」

雨月は少し躊躇してから、カウンターに肘をついた。

「木曽川で、行方不明者が出ました」

「警察の仕事やろ」

「それが……」雨月は声をさらに低くした。「可児と美濃加茂で揉めてまして」

根古の眉がわずかに動いた。

「管轄か」

「発見場所が境界線上なんです。遺留品は可児側、本人が最後に目撃されたのは美濃加茂側。

どっちが主導で動くかで、上が調整中で」

「その間に現場は」

「……動けてません」

根古はため息をついた。深い、重たいため息だった。

「で、水は」

雨月が一瞬固まった。

「まだ行方不明扱いですが……木曽川の流れ的に、おそらく」

言葉が途切れた。

根古はコーヒーカップを見つめたまま、しばらく黙っていた。

黒猫のヤマトが、のそりと立ち上がった。そして川の方角、窓の外をじっと見た。

フェルナンドはその様子を見ていた。

猫が、川の方を見ている。

「身元は」根古が言った。

「東京の人間です。三十四歳、男性。観光で来たとも、仕事で来たとも取れる。ホテルに荷物は残ってる。でも連絡が取れなくなって四日」

「四日」

「はい」

根古は黙った。

太田マスターが雨月の前に何も言わずコーヒーを置いた。雨月は小さく頭を下げた。

しばらく誰も喋らなかった。

雨の音だけがしていた。

フェルナンドは気づいたら口を開いていた。

「葦の中から声が聞こえるという噂、ご存知ですか」

雨月が振り返った。

根古も、ゆっくりとフェルナンドの方を向いた。

「……お前、それどこで聞いた」

「名古屋に着いてから、ネットで可児市のことを調べてたら出てきました。半年ほど前から、木曽川沿いで声が聞こえるという話が地元の掲示板に」

雨月の顔色が変わった。

「それ、本署では都市伝説扱いで、正式には取り合ってないんですが」

「現場の人間は?」

雨月は少し間を置いた。

「……数人が、聞いてます。実際に」

根古が静かに言った。

「噂やなくなったな」

誰も否定しなかった。

ヤマトがまだ、窓の外を見ていた。


雨月が帰った後、ラクカには静けさが戻った。

雨はまだ続いている。

根古は新しい缶コーヒーを開けた。太田マスターが黙って差し出したやつだ。

フェルナンドはカメラを出すタイミングを完全に見失っていた。それどころではない空気だった。

「根古さん」

太田マスターが静かに言った。

「三人、また川沿いにおったで。昨日の夕方」

根古の手が止まった。

「見たんか」

「犬の散歩しとる常連さんが教えてくれた。葦の近く、ずっと立っとったらしい。一時間以上」

フェルナンドは聞き返した。

「三人、というのは」

太田マスターは根古の顔を見た。

根古は少し考えてから、面倒そうに口を開いた。

「半年ほど前から、この辺に越してきた女が三人おる」

「女性、ですか」

「東京もんや。若いのが二人、四十絡みが一人。三人で一軒家借りて共同生活しとる」

「怪しいんですか」

「怪しいかどうかは知らん」根古は缶コーヒーを一口飲んだ。

「ただ、行動がおかしい」

「おかしいというのは」

根古は答える代わりに、太田マスターを見た。

太田マスターが穏やかに続けた。

「深夜に出歩く。でも買い物とかやない。ただ歩いとる。川の方へ向かうことが多い。近所の人が何度か見かけとる」

「職業は」


「わからん」根古が言った。「表向きは在宅ワークとか言うとるらしいが、詳しいことは誰も知らん」

フェルナンドは少し考えた。

「東京から来た行方不明の男と、関係があると」

「知らん」

「でも、気になってる」

根古は答えなかった。

それが答えだった。

ヤマトがカウンターからひらりと床に降りた。そして入口のドアの前に座り、じっとドアを見た。

三秒後、ドアベルが鳴った。

入ってきたのは若い女だった。

二十代前半。濡れた黒髪。コンビニの袋を提げている。

近所に買い物に来た、そういう格好だった。

しかし目が、笑っていなかった。

愛想のいい微笑みを浮かべながら、目だけが、静かに店内を見回していた。

一瞬、根古と目が合った。

女は微笑んだまま、テーブル席に座った。

フェルナンドは気づかないふりをしながら、根古の横顔を見た。

根古は缶コーヒーを持ったまま、また窓の外を向いていた。

しかし先ほどと、何かが違った。

背筋が、わずかに変わっていた。

ゆるんでいた空気が、静かに、しかし確実に引き締まっていた。

あの女が、三人組の一人だ。

フェルナンドは確信した。

根古は何も言わなかった。

ただ、左手をゆっくりと、膝の上に置いた。


女はコンビニの袋からペットボトルのお茶を取り出して、ゆっくり飲んだ。

急ぐ様子はない。

スマートフォンを見るでもなく、ただ静かに座っている。

五分ほどが過ぎた。

根古は窓の外を向いたまま動かない。フェルナンドはコーヒーカップを両手で持ったまま、息を殺していた。

太田マスターだけが、いつも通りカウンターを静かに拭いていた。

女が立ち上がった。

コンビニの袋を持って、レジへ向かう。

「おいくらですか」

「三百五十円です」

財布を出しながら、女はさりげなく言った。

「根古さん」

店内の空気が、静かに変わった。

根古は振り返らなかった。

「人違いやろ」

「そうですか」女は代金を払った。

「木曽川の葦のあたり、昨夜また声がしてました。一度だけじゃなかったです。三回」

根古の背中が、ぴくりと動いた。

「それと」女は続けた。「東京から来た男性ですが、一人じゃなかったかもしれません。もう一人、同じ時期にこの辺をうろついていた人間がいます」

太田マスターがお釣りを渡した。

女は受け取りながら、根古の方をちらりと見た。

「西野千紗都といいます。何かあれば」

カウンターの端に、小さな名刺を置いた。

「ワシに頼るな」

根古が低く言った。

西野は小さく微笑んだ。

「頼んでいません。ただ、お伝えしたかっただけです」

ドアベルが鳴った。

女は雨の中に消えた。

誰も喋らなかった。

ヤマトが名刺の匂いを嗅いだ。そして根古の膝に飛び乗り、丸まった。

フェルナンドはようやく息を吐いた。

「……捜査協力、ですか」

「さあな」

根古は名刺を取り上げた。しばらく見て、無造作にジャージのポケットに入れた。

「根古さん、もう一人というのは」

「知らん」

「でも」

「知らんと言うたら知らん」根古は缶コーヒーを飲み干した。空になった缶をカウンターに置いた。「ただ」

フェルナンドは根古の横顔を見た。

「あの女、嘘はついとらん」

静かな、しかし確信のある声だった。

太田マスターが新しい缶コーヒーを根古の前に置いた。根古は無言で受け取った。

フェルナンドはカメラバッグに手をかけた。

「根古さん、撮らせてもらえませんか。今から」

「嫌や」

「じゃあ一緒に川に行くだけでも」

根古はしばらく黙っていた。

雨の音。

ヤマトが根古の膝の上で、小さく鳴いた。

根古はため息をついた。

「……傘、持っとるか」

フェルナンドは思わず立ち上がりかけた。

「持ってます」

「カメラは店に置いていけ」

「わかりました」

根古は立ち上がりながら太田マスターに言った。

「ヤマト、頼む」

「はいはい」太田マスターは微笑んだ。「気をつけて」

ヤマトはカウンターに戻り、二人を見送るように座った。

緑色の目が、じっと根古の背中を追った。

雨は小降りになっていたが、止む気配はなかった。

根古は古びた軽自動車のドアを開けた。

助手席のシートに釣り道具と缶コーヒーの空き缶が散乱している。

「どけといてくれ」「あ、はい」フェルナンドは釣り道具を後部座席に移しながら、この車が根古親司という人間をよく表していると思った。

古い。雑然としている。しかし?妙に居心地がいい。エンジンをかけると、カーラジオが古いJAZZを流し始めた。

根古は特に気にする様子もなく、ワイパーを動かした。

「木曽川まで十分ほどや」「はい」「余計なこと喋るな」

「わかりました」フェルナンドは窓の外を見た。

雨に濡れた可児市の街並みが流れていく。

根古は無言で運転した。

JAZZだけが流れていた。川沿いの駐車スペースに車を止めた。外に出ると、川の匂いがした。水量が多い。

六月の木曽川は、雨を含んでいつもより黒く見えた。葦が茂っている。

川岸に沿って、背丈ほどの葦が密生していた。雨に濡れて重たそうに揺れている。

根古は傘も差さずに川岸へ歩いていった。

「傘、」「ええ」フェルナンドは自分だけ傘を差した。

根古は葦の手前で立ち止まった。目を細めて、川面を見ている。

何を見ているのかわからない。フェルナンドには川と葦と雨しか見えなかった。

しばらくして根古が言った。

「ここやな」「何がわかるんですか」根古は答えなかった。

しゃがみ込んで、地面に触れた。右手ではなく、左手で。泥混じりの地面をそっと押さえるように。

フェルナンドは息を呑んだ。

根古の表情が、わずかに変わった。

目が、どこか遠いところを見ている。

十秒ほどだった。根古は立ち上がり、泥のついた手をジャージで拭いた。

「二人おった」「え」「この場所に。東京の男と、もう一人」「もう一人は」「わからん。でも」根古は葦の方を見た。

「まだおる」フェルナンドの背筋が冷えた。「まだ、というのは」「声や」根古が静かに言った。

その瞬間だった。葦の中から、声がした。

言葉ではない。低く、細く、風とも水音とも違う、人の声の残滓のようなもの。

フェルナンドは思わず後退った。根古は動かなかった。

ただ葦を見ていた。雨が少し強くなった。根古はゆっくりと右手を上げた。

葦に向けて、そっと差し出すように。

声が、止まった。しんと静かになった。

川の流れだけが聞こえた。根古は右手を下ろした。

「行くぞ」「え、もういいんですか」「今日はここまでや」「でも声が」「聞こえたやろ」根古は歩き始めた。

「それで十分や」フェルナンドは葦を振り返った。

何もいない。ただの葦が、雨に揺れているだけだ。

しかし確かに聞こえた。人の声が。「根古さん」歩きながら聞いた。

「今、右手で何をしたんですか」根古は少し間を置いた。

「落ち着かせただけや」「何を」「声の主を」フェルナンドはその言葉を反芻した。

落ち着かせた。声の主を。「死んでるんですか、その人は」根古は答えなかった。

軽自動車のドアを開けて、乗り込んだ。

フェルナンドも助手席に滑り込んだ。エンジンがかかった。カーラジオがまたJAZZを流し始めた。

しばらく走ってから、根古が言った。「東京の男は死んどる」「やっぱり」「もう一人は」根古はハンドルを握ったまま前を向いていた。

「生きとる。でも、時間がない」フェルナンドは助手席で、カメラバッグを膝に置いたまま固まっていた。

生きているが、時間がない。

「警察に言わないといけませんね」「雨月に連絡しとけ」「根古さんは」「ワシは関係ない」

「でも今、わかったじゃないですか。二人いたこと、もう一人が生きていること」

「たまたまや」フェルナンドは根古の横顔を見た。

窓の外を流れる雨の景色を見ながら、根古は静かな目をしていた。

さっきと同じ、深い川の底のような目。

たまたま、か。フェルナンドは密かに思った。

この男のたまたまは、普通の人間のたまたまとは、まるで違うものだと。

動き出す

フェルナンドが雨月に連絡したのは、ラクカに戻ってからだった。

根古は缶コーヒーを新しく開けて、何事もなかったようにカウンターに座っている。ヤマトが膝に戻っていた。

電話口の雨月は最初、沈黙した。

「二人、いたということですか」

「根古さんがそう言いました」

「根古さんが」また沈黙。「わかりました。上に上げます」

「もう一人は生きているそうです。時間がないとも」

雨月の息を呑む音が聞こえた。


「……わかりました」

電話を切った。


フェルナンドは根古の隣に座った。

「雨月さんに伝えました」

「うん」

「動いてくれますかね、警察」

根古は答えなかった。

太田マスターが静かに言った。


「管轄の問題が残っとるからな」

「でも生存者がいるかもしれないんですよ」

「そやから動く。でも揉める」太田マスターはコーヒーを淹れながら続けた。「人間の組織いうのはそういうもんや」


根古はヤマトの頭を無造作に撫でた。

ヤマトは目を細めた。

翌朝だった。

雨月から連絡が来たのはフェルナンドのスマートフォンにではなく、根古の古い携帯電話にだった。

根古はラクカのカウンターで、いつものように缶コーヒーを飲んでいた。

着信音が鳴った。


根古は画面を見た。

「雨月か」

出た。


フェルナンドは聞こえないふりをしながら、しっかり聞いていた。

根古は相槌だけ打っていた。

「うん」「そうか」「両方か」「ほう」

二分ほどで電話を切った。


「動いたか」フェルナンドが聞いた。

「動いた」根古は缶コーヒーを一口飲んだ。「可児署と美濃加茂署、共同捜査になった」

「早かったですね」


「生存者がいるかもしれんとなれば、さすがに揉めとる場合やない」根古は淡々と言った。「榊原が上を動かしたらしい」

「榊原警部が」

「あの人はそういうことができる人間や」


太田マスターが根古のコーヒーカップを温め直しながら言った。

「揉めた話はどうなったんや」


「共同捜査本部を美濃加茂に置く。主導は美濃加茂署。可児署から榊原が連絡担当で入る」根古は続けた。「現場の実動は雨月と、美濃加茂の刑事が組む形らしい」

「落とし所やな」

「官僚的な落とし所や」


根古の声に皮肉はなかった。ただ事実を言っているだけの口調だった。

フェルナンドは聞いた。

「根古さんはどうするんですか」

「何も」

「でも昨日の情報は」

「雨月が上手いこと使うやろ。ワシの名前は出さんと」

「出さなくていいんですか」


「出したら面倒やろ」根古はヤマトを膝に乗せた。「霊能者が川で感知しましたとか、警察の報告書に書けるか」

たしかに、とフェルナンドは思った。


「でも生存者を見つけるには」

「捜索範囲は絞れた」根古は窓の外を見た。「あとは人間の仕事や」

しばらく沈黙が続いた。


ヤマトがまた、川の方角を向いた。

耳がぴくりと動いた。

根古がそれを見た。

「……まだ聞こえとるんか、お前には」

ヤマトは答えなかった。


ただ緑色の目で、窓の外を見続けていた。

フェルナンドはその様子を見ながら、静かに思った。

この猫は、ただの猫ではない。

根古は何も言わなかった。


ただ、ヤマトの背中をゆっくりと撫でた。

その午後、木曽川の葦地帯に捜索が入った。

可児署と美濃加茂署、合わせて十二名。

フェルナンドは離れた場所から、その様子を見ていた。

根古は来なかった。


軽自動車で川沿いの土手に停まって、缶コーヒーを飲みながら遠くから見ていた。

フェルナンドが助手席の窓を叩いた。

根古が開けた。

「来ないんですか」

「ワシが行ってどうする」

「気にならないんですか」

「なる」根古は缶コーヒーを一口飲んだ。「なるけど、行かん」

「なぜ」


根古はしばらく黙った。

川の方を見ていた。

「見つかる。あそこにおる」


確信のある声だった。

フェルナンドは捜索隊の方を見た。

十二名が葦の中に入っていく。


無線の声が遠くから聞こえた。

根古は目を閉じた。

助手席のフェルナンドは、何も言えなかった。

五分後だった。


無線が騒がしくなった。

捜索隊の動きが変わった。

根古は目を開けた。

「見つかったな」

フェルナンドは双眼鏡を取り出した。


葦の奥、数名が集まっている。担架が運ばれていく。

「生きてますか」

根古は答えなかった。

しかしその目が、わずかに細くなった。

安堵とも、憂慮とも取れる表情だった。

救急車のサイレンが遠くから近づいてきた。

根古はエンジンをかけた。


「行くぞ」


「どこへ」


「ラクカや。腹減った」

フェルナンドは思わず笑った。

根古は笑わなかった。

ただ軽自動車を走らせた。

サイレンの音が、雨上がりの木曽川沿いに響いていた。


東京と可児

生存者が運ばれた病院から、雨月が連絡してきたのはその夜だった。

根古の携帯が鳴った。


ラクカはもう閉まっている。根古は自宅のソファでヤマトを膝に乗せたまま、テレビもつけずにぼんやりしていた。フェルナンドは向かいの椅子に座っていた。


なぜか帰らなかった。根古も帰れとは言わなかった。

「雨月か」

根古は電話を取った。

しばらく聞いていた。

「意識は」「そうか」「名前は」「……東京か」「わかった」

電話を切った。

「生きてますか」フェルナンドが聞いた。


「意識はある。衰弱が激しい。三日は話せんやろと」根古はヤマトの耳を軽く触った。「名前は村瀬健司。三十一歳。東京、世田谷の人間や」

「死んだ男とは」


「接点は今のところ不明や。ただ」根古は続けた。「村瀬の荷物の中に、可児行きの高速バスのチケットがあった。片道や」

「片道」


「戻るつもりがなかったか。戻れないと思っていたか」

フェルナンドは少し考えた。


「可児と東京、高速バスが出てるんですか」

「出とる。バスタ新宿から可児まで、直通や。四時間ちょっとで着く」根古は窓の外を見た。「この街と東京は、思うより近い」


「死んだ男も、バスで来たんですかね」

「おそらくな。新幹線使う人間やないやろ、あの格好からして」


フェルナンドは死んだ男の話を雨月から聞いた断片を思い出した。三十四歳。観光とも仕事とも取れる。ホテルに荷物を残したまま消えた。


「死んだ男の名前は」

「桐野祐介。三十四歳。住所は東京、杉並や」

「村瀬と同じ東京で、年齢も近い」

「接点があってもおかしくない」

根古は缶コーヒーを開けた。

夜中に缶コーヒーを飲む男だった。


「三人組も東京から来とる」根古は静かに言った。「西野、古田、星野。全員東京もんや」

「東京から来た人間が、この街で集まっとる」

「集まっとる、というより」根古はヤマトを見た。「集められとる、かもしれん」

フェルナンドは背筋が冷えた。


「誰に」

根古は答えなかった。

ヤマトが根古の膝の上で、小さく鳴いた。

翌朝、フェルナンドは一人で動いた。

根古には言わなかった。

可児駅のバスターミナルに行った。


東京行きの高速バス乗り場。朝の便を待つ人間が数人いた。スーツケースを持った若い女、老夫婦、仕事帰りらしいくたびれたサラリーマン。


フェルナンドはターミナルの時刻表を見た。

東京、新宿行き。一日三便。

朝、昼、夜。

この便に乗れば、四時間で東京に着く。

桐野祐介はこのバスで来た。村瀬健司も同じバスで来た。そして三人組も、いつかこのバスで可児に降り立った。


何がこの街に、東京の人間を引き寄せているのか。

スマートフォンが鳴った。

根古からだった。

「どこおる」

「バスターミナルです」


沈黙。

「……何しとる」

「調べてました」

また沈黙。


「ラクカ来い。話がある」

電話が切れた。


フェルナンドはバスターミナルを振り返った。

東京行きの便が、静かにエンジンをかけていた。

ラクカに戻ると、根古の隣に見慣れない男が座っていた。

五十五歳前後。がっしりした体格。目つきが鋭い。しかし根古と並んでコーヒーを飲んでいる姿は、どこか妙に絵になっていた。


太田マスターが静かにフェルナンドにコーヒーを出した。

根古が言った。

「榊原や」

男はフェルナンドをちらりと見た。

「占い師か」

「はい、フェルナンド・村田といいます」


「YouTuberやろ。知っとる」榊原警部はコーヒーを置いた。「根古さんから聞いた。川で感知したのはお前さんも一緒やったと」

「はい」

「信用していいんか、こいつ」榊原は根古に聞いた。

根古はしばらく考えた。


「まあ、ええやろ」

フェルナンドは複雑な気持ちで礼を言った。

榊原は低い声で続けた。


「桐野祐介の身元照会が取れた。東京の杉並に住んどる。職業はフリーのライターや」

「ライター」

「週刊誌や、ネット媒体に記事を書いとった。専門は」榊原は少し間を置いた。「裏社会の調査記事や」


根古の目が細くなった。

「裏社会」

「半グレ、闇バイト、非合法な請負業者。そういう連中を追いかけとった記者や」榊原は続けた。「最後に書いた記事が、三ヶ月前。それ以降、東京の編集部との連絡が途絶えとった」


フェルナンドは静かに聞いていた。

「村瀬健司との接点は」


「それがな」榊原はコーヒーを一口飲んだ。「村瀬は桐野の記事に、情報提供者として関わっとった可能性がある」

「情報提供者」


「つまり」根古が静かに言った。「桐野は記事を追ってここまで来た。村瀬は桐野を追ってここまで来た」

「そして」フェルナンドは続けた。「三人組も、何らかの形でその記事と繋がっている」

誰も否定しなかった。


ヤマトがカウンターの端で、緑色の目を細めた。

太田マスターがコーヒーを淹れ直す音だけが、静かに響いていた。


葦の中の声 その正体

榊原が帰った後、ラクカには静けさが戻った。

根古は三本目の缶コーヒーを開けた。


フェルナンドはノートを取り出した。占い師としての習慣で、重要なことは手書きで残す。

「整理していいですか」

根古は答えなかった。それでいいということだった。


「桐野祐介、三十四歳。フリーライター。裏社会の調査記事を書いていた。三ヶ月前から連絡が途絶えた。可児に来て、死んだ」

「うん」

「村瀬健司、三十一歳。桐野の情報提供者だった可能性がある。同じく可児に来て、葦の中で瀕死で発見された」

「うん」

「桐野が追っていた記事の中身が、鍵になる」

根古はしばらく黙っていた。


太田マスターが口を開いた。

「榊原さんが言いにくそうにしとったな、そこだけ」

「気づいとったか」根古は太田マスターを見た。

「あの人が口ごもるのは珍しい」


フェルナンドはペンを止めた。

「何か知ってるんですかね、榊原さんも」

「知っとるやろ。ただ」根古は窓の外を見た。

「言える立場にない話がある、ということや」


「警察が関わっとる話ということですか」

「そこまでは言わん」根古はヤマトを撫でた。

「ただ、裏社会いうのはな、表の世界と完全に切り離されとるわけやない。どこかで繋がっとる。そのどこかを、桐野は書こうとしとったんやろ」


フェルナンドは少し考えた。

「三人組は」

「あの三人は」根古は静かに言った。「その世界の出や。ただ」

「ただ?」


「もう足を洗おうとしとる人間の目をしとった」

フェルナンドは西野千紗都の顔を思い出した。

愛想のいい微笑みの奥にあった、静かな目。

疲れた目だった。


「隠住む、ということですか。この街に」

「さあな。それはワシの知ったことやない」根古は缶コーヒーを置いた。「ただ」

「ただ?」

「邪魔せんでいい人間を、邪魔するつもりはない」

それだけ言って、根古は黙った。


翌日、榊原から根古に短い連絡が入った。

フェルナンドは根古の傍にいたので、内容の断片を聞いた。


根古は「うん」「そうか」「ほう」とだけ言って、電話を切った。

「何でしたか」

「桐野が追っとった記事の話や」根古は缶コーヒーを持ったまま言った。

「関東に、十年ほど活動しとった組織があった。半グレと言うには規模が大きい。

かといって旧来のヤクザとも違う。請負専門の、ある種のプロ集団や」


「請負というのは」

「人探し、回収、処理。金になることなら何でも請け負う」根古は淡々と続けた。

「その組織が、二年前に突然解散した」

「なぜ」


「理由は表に出とらん。ただ」根古はヤマトを見た。「幹部が相次いで姿を消した。金も消えた。組織だけが残骸のように残って、自然に崩れた」

フェルナンドはノートに書きながら聞いた。


「桐野はその解散の内幕を追っていた」

「そしてその残党が、今どこで何をしとるかも」根古は続けた。

「残党の一部が東海地方に流れてきた、という話があった。桐野はそれを追って、可児まで来た」


「三人組は、その残党ですか」

根古はしばらく黙った。


「残党というより」静かに言った。

「組織に巻き込まれた側の人間やないかと思う」


「被害者側」

「足を洗いたくて、東京か遠い場所に来た。それだけやろ、あの三人は」

フェルナンドはペンを止めた。


「でも桐野はその三人を追って来た可能性がある」

「記者いうのはそういうもんや。悪意はなくても、掘り返す」根古は窓の外を見た。

「掘り返された側が、困る人間に知らせる」

「つまり桐野は」


「三人組を追ったんやなく」根古は静かに言った。

「三人組を利用して、残党の在処を探ろうとした。そしてそれを、残党の誰かに嗅ぎつけられた」


雨がまた降り始めていた。

「村瀬は」

「桐野が危ないと気づいて、後を追ってきた。

間に合わんかったが、自分も巻き込まれた」


フェルナンドは長い息を吐いた。


「根古さん、それ全部わかるんですか。川で触れただけで」

根古は少し間を置いた。

「全部やない。断片や。繋げたのはワシの想像も混じっとる」

「でも外れてないと思いますか」

「さあな」根古は缶コーヒーを飲み干した。「たまたまや」

太田マスターが苦笑いした。


ヤマトが根古の膝に乗り、丸まった。

窓の外の雨が、静かに可児の街を濡らしていた。


村瀬、目覚める

村瀬健司が意識を取り戻したのは、発見から四日後だった。


雨月から連絡が来たのは昼過ぎで、根古はちょうどラクカで昼寝をしていた。ヤマトを腹の上に乗せたまま、カウンターの椅子を倒して眠っていた。


フェルナンドが肩を叩いた。

「根古さん、雨月さんから連絡です」

「うん」

目を開けない。

「村瀬さんが意識を取り戻したそうです」

一秒後、根古は目を開けた。


ヤマトが迷惑そうに腹から降りた。

病院は可児市内にあった。

根古は行かなかった。

フェルナンドが「一緒に行きますか」と聞いたら、「ワシが行ってどうする」と言った。

「情報が欲しくないんですか」


「雨月が持ってくる」

「でも」

「お前が行け」根古はヤマトを膝に乗せ直した。「顔が広そうやろ、お前は」


褒められているのかどうかわからなかった。

フェルナンドは一人で病院に向かった。

病室の前に、山本彩織巡査長がいた。


二十八歳。きりっとした目の女性警官だった。私服だったが立ち居振る舞いが職業を隠せていない。

「面会はできません」

「フェルナンド・村田といいます。雨月警部補から」

山本はスマートフォンで確認した。短い沈黙の後、「少しだけ」と言った。


村瀬健司は思ったより若く見えた。

点滴に繋がれて、顔色が悪い。しかし目は開いていた。


フェルナンドは椅子を引いて座った。

「村瀬さん、話せますか」

村瀬はフェルナンドを見た。

「あなたは」

「警察の人間ではありません。根古親司さんという方と一緒に動いています」

村瀬の目が変わった。


「根古さん、ですか」

「ご存知ですか」

「名前だけ」村瀬は細い声で言った。「桐野が言ってました。岐阜に、とんでもない霊能者がいるって」

フェルナンドは少し前のめりになった。


「桐野さんと最後に話したのはいつですか」


「可児に来る、三日前です。電話で」村瀬は目を閉じた。「桐野さんは、獲物を見つけたって言ってました。組織の残党が岐阜に流れてきた。核心に近い人間が可児にいるって」


「核心というのは」


「組織が解散した本当の理由を知っている人間です」村瀬は続けた。「あの組織はですね、解散したんじゃないんです。潰されたんです」

フェルナンドは息を呑んだ。


「誰に」


「それを桐野さんは追っていた」村瀬は目を開けた。「組織を内側から崩した人間がいる。幹部を相次いで消した人間が。そしてその人間が、今も東海地方のどこかにいると」


病室が静かだった。


廊下の音だけが聞こえた。

「桐野さんは、その人間に辿り着いたんですかね」フェルナンドは静かに聞いた。

村瀬は天井を見た。


「辿り着いたから、殺されたんだと思います」

しばらく誰も喋らなかった。

「村瀬さんはなぜ可児に」


「桐野さんが三日連絡を絶った。嫌な予感がして、後を追いました」村瀬は目を閉じた。「川沿いで、誰かに後ろから」

そこで言葉が止まった。


「無理に話さなくていいです」

「根古さんに、伝えてください」村瀬は力を振り絞るように言った。「桐野さんが最後に言ってた名前があります」


フェルナンドはノートを開いた。

「なんという名前ですか」

村瀬は小さな声で、一つの名前を言った。

フェルナンドはそれを書き留めた。


ペンを持つ手が、わずかに止まった。

聞いたことのある名前だった。

ラクカに戻ると、根古はまた缶コーヒーを飲んでいた。

フェルナンドはノートを開いて、根古の前に置いた。

根古はそれを見た。


一秒。


二秒。


三秒。


「根古さん、知ってる名前ですか」

根古はノートから目を離さなかった。

しばらくして、静かに言った。


「知っとる」


「どういう人物ですか」


根古は答えなかった。

代わりに太田マスターを見た。

太田マスターの手が、コーヒーカップを拭く動作を止めた。


二人の間に、何か通じるものがあった。


「太田さん」フェルナンドは思わず聞いた。「知っているんですか」

太田マスターは静かに言った。

「この辺では、知らん者がおらん名前や」

「どういうことですか」


根古はノートをフェルナンドに返した。


「表の顔と裏の顔がある人間がおる」根古は静かに言った。「この地域で長年、表の顔だけを見せてきた人間や」


「今も、この辺にいるんですか」

根古は答えなかった。

ヤマトが根古の膝から降りた。


そして入口のドアの方を向いた。

じっと、動かなかった。

根古がそれを見た。

目が細くなった。


「……来るな」


低く、静かな声だった。

フェルナンドはドアを見た。

三秒後、ドアベルが鳴った。


ロドリゲス斎藤


入ってきたのは、妙に存在感のある男だった。

五十二歳。浅黒い肌、白髪混じりの髪、陽気そうな目。しかし体つきはがっしりしていて、どこか隙がない。

派手ではないが、それなりに金のかかった服を着ている。肩にカメラバッグ。首からIDカードのようなものをぶら下げている。

フェルナンドは思った。

同業者の匂いがする。

男はラクカの店内を見回して、根古を見つけた。

顔がぱっと明るくなった。

「根古さんやないですか。久しぶりやなあ」

根古は缶コーヒーを飲んだまま言った。

「ロドリゲス」

「いやあ、偶然偶然。下呂の方まで仕入れに行った帰りでね」男、ロドリゲス斎藤は当然のようにカウンターに座った。

「太田さん、コーヒーください」

「はいはい」

太田マスターは微笑んだ。顔見知りらしかった。

ロドリゲス斎藤はフェルナンドを見た。

「あれ、フェルナンドさんやないですか。YouTubeいつも見てますよ」

「どうも」フェルナンドは少し警戒しながら言った。

「ロドリゲスさんも、YouTuberですか」

「バイヤー兼ですわ。アンティーク、骨董、ちょっと怪しいもんも扱います」ロドリゲス斎藤は陽気に笑った。

「チャンネル名、ロドリゲス斎藤の怪しい旅。登録者二十万ほどですわ」

「知ってます」

フェルナンドは実際に知っていた。

怪しいスポット巡り、いわく付きの骨董品、裏市場の話。

際どい内容をぎりぎりのラインで配信する、妙に人気のあるチャンネルだった。

「偶然ですか、今日ここに来たのは」根古が静かに言った。

ロドリゲス斎藤は笑顔のまま言った。

「偶然ですよ、根古さん。ワシが嘘つくように見えますか」

「見える」

「手厳しいなあ」

ロドリゲス斎藤はコーヒーを受け取った。一口飲んで、カウンターに肘をついた。

笑顔が、少しだけ変わった。

「木曽川の件、聞きました」

根古は黙った。

「東京のライターが死んだ話、もう界隈じゃ広まってますよ。根古さんが動いたとも」

「ワシは何もしとらん」

「そうですか」ロドリゲス斎藤は言った。

「でも根古さん、あの件には首突っ込まん方がいいと思いますよ」

カウンターが静かになった。

フェルナンドはロドリゲス斎藤の横顔を見た。

さっきまでの陽気さが、表面だけに残っている。目が、笑っていない。

「なんでや」根古が言った。

「根古さんの領域やないからですよ」ロドリゲス斎藤は続けた。

「霊とか、そういう話やない。人間の話です。生きてる人間の、ドロドロした話」

「わかっとる」

「わかっとるなら」

「わかっとるけど」根古は缶コーヒーを置いた。「葦の中で声がしとった。死んだ人間の声が」

ロドリゲス斎藤は黙った。

「それはワシの領域や」根古は静かに続けた。

「生きてる人間の話には首を突っ込まん。でも死んだ人間が、まだそこにおる。それは無視できん」

ロドリゲス斎藤はコーヒーカップを両手で包んだ。

しばらく黙っていた。

「根古さんは」ロドリゲス斎藤は静かに言った。「ほんまに変わらんなあ」

「お前こそ」根古は言った。「情報持っとるやろ。バイヤーやってたら耳に入ってくるもんがある」

「根古さん」

「ワシに頼るな、とは言わん。お前から頼んできたんやから」

ロドリゲス斎藤は根古を見た。

一秒。

二秒。

ため息をついた。

「……名前、聞いてますよね。桐野が追ってた名前」

根古は答えなかった。

「その人物はね、根古さん」ロドリゲス斎藤は声を落とした。

「この辺で長年、ある種の仲介業をやってる人間です。表の顔は真っ当な商売人。でも裏では、東京の組織と地元をずっと繋いでた」

「今も動いとるか」

「動いとる。組織が解散しても、その人間だけはしぶとく残った」ロドリゲス斎藤は続けた。

「桐野はそこまで辿り着いた。だから消された」

「名前を知っとるか」

ロドリゲス斎藤はフェルナンドのノートをちらりと見た。

「そこに書いてある名前と、同じ人物やと思いますよ」

フェルナンドはノートを見た。

村瀬から聞いた名前。

根古が「知っとる」と言った名前。

「根古さん」ロドリゲス斎藤は言った。

「ワシはこれ以上は言えません。言えるのはここまでです」

「十分や」

「でも気をつけてください。本当に」

根古は答えなかった。

缶コーヒーを一口飲んだ。

ヤマトがロドリゲス斎藤の方をじっと見た。

ロドリゲス斎藤は猫を見返して、小さく笑った。

「賢い猫やなあ」

「ヤマトや」根古が言った。

「よろしくな、ヤマト」

ヤマトは鼻をひくつかせて、根古の膝に戻った。

ロドリゲス斎藤はコーヒーを飲み干した。

財布を出そうとしたら、太田マスターが手を振った。

「ええですよ」

「いつもすみません」ロドリゲス斎藤は立ち上がった。

カメラバッグを肩にかけた。

「根古さん、フェルナンドさん」

ドアに向かいながら、振り返らずに言った。

「三人組の女の子たちは、ええ人らですよ。巻き込まんといてあげてください」

ドアベルが鳴った。

男は雨の中に消えた。

カウンターに静けさが戻った。

フェルナンドは根古を見た。

根古は缶コーヒーを持ったまま、しばらくノートの名前を見ていた。

やがて静かに言った。

「太田さん」

「うん」

「この名前の人間、今どこにおるか、心当たりあるか」

太田マスターは少し考えた。

「美濃加茂の方に、店を持っとると聞いたことがある」

根古はヤマトを膝から降ろした。

立ち上がった。

フェルナンドは思わず立ち上がった。

「行くんですか」

「ちょっとドライブや」根古はジャージのポケットに手を入れた。「来るか」

「行きます」

「カメラは置いていけ」

「わかりました」

根古は太田マスターに言った。

「ヤマト、頼む」

「はいはい」太田マスターは微笑んだ。「気をつけて」

ヤマトはカウンターに座って、二人を見送った。

緑色の目が、根古の背中をじっと追った。

耳が、ぴくりと動いた。


軽自動車は国道41号を北へ走った。

雨は上がっていた。濡れたアスファルトが夕陽を反射している。

カーラジオから、JAZZが流れていた。

マイルス・デイヴィスのトランペットが、静かに車内に満ちていた。

フェルナンドは少し意外な顔をした。

「JAZZを聴くんですか」

「あかんか」

「いや、そういうわけじゃ」フェルナンドは苦笑いした。「なんとなく、演歌かと思ってました」

「演歌も聴く」

根古はそれだけ言って、前を向いた。

トランペットが低く、静かに続いていた。


告白

倉庫の中は静かだった。


床に倒れた四人の男たちの、かすかな呼吸音だけが聞こえた。


椅子の男、その名前をフェルナンドはノートに書き留めていた。


五十代。美濃加茂で長年、古美術商を営んでいる。表の顔は地元の名士だった。商工会の役員、地域の祭りの世話役。誰もが知っている、信頼できる人間として。


しかしその裏で、二十年近く、東京の組織と地元を繋ぐ仲介役を続けていた。


男は震える声で話し始めた。


根古は黙って聞いていた。


フェルナンドはノートにペンを走らせた。


「最初は小さな話でした」


男は言った。


「東京の連中が、地方に金を流したがっていた。不動産、骨董、表に出せない金を綺麗にする場所が必要だった。ワシはただ、場所を紹介しただけです。最初は」


「最初は、な」根古が静かに言った。


「気がついたら、抜けられなくなっていた」男は目を伏せた。

「人の弱みを握られた。家族のことを、ちらつかされた。断れなかった」


「桐野は」


男の顔が曇った。


「あの記者は、賢かった。組織の解散の裏を調べているうちに、ワシのところまで辿り着いた」男は続けた。「接触してきました。三ヶ月前に」


「何を求めてきた」


「情報提供です。組織の残党の動きを教えてくれれば、ワシの名前は記事に出さないと言った」男は唇を噛んだ。「でもワシは、東京の残党に連絡してしまった。桐野が動いていると」


フェルナンドはペンを止めた。

「桐野さんを売ったんですか」

男は答えなかった。


答えが、答えだった。


根古は男を見下ろしたまま、何も言わなかった。

責めなかった。


ただ、静かに聞いていた。

その静けさが、男には応えたようだった。


「残党が動いたのは知らなかった」男は続けた。「ただ情報を流しただけのつもりだった。まさか殺すとは」


「村瀬は」


「桐野の後を追ってきた人間が現れたと、残党から連絡が来た。処理しろと言われた。でもワシは」男は顔を上げた。「それだけはできなかった。部下に見張りだけさせて、手を出すなと言った」


「見張りが手を出した」


「若い連中は、言うことを聞かない」男は力なく言った。「川沿いで村瀬を脅そうとして、揉み合いになったと」


根古はため息をついた。

深い、重たいため息だった。

「残党は今、どこにおる」


「東京に戻っています。桐野の件が片付いたと思っている」男は続けた。

「でもまだ、この辺に一人残っています。残党の中でも古い人間で、後始末を任された男が」


「名前は」

男は言った。


根古はそれを聞いて、少し目を細めた。

「その男は、三人組の女たちのことを知っとるか」

男は頷いた。


「知っています。あの三人は、組織が解散するときに逃げた女たちです。残党にとっては、始末すべき人間として、まだリストに残っている」


フェルナンドは思わず言った。

「西野さんたちが危ない」

根古は既に携帯電話を取り出していた。

雨月に電話した。

「雨月か。ワシや。今すぐ動け」

短く、場所と状況を伝えた。

電話を切った。


男を見た。

「お前は警察に話せ。全部や」

男は黙って頷いた。


抵抗する気力は、もうなかった。

根古は踵を返した。


フェルナンドは後を追いながら言った。

「三人組のところへ行くんですか」

「残党の男がまだおる」根古は倉庫の扉を押し開けた。

「三人組の居場所を知っとるなら、今夜動くかもしれん」


外に出ると、夜の空気が冷たかった。


倉庫の前に倒れていた二人の男は、ぼんやりと目を開け始めていた。

魂が、少しずつ戻ってきている。


根古はそれを一瞥した。

「歩けるようになったら、中に入っとれ」


男たちは虚ろな目のまま、小さく頷いた。

軽自動車に乗り込んだ。

エンジンをかけた。

カーラジオがJAZZを流し始めた。

今度はビル・エヴァンスのピアノだった。


静かで、少し哀愁のある音だった。

「根古さん」フェルナンドは言った。「三人組の家はわかるんですか」

「大体な」

「大体で行くんですか」

「ヤマトが教えてくれる」

フェルナンドは助手席で固まった。

「ヤマトが?」


根古は答えなかった。

携帯電話が鳴った。

画面を見た。

「ヤマトや」

フェルナンドは携帯電話を見た。


着信表示には確かに「ヤマト」とあった。

「猫が、電話してくるんですか」

根古は電話に出た。


「うん」「どっちや」「わかった」

電話を切った。


「太田さんからや。ヤマトが店の扉を引っ掻いて騒いどったから、散歩に連れ出したら、ある方向に歩き始めたと」

「それで場所がわかるんですか」

「わかる」根古はハンドルを切った。「あいつはそういう猫や」

フェルナンドは窓の外の夜の街を見た。

ビル・エヴァンスのピアノが続いていた。

静かで、深い音だった。


猫又、か。

フェルナンドは密かに思った。


この街では、何もかもが普通ではない。

しかし妙に、居心地がいい。

軽自動車は夜の可児市を走り続けた。


三人組の家


太田マスターからの案内で辿り着いたのは、可児市の住宅街の外れだった。

古い一軒家。庭に植木が茂っている。表札はない。カーテンが閉まっているが、窓から明かりが漏れていた。


根古は軽自動車を少し離れた場所に止めた。

エンジンを切った。

JAZZが消えた。

静かになった。


「おる」根古は静かに言った。

「三人組が?」

「それと、もう一人」

フェルナンドは家を見た。


普通の一軒家だった。しかし根古がそう言うなら、そうなのだろう。この四日間で、フェルナンドはそれを学んでいた。

「警察を待ちますか」

「待てん」根古は車を降りた。「時間がない」

フェルナンドも降りた。


夜の空気は湿っていた。遠くで虫が鳴いている。

二人は静かに家に近づいた。

庭の入口に差し掛かったとき、根古が立ち止まった。

右手をわずかに上げた。

フェルナンドも止まった。


家の裏手から、物音がした。

低い声。言葉にならない、押し殺したような声。

根古は庭を横切った。


裏手に回った。

裏庭だった。

街灯の届かない暗がり。

三人の女が固まっていた。

西野千紗都、古田麻尋、星野由紀子。


三人の前に、男が一人立っていた。

五十代前後。細身だが、目が鋭い。手に何かを持っている。

男が三人に向かって低く言っていた。


「大人しくしてたら痛くはせん。東京まで来てもらうだけや」

西野が男を見据えていた。

怯えていなかった。しかし動けなかった。

古田と星野が西野の後ろに固まっていた。

根古は暗がりから歩み出た。

男が振り返った。


「誰や」


「通りすがりや」根古は言った。

男は根古を見た。


ヨレたTシャツ。ジャージ。冴えないオッサン。

男の目に油断が生まれた。


「引っ込んどれ、爺さん。関係ないやろ」

「関係ないな」根古は続けた。「でも」

一歩、踏み出した。


「この辺はワシの縄張りや」

男は舌打ちした。

「邪魔すんな」

男が根古に向かってきた。

速かった。

素人ではない動きだった。


根古は避けなかった。


男の手が根古の胸倉を掴んだ。

その瞬間、根古の右手が男の胸に触れた。

ぽん、と置くように。

男の目から光が消えた。

くずおれた。

音もなく。


根古は掴まれた胸倉を静かに外した。

服を直した。


三人の女が固まったまま、根古を見ていた。

西野千紗都が最初に口を開いた。

「根古さん、ですか」

「そうや」

「来てくれると思ってました」

「なんでや」根古は倒れた男を一瞥した。「ワシに頼るな、と言うたやろ」


西野は小さく笑った。

疲れた笑いだった。

「頼んでいません」

「そうやな」根古は言った。「たまたまや」


古田麻尋が星野由紀子の肩を抱いたまま、根古を見た。


二十三歳。細い体。目が赤かった。泣いていたのかもしれない。

「終わりましたか」古田が言った。

「警察が来たら、終わりや」根古は答えた。

星野由紀子が静かに言った。


四十歳。三人の中で一番落ち着いていた。

「私たちは、どうなりますか」

根古はしばらく黙った。


「それはワシが決めることやない」根古は静かに言った。

「でも、弁護士を紹介できる」

「弁護士」


「悪い人間やない。信用できる」


フェルナンドは根古の横に立ちながら、垂井美智子ミーコの名前が頭に浮かんだ。

根古さんの周りには、いつも適切な人間がいる。

遠くでサイレンが聞こえ始めた。


雨月が動いた。

西野は倒れた男を見た。

「この人は」

「しばらくしたら戻る」根古は言った。「死にはせん」

「そうですか」西野はため息をついた。長い、深いため息だった。「根古さん」


「なんや」

「ありがとうございました」

根古は答えなかった。


ジャージのポケットに手を入れて、夜空を見上げた。

雨上がりの空に、星がいくつか見えた。

サイレンが近づいてきた。


フェルナンドは根古の横顔を見た。

何も言わない。

何も表さない。


ただ静かに、夜空を見ていた。


この男は。

フェルナンドは思った。

本当に、とんでもない人間だ。

パトカーが路地に入ってきた。

雨月が車から降りてきた。


状況を見回して、根古を見た。

「根古さん」

「雨月」

「また、たまたまですか」


根古は答えなかった。

夜空を見たまま、缶コーヒーを取り出した。

ジャージのポケットから出てきた、どこかで買っておいた缶コーヒーだった。

プシュ、と開けた。


一口飲んだ。

雨月は苦笑いした。

フェルナンドも、思わず笑った。


三人組の女たちも、疲れた顔で、しかし少しだけ笑った。


夜の可児市に、サイレンの音と虫の声が重なって響いていた。


三人組は雨月に保護された。倒れていた男たちは、魂が戻るにつれてぼんやりと起き上がり、そのまま署に連行された。美濃加茂の倉庫の男も、榊原の手で任意同行となった。


根古はその間、何もしなかった。


パトカーの脇で缶コーヒーを飲んでいた。

雨月が最後に根古のところへ来た。

「根古さん、調書に」

「ワシは何も知らん」

「でも」


「たまたま通りかかっただけや」

雨月は言葉を飲み込んだ。


榊原が遠くから根古を見て、小さく頷いた。

根古も小さく頷いた。

それだけだった。


フェルナンドが根古の軽自動車に戻ると、根古はエンジンをかけなかった。

ハンドルに手を置いたまま、じっとしていた。

「根古さん」

「木曽川に寄る」

「今からですか」

「今からや」


夜の木曽川は、昼間とは別の顔をしていた。

水の音が大きく聞こえた。暗い流れが、街灯をわずかに反射している。

葦が風に揺れていた。

根古は土手を降りた。

フェルナンドは後をついていった。


葦の前に立った。

風が吹いた。


葦が揺れた。


その中から、かすかに声がした。

昼間に聞いたものと同じ声だった。


しかし今夜は、違う響きがあった。

昼間は何かを訴えるような声だった。


今夜は、どこか、疲れたような声だった。

根古は葦の前にしゃがんだ。

右手を、そっと葦に触れた。


剥がすのではない。

触れるだけだった。

静かに、何かを語りかけるように。


フェルナンドには根古の言葉は聞こえなかった。

口が動いているのだけがわかった。

何を言っているのか。

わからなかった。

しかし。


葦が、静かに揺れた。

風のない揺れ方だった。

まるで、頷くように。

根古の右手に、ほんの一瞬、淡い光が見えた。


フェルナンドは目を細めた。

光は葦の向こうへ、川の上へ、夜空へと、静かに溶けていった。

消えた。


葦が止まった。

声が、しなくなった。

完全な静けさだった。

川の流れだけが聞こえた。

根古はしばらくそのままでいた。

やがてゆっくりと立ち上がった。


ジャージの膝についた泥を、無造作に払った。

フェルナンドは聞いた。


「桐野さんですか」

「うん」

「行きましたか」

「うん」

「何を言ったんですか」


根古はしばらく黙った。

川を見ていた。

「お疲れさん、て言うた」

それだけだった。


フェルナンドは目が熱くなった。

こらえた。

根古は振り返らなかった。


しばらく二人で川を見ていた。

夜風が葦を揺らした。

今度は、ただの風だった。


エピローグ ラクカにて


翌朝、ラクカは静かだった。

根古はいつものカウンターにいた。


ヨレたTシャツ。ジャージ。缶コーヒー。

何事もなかったような顔をしていた。


ヤマトが膝の上で丸まっていた。

フェルナンドは向かいに座った。

太田マスターがコーヒーを出した。


しばらく誰も喋らなかった。

JAZZがかすかに流れていた。


太田マスターのラジオから、マイルス・デイヴィスのトランペットが静かに流れていた。

フェルナンドはコーヒーを一口飲んだ。


「根古さん」

「なんや」

「取材、やっぱり断りますか」


根古は缶コーヒーを持ったまま、少し間を置いた。

「断る」

「そうですか」

「ただ」根古は続けた。「また来てもええ」


フェルナンドは少し驚いた。

「また来てもいいんですか」

「ラクカのコーヒーは美味いやろ」根古はヤマトを撫でた。「それだけや」


太田マスターが微笑んだ。

フェルナンドはカメラバッグを膝に置いたまま、窓の外を見た。


六月の可児市。


梅雨の朝の光が、静かに街を照らしていた。

木曽川はいつも通り流れているだろう。

葦は風に揺れているだろう。

しかしもう、声はしない。


「根古さん」フェルナンドはもう一度言った。

「なんや」

「また来ます」

根古は答えなかった。


缶コーヒーを一口飲んだ。

ヤマトが緑色の目を細めた。

それで十分だった。


ラクカに、静かな朝が続いていた。


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