表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/23

工業団地の夜

夜中の一時過ぎに、電話が鳴った。


根古は布団の中で目を開けた。


ヤマトが根古の足元にいた。電話の音でも動かなかった。


スマホを見た。


雨月だった。


「なんや」


「可児市内の工業団地で死体が出ました」雨月は言った。「調整池に浮いていた。非公式でお願いしたい」


「今から来い。迎えに来い」


「……根古さん、自分で来てください」


「寝とったんや」


「五分で行きます」


電話が切れた。


根古は布団から出た。


ヤマトが根古を見た。


「留守番や」


ヤマトは返事をしなかった。


工業団地は可児市の外れにあった。


夜の工業団地は無機質だった。


工場の明かりが点在していた。駐車場に大型トラックが並んでいた。機械の低い音が、どこかから聞こえていた。人の気配はなかった。


雨月の車で奥へ進んだ。


調整池があった。


工業排水を管理するための池だった。フェンスで囲まれていた。街灯が一本だけあった。暗かった。


山本彩織巡査長が現場を押さえていた。


根古を見た。


「来てくれましたか」


「雨月が来いと言うた」


「私が呼びました」山本は言った。「雨月くんは渋りましたが」


根古は池を見た。


男が浮いていた。


うつ伏せだった。スーツを着ていた。眼鏡が水面に漂っていた。


右手が、じわりと熱くなった。


「……何日前や」


「昨夜から今朝の間と思われます。工場の夜警が今日の夕方に発見した」山本は言った。「身元はまだわかっていません」


根古は池の縁に立った。


水面を見た。


工場の明かりが、黒い水に映っていた。


「……この人間、知っとる気がする」


山本が根古を見た。「顔がわかりますか」


「顔やない」根古は言った。「雰囲気や。こういう雰囲気の人間を、最近感じた」


雨月が根古の隣に来た。


「最近というのは」


根古は答えなかった。


しばらく池を見ていた。


「引き上げてくれるか。触れたい」


男が引き上げられた。


四十代後半だった。細い体だった。眼鏡のフレームが曲がっていた。


外傷はなかった。


しかし手に、何かを握った跡があった。強く握りしめていた跡が、右手に残っていた。


根古はしゃがんだ。


男の眼鏡に、ゆっくりと右手を近づけた。


触れた。


暗転。


大学の研究室だった。


本が山積みになった机があった。


窓の外が暗かった。夜遅くまで仕事をしていた。


男がパソコンに向かっていた。


画面に、画像が映っていた。


根古は見た。


漆の箱だった。


黒塗りに金の細工。根古には見覚えがあった。


男がノートに何かを書いていた。


ページを開いた。


「玄廊」という文字が見えた。


男が電話を取った。


誰かと話していた。声が聞こえなかった。しかし表情が見えた。


怯えていた。


疲れていた。


電話を切った。


ノートを閉じた。


立ち上がった。


何かを決めた顔だった。


映像が変わった。


工業団地だった。


夜だった。


男が池の縁に立っていた。


手に小さな何かを持っていた。


後ろに、人影があった。


二人だった。


黒い服だった。


第十六話の夜??根古の家に来た連中と、同じ種類の気配だった。


男が振り返った。


何かを言った。


人影が近づいた。


男が池に落とされた。


水しぶきが上がった。


男の手が水面から出た。


何かを握りしめていた。


沈んでいった。


根古は眼鏡から手を離した。


立ち上がれなかった。


しばらく、池の縁にしゃがんだままでいた。


山本が根古の顔を見た。


「何が見えましたか」


「殺されとる」根古は言った。「池に落とされた」


雨月の顔が引き締まった。


「誰に」


「わからん。でも??玄廊や」根古は立ち上がった。「この人間、玄廊を調べとった。それで消された」


雨月と山本が目を見合わせた。


「身元を調べます」山本は言った。「今夜中に」


根古は池を見た。


「もう一つある」


「何ですか」


「この人間、落とされる前に何かを握りしめとった。池の底に何かある」


山本が動いた。


翌朝。


身元が判明した。


倉田俊介。四十七歳。私立大学の講師。専門は日本近世史。


雨月から根古に電話が来た。


「根古さん、神田誠一先生と同じ大学の同僚でした」


根古は電話を持ったまま、少し動かなかった。


「……やっぱりか」


「倉田さんの研究室のパソコンに、暗号化されたファイルがありました。令状を取って確認しました。中身は??玄廊の活動記録です。器物の収集リスト。関係者の名前。そして漆の箱の文字の解読メモ」


「神田さんの研究を引き継いどったんやな」


「はい」雨月は言った。「神田先生が失踪した後、一人で調べ続けていた」


根古は縁側に座った。


ヤマトが根古の膝に乗ってきた。


「犯人は」


「……わかりません」雨月の声が、少し沈んだ。「玄廊の関与は状況証拠としては見えますが、直接的な証拠がない。目撃者もいない。防犯カメラも死角です」


「立件は」


「難しい。今の段階では」


根古は電話を持ったまま、庭を見た。


春の木々が風に揺れていた。


「池の底は」


「今日、潜水班が入ります」


午後、雨月から連絡が来た。


USBメモリが見つかった。


池の底に沈んでいた。


倉田が最後まで握りしめていたものだった。


中身??倉田の研究データのバックアップ。玄廊の関係者リスト。神田の解読メモと、倉田が完成させた漆の箱の文字の解読データ。


根古:「そのデータ、ワシにも見せてくれるか」


雨月:「……非公式で、ですね」


根古:「当然や」


しばらく間があった。


「根古さん」雨月は言った。「犯人、捕まえられないかもしれません」


根古は答えなかった。


「玄廊という組織は、実態が掴めない。表向きは美術品の保存団体で、法的には何もやっていない。倉田さんを殺した人間が誰かは、わかっていても証明できない」


「……わかっとる」


「すみません」


「謝るな」根古は言った。「お前らは動いた。それでええ」


その夜。


根古は一人で工業団地に戻った。


雨月には言わなかった。


調整池の縁に立った。


フェンスの鍵は、昼間に雨月から借りていた。


夜の池は暗かった。


工場の明かりだけが水面に映っていた。


右手が静かに熱を持った。


根古は待った。


しばらくして、気配が来た。


穏やかだった。


怒りではなかった。


焦りだった。


伝えたいことがある、という強い焦りだった。


根古は池の縁に座った。


「聞いとる」根古は言った。「しゃべってみい」


倉田俊介の霊が、根古に触れてきた。


映像ではなかった。


知識だった。


神田が途中まで解読して、倉田が完成させた答えが、根古の中に流れ込んできた。


漆の箱の文字??「次の器の名前」。


それが何を意味するのか。


根古の顔が、わずかに変わった。


守護霊の山伏が、根古の隣で静かに頷いた。


根古:「……そういうことか」


倉田の霊が、静かになった。


消えかけた。


根古は言った。


「神田さんの分も、ちゃんと伝わった。ありがとう」


霊が、消えた。


根古は池を見た。


工場の明かりが水面に映っていた。


変わらない夜だった。


倉田が死んでも、工場は動いていた。機械の音が聞こえていた。


犯人は闇の中にいた。


証拠はなかった。


立件できなかった。


「……たまたまやない回もある」


根古は小さく言った。


誰も聞いていなかった。


守護霊たちは何も言わなかった。


根古は立ち上がった。


膝が冷えていた。


七 エピローグ

家に帰った。


ヤマトが玄関で待っていた。


根古を見た。


近づいてきた。


頭を押し付けてこなかった。


ただ、根古の足元に座った。


根古はしゃがんだ。


ヤマトを見た。


ヤマトが根古を見た。


「……ただいま」


ヤマトは鳴かなかった。


縁側に出た。


夜だった。


星が出ていた。


缶コーヒーを飲んだ。


倉田俊介という男のことを思った。


神田誠一が消えた後、一人で調べ続けた男のことを。


最後まで、USBメモリを手放さなかった。


池の底まで、握りしめていた。


「……ええ人やったんやろな」


誰も答えなかった。


ヤマトが縁側に来た。


根古の隣に座った。


今夜は、鳴かなかった。


二人で星を見た。


工業団地の夜は、遠かった。


翌朝、根古は由紀子に電話した。


「会いに来い。話がある」


由紀子:「何かわかりましたか」


「箱の文字の意味が、わかった」


電話の向こうで、由紀子が息をついた。


「……今から行きます」


根古は電話を切った。


缶コーヒーを飲んだ。


ヤマトが台所から出てきた。


餌の時間だった。


「わかっとる」


根古は立ち上がった。


先に餌をやってから、由紀子を待った。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ