工業団地の夜
一
夜中の一時過ぎに、電話が鳴った。
根古は布団の中で目を開けた。
ヤマトが根古の足元にいた。電話の音でも動かなかった。
スマホを見た。
雨月だった。
「なんや」
「可児市内の工業団地で死体が出ました」雨月は言った。「調整池に浮いていた。非公式でお願いしたい」
「今から来い。迎えに来い」
「……根古さん、自分で来てください」
「寝とったんや」
「五分で行きます」
電話が切れた。
根古は布団から出た。
ヤマトが根古を見た。
「留守番や」
ヤマトは返事をしなかった。
二
工業団地は可児市の外れにあった。
夜の工業団地は無機質だった。
工場の明かりが点在していた。駐車場に大型トラックが並んでいた。機械の低い音が、どこかから聞こえていた。人の気配はなかった。
雨月の車で奥へ進んだ。
調整池があった。
工業排水を管理するための池だった。フェンスで囲まれていた。街灯が一本だけあった。暗かった。
山本彩織巡査長が現場を押さえていた。
根古を見た。
「来てくれましたか」
「雨月が来いと言うた」
「私が呼びました」山本は言った。「雨月くんは渋りましたが」
根古は池を見た。
男が浮いていた。
うつ伏せだった。スーツを着ていた。眼鏡が水面に漂っていた。
右手が、じわりと熱くなった。
「……何日前や」
「昨夜から今朝の間と思われます。工場の夜警が今日の夕方に発見した」山本は言った。「身元はまだわかっていません」
根古は池の縁に立った。
水面を見た。
工場の明かりが、黒い水に映っていた。
「……この人間、知っとる気がする」
山本が根古を見た。「顔がわかりますか」
「顔やない」根古は言った。「雰囲気や。こういう雰囲気の人間を、最近感じた」
雨月が根古の隣に来た。
「最近というのは」
根古は答えなかった。
しばらく池を見ていた。
「引き上げてくれるか。触れたい」
三
男が引き上げられた。
四十代後半だった。細い体だった。眼鏡のフレームが曲がっていた。
外傷はなかった。
しかし手に、何かを握った跡があった。強く握りしめていた跡が、右手に残っていた。
根古はしゃがんだ。
男の眼鏡に、ゆっくりと右手を近づけた。
触れた。
暗転。
大学の研究室だった。
本が山積みになった机があった。
窓の外が暗かった。夜遅くまで仕事をしていた。
男がパソコンに向かっていた。
画面に、画像が映っていた。
根古は見た。
漆の箱だった。
黒塗りに金の細工。根古には見覚えがあった。
男がノートに何かを書いていた。
ページを開いた。
「玄廊」という文字が見えた。
男が電話を取った。
誰かと話していた。声が聞こえなかった。しかし表情が見えた。
怯えていた。
疲れていた。
電話を切った。
ノートを閉じた。
立ち上がった。
何かを決めた顔だった。
映像が変わった。
工業団地だった。
夜だった。
男が池の縁に立っていた。
手に小さな何かを持っていた。
後ろに、人影があった。
二人だった。
黒い服だった。
第十六話の夜??根古の家に来た連中と、同じ種類の気配だった。
男が振り返った。
何かを言った。
人影が近づいた。
男が池に落とされた。
水しぶきが上がった。
男の手が水面から出た。
何かを握りしめていた。
沈んでいった。
根古は眼鏡から手を離した。
立ち上がれなかった。
しばらく、池の縁にしゃがんだままでいた。
山本が根古の顔を見た。
「何が見えましたか」
「殺されとる」根古は言った。「池に落とされた」
雨月の顔が引き締まった。
「誰に」
「わからん。でも??玄廊や」根古は立ち上がった。「この人間、玄廊を調べとった。それで消された」
雨月と山本が目を見合わせた。
「身元を調べます」山本は言った。「今夜中に」
根古は池を見た。
「もう一つある」
「何ですか」
「この人間、落とされる前に何かを握りしめとった。池の底に何かある」
四
山本が動いた。
翌朝。
身元が判明した。
倉田俊介。四十七歳。私立大学の講師。専門は日本近世史。
雨月から根古に電話が来た。
「根古さん、神田誠一先生と同じ大学の同僚でした」
根古は電話を持ったまま、少し動かなかった。
「……やっぱりか」
「倉田さんの研究室のパソコンに、暗号化されたファイルがありました。令状を取って確認しました。中身は??玄廊の活動記録です。器物の収集リスト。関係者の名前。そして漆の箱の文字の解読メモ」
「神田さんの研究を引き継いどったんやな」
「はい」雨月は言った。「神田先生が失踪した後、一人で調べ続けていた」
根古は縁側に座った。
ヤマトが根古の膝に乗ってきた。
「犯人は」
「……わかりません」雨月の声が、少し沈んだ。「玄廊の関与は状況証拠としては見えますが、直接的な証拠がない。目撃者もいない。防犯カメラも死角です」
「立件は」
「難しい。今の段階では」
根古は電話を持ったまま、庭を見た。
春の木々が風に揺れていた。
「池の底は」
「今日、潜水班が入ります」
五
午後、雨月から連絡が来た。
USBメモリが見つかった。
池の底に沈んでいた。
倉田が最後まで握りしめていたものだった。
中身??倉田の研究データのバックアップ。玄廊の関係者リスト。神田の解読メモと、倉田が完成させた漆の箱の文字の解読データ。
根古:「そのデータ、ワシにも見せてくれるか」
雨月:「……非公式で、ですね」
根古:「当然や」
しばらく間があった。
「根古さん」雨月は言った。「犯人、捕まえられないかもしれません」
根古は答えなかった。
「玄廊という組織は、実態が掴めない。表向きは美術品の保存団体で、法的には何もやっていない。倉田さんを殺した人間が誰かは、わかっていても証明できない」
「……わかっとる」
「すみません」
「謝るな」根古は言った。「お前らは動いた。それでええ」
六
その夜。
根古は一人で工業団地に戻った。
雨月には言わなかった。
調整池の縁に立った。
フェンスの鍵は、昼間に雨月から借りていた。
夜の池は暗かった。
工場の明かりだけが水面に映っていた。
右手が静かに熱を持った。
根古は待った。
しばらくして、気配が来た。
穏やかだった。
怒りではなかった。
焦りだった。
伝えたいことがある、という強い焦りだった。
根古は池の縁に座った。
「聞いとる」根古は言った。「しゃべってみい」
倉田俊介の霊が、根古に触れてきた。
映像ではなかった。
知識だった。
神田が途中まで解読して、倉田が完成させた答えが、根古の中に流れ込んできた。
漆の箱の文字??「次の器の名前」。
それが何を意味するのか。
根古の顔が、わずかに変わった。
守護霊の山伏が、根古の隣で静かに頷いた。
根古:「……そういうことか」
倉田の霊が、静かになった。
消えかけた。
根古は言った。
「神田さんの分も、ちゃんと伝わった。ありがとう」
霊が、消えた。
根古は池を見た。
工場の明かりが水面に映っていた。
変わらない夜だった。
倉田が死んでも、工場は動いていた。機械の音が聞こえていた。
犯人は闇の中にいた。
証拠はなかった。
立件できなかった。
「……たまたまやない回もある」
根古は小さく言った。
誰も聞いていなかった。
守護霊たちは何も言わなかった。
根古は立ち上がった。
膝が冷えていた。
七 エピローグ
家に帰った。
ヤマトが玄関で待っていた。
根古を見た。
近づいてきた。
頭を押し付けてこなかった。
ただ、根古の足元に座った。
根古はしゃがんだ。
ヤマトを見た。
ヤマトが根古を見た。
「……ただいま」
ヤマトは鳴かなかった。
縁側に出た。
夜だった。
星が出ていた。
缶コーヒーを飲んだ。
倉田俊介という男のことを思った。
神田誠一が消えた後、一人で調べ続けた男のことを。
最後まで、USBメモリを手放さなかった。
池の底まで、握りしめていた。
「……ええ人やったんやろな」
誰も答えなかった。
ヤマトが縁側に来た。
根古の隣に座った。
今夜は、鳴かなかった。
二人で星を見た。
工業団地の夜は、遠かった。
翌朝、根古は由紀子に電話した。
「会いに来い。話がある」
由紀子:「何かわかりましたか」
「箱の文字の意味が、わかった」
電話の向こうで、由紀子が息をついた。
「……今から行きます」
根古は電話を切った。
缶コーヒーを飲んだ。
ヤマトが台所から出てきた。
餌の時間だった。
「わかっとる」
根古は立ち上がった。
先に餌をやってから、由紀子を待った。




