後悔の手で
一
朝だった。
由紀子が根古の家に来た。
千紗都と麻尋も一緒だった。
根古は台所でインスタントコーヒーを四つ作った。
全員分。
由紀子が根古の前に座った。
「昨日の話の続きです」
「わかっとる」根古はコーヒーを飲んだ。「漆の箱の文字の意味や」
「はい」
根古は三人を見た。
千紗都が地図を持っていた。
麻尋がノートを持っていた。
準備してきていた。
「先に言う」根古は言った。「箱の文字が示す次の器の名前??それは人間の名前やない」
由紀子が根古を見た。
「場所の名前や」
千紗都の手が、地図の上で止まった。
「……鳩吹山の旧鉱山跡と一致しますか」
根古は頷いた。
千紗都が地図を広げた。
テーブルの上に置いた。
「やっぱり」千紗都は静かに言った。「三つの場所が、一直線上にある」
千紗都が説明した。
石捨峠。沼田洞池。鳩吹山旧鉱山跡。
可児市と犬山市の境界に沿うように、三つの場所が並んでいた。
「石捨峠が鍵です。かつて鉱石を運んだ峠道で、玄廊がこの地域で活動した記録が残っています」千紗都は言った。「沼田洞池が鎮め。峠の麓にある古い池で、地元では底なしと呼ばれてきた。そして鳩吹山の旧鉱山跡が核心です。江戸期まで稼働していた鉱山で、廃坑後に坑道の一部が封じられた記録がある」
「誰が封じた」根古は聞いた。
千紗都は少し間を置いた。
「記録では??山の行者、とあります」
根古は手元のコーヒーカップを見た。
守護霊の山伏が、根古の後ろにいた。
何も言わなかった。
「三つが一つの封印システムを構成しています」千紗都は続けた。「石捨峠が鍵、沼田洞池が鎮め、鉱山跡が核心。どれか一つが崩れると、全体が崩れる」
「今、崩れかけとるんか」
由紀子が答えた。
「はい。玄廊が動いています。封じているのか、解放しようとしているのか??まだわかりません」
その時、根古のスマホが震えた。
ロドリゲス斎藤からLINEだった。
「おっさん、石捨峠の動画撮りに行ったら変なもん見た」
「洞窟みたいな場所に、黒い服の連中がおった」
「写真撮った」
根古は由紀子を見た。
由紀子は根古を見た。
根古はスマホに返信した。
「今すぐ来い」
五分後、斎藤が玄関から入ってきた。
首からカメラを下げていた。息が上がっていた。
部屋を見回した。
「……全員集合やな」
千紗都が立ち上がった。「見せてください」
斎藤がカメラの画面を向けた。
石捨峠の斜面だった。
木々の間に、隠れた坑道の入口があった。
黒い服の男たちが四、五人いた。
何かを運び込んでいた。
大きな箱だった。
「……玄廊や」由紀子が言った。
「封印を強化しとるのか」根古は言った。「それとも??」
「解放しようとしているのか」千紗都が続けた。
斎藤が根古を見た。「おっさん、どっちや」
「行かんとわからん」
斎藤は腕まくりをした。
「よし、行こか」
由紀子が斎藤を見た。
「あなたは一般人です。危険です」
「バイヤーやで」斎藤は言った。「この辺の地形は頭に入っとる。穴場さんぽで何度も来とる。案内なしで行けるか?」
由紀子は少し間を置いた。
「……頼みます」
斎藤:「……由紀子さん、初めて頼りにしてくれた」
由紀子:「次はないと思ってください」
斎藤:「ですよね」
根古はヤマトを見た。
ヤマトが根古を見た。
「留守番や」
ヤマトは答えなかった。
二
軽自動車と斎藤の車の二台で向かった。
石捨峠への道は細かった。
斎藤が先を走った。
脇道を知っていた。舗装が切れた場所も知っていた。どこで車を停めれば監視に気づかれないかも知っていた。
峠の手前で車を停めた。
「ここからは歩きや」斎藤は言った。「抜け道がある。昔、撮影で使うた道や」
全員が降りた。
四月の山だった。木々が新緑になりかけていた。
斎藤が先頭に立った。
由紀子が後ろについた。
根古は最後尾を歩いた。
右手が、歩くにつれて熱くなっていった。
じわり。
じわり。
じわり、と。
「……近い」
斎藤が振り返らずに言った。「もう少しや」
木の間を抜けた。
岩肌が見えた。
斎藤が手を上げて、全員を止めた。
「おった」
岩の影から覗いた。
坑道の入口があった。
古い石組みで固めてあった。玄廊の男たちが三人いた。
荷物を運び終えたらしく、立っていた。
根古は気配を感じた。
坑道の奥から来ていた。
重かった。
古かった。
目覚めかけていた。
「……急ぐ必要がある」根古は小声で言った。
由紀子が根古の隣に来た。
「三手に分かれます」由紀子は小声で言った。「沼田洞池が同時に動いている可能性がある」
「千紗都さんを池に回せ」根古は言った。「峠の入口は斎藤と麻尋に押さえてもらう。ワシと由紀子さんで鉱山の奥へ行く」
麻尋が根古を見た。「わかりました」
斎藤が根古を見た。「俺ら二人で足りるか?」
「足りんかったら叫べ」
「……わかった」
千紗都がスマホで池の方向を確認した。「行きます」
千紗都が音もなく離れた。
三
斎藤と麻尋が峠の入口を押さえに動いた。
根古と由紀子が坑道へ向かった。
玄廊の男たちが気づいた。
二人が根古たちに向かってきた。
由紀子が前に出た。
根古はそのまま坑道へ走った。
後ろで格闘の音がした。
振り返らなかった。
由紀子を信用していた。
坑道の中は暗かった。
スマホのライトをつけた。
石の壁が続いていた。
空気が冷たかった。
江戸期から続く坑道だった。何百年もの時間が壁に染み込んでいた。
根古の右手が、激しく熱を持った。
足が止まりそうになった。
歩いた。
奥へ進んだ。
やがて、開けた場所に出た。
坑道が広くなっていた。
中央に、古い封印があった。
石を積み上げたものだった。御幣が立てられていた。しかし御幣は朽ちていた。石組みの一部が崩れていた。
崩れた隙間から、何かが滲み出ていた。
形がなかった。
しかし確かにそこにいた。
古かった。
鬼岩の荒神より、はるかに古かった。
「……お前は」
根古は言葉を止めた。
感じた。
怒りではなかった。
後悔だった。
深い、長い、底のない後悔だった。
根古は動かなかった。
後悔とはどういうことか、根古は考えた。
場所に宿るものが後悔を持つとはどういうことか。
怒りや引力や意思なら、今まで相手にしてきた。
でも後悔は??人間のものだ。
「……ここで、何があったんや」
守護霊の山伏が、根古の隣に来た。
いつもの位置だった。
しかし今夜は??前に出た。
根古の前に立った。
封印の核心に向かった。
頭を下げた。
低く、深く、頭を下げた。
根古は山伏を見た。
山伏が語りかけ始めた。
言葉が聞こえなかった。
しかし根古には流れ込んでくるものがあった。
映像だった。
江戸期より前だった。
この場所に、男がいた。
山伏の格好をしていた。
若かった。
男は何かを封じようとしていた。
強い存在だった。
封じるには、代償が必要だった。
男は迷った。
迷って??決めた。
自分の手を、封印の石に押し当てた。
右手だった。
そして封じた。
完全に封じた。
男は封印の前に倒れた。
動かなかった。
映像が消えた。
根古は封印の前に立っていた。
山伏がまだ頭を下げていた。
根古は言った。
「……お前がやったんか」
山伏は答えなかった。
根古は続けた。
「お前が封じた。右手を使って。そしてここに残った」
山伏が顔を上げた。
根古を見た。
その目に、根古は初めて見るものを見た。
後悔だった。
長い、長い後悔だった。
「……何を後悔しとるんや」
山伏は答えなかった。
でも根古には伝わってきた。
封じたことではなかった。
封じ方だった。
完全に封じたつもりだったが??完全ではなかった。
ほんの少しだけ、残した。
意図的に残した。
それが何百年後に、こうして目覚めかけている。
「……それがお前の後悔か」
山伏は根古を見ていた。
根古は封印に向き直った。
「わかった」
右手を上げた。
根古の右手の熱が、封印の核心に向かっていった。
魂剥離ではなかった。
山伏がやったことと??同じことをしようとしていた。
補完だった。
山伏が残した隙間を、根古の右手で塞ぐことだった。
「……手伝えよ」
山伏が根古の隣に立った。
二人の手が??根古の右手と、山伏の右手が??封印に向かった。
重なった。
激しい熱が来た。
根古の体が、震えた。
膝が笑った。
立っていられなかった。
それでも動かなかった。
右手を封印に向け続けた。
やがて??目覚めかけていたものが、静かになっていった。
後悔が??消えなかった。
ただ、眠りについた。
封印が、安定した。
根古は膝をついた。
右手が燃えるように痛かった。
山伏の気配が、根古の傍にあった。
「……山伏」
根古は床の石に手をついたまま言った。
「お前、何百年ここにおったんや」
山伏は答えなかった。
「封じた後、ここを離れられんかったんか」
答えなかった。
「……そうか」
根古は顔を上げた。
封印を見た。
安定していた。
「お前が根古家に憑いたのは??ここを直す人間を探しとったからか」
山伏は、初めて小さく頷いた。
根古は少し間を置いた。
「……ご苦労さんやったな」
その時、由紀子が坑道に入ってきた。
スマホのライトを持っていた。
根古の姿を見て、駆け寄った。
膝をついた根古の顔を見た。
「終わりましたか」
「終わった」
「大丈夫ですか」
「寝込む。三日は動けん」
由紀子は根古の右手を見た。
震えていた。
昨年の第十三話の夜と同じように??由紀子は根古の右手を両手で包んだ。
少しだけ。
根古は由紀子を見た。
由紀子は根古を見た。
何も言わなかった。
それだけだった。
四
外に出た。
峠の入口で、斎藤と麻尋が玄廊の二人を押さえていた。
斎藤が擦り傷だらけだった。
「おっさん、終わったか」
「終わった」
「よかった」斎藤は地面に座り込んだ。「これ、バイヤーの仕事やないで」
「ご苦労さん」
「……カレー奢ってくれるか」
「奢ったる」
麻尋が根古を見た。
「根古さん、大丈夫ですか」
「大丈夫やない。でも生きとる」
麻尋が小さく笑った。
千紗都から連絡が来た。
「沼田洞池、落ち着きました。水の色が戻っています」
由紀子が電話を受けた。
「わかった。合流して」
全員が合流した。
五人で峠の入口に立った。
夕暮れが近かった。
西の山が橙色になっていた。
斎藤が立ち上がった。
「俺の車、五人乗りやから」
千紗都が斎藤を見た。「よう知っとったな」
「バイヤーやもん。段取りは大事や」
根古は峠を振り返った。
石捨峠。
何百年も前から、この場所を守ろうとした男がいた。
後悔を抱えたまま、ここに残っていた。
「……山伏」
根古は小声で言った。
守護霊の山伏の気配があった。
いつもより近くにいた。
「……一つだけ聞く。お前の名前はなんや」
山伏は答えなかった。
でも今夜は??答えなかったことが、まだ言えないという意味に感じられた。
「わかった。急がん」
根古は斎藤の車に向かった。
五 エピローグ
帰り道。
斎藤の車に五人乗った。
しばらく誰も喋らなかった。
山道を下りた。
国道に出た。
斎藤がカーラジオをつけた。
演歌が流れた。
麻尋が窓の外を見ていた。
千紗都が目を閉じていた。
由紀子が、根古を見た。
根古は前を向いていた。
由紀子:「根古さん」
根古:「なんや」
「山伏の守護霊が、この地の封印と繋がっていた。あなたが鍵です。玄廊もそれを知っている」
根古は前を向いたまま言った。
「……ワシ、温泉行きたかっただけなんやが」
斎藤が笑った。
麻尋が笑った。
千紗都が、かすかに笑った。
由紀子だけが笑わなかった。
でも窓の外を見る目が、少し和らいだ。
根古はそれを見なかった。
見ていたかもしれないが、見なかった。
家に帰った。
ヤマトが玄関で待っていた。
根古がしゃがむと、頭を押し付けてきた。
二回。
「ただいま」
ヤマトは答えなかった。
布団に入った。
右手が痛かった。
天井を見た。
山伏の後悔のことを思った。
何百年も、ここにいた。
誰にも言えないまま。
一人で抱えたまま。
「……そういう後悔もあるんやな」
守護霊の山伏が、根古の頭上にいた。
今夜はいつもより近かった。
根古は目を閉じた。
「……ゆっくり聞かせてくれ。急がんから」
山伏は答えなかった。
でも根古には、この守護霊がいつもより少しだけ、軽くなった気がした。
ヤマトが根古の胸の上に乗ってきた。
重かった。
「……どかんでええ」
ヤマトは動かなかった。
根古は目を閉じた。
春の夜だった。
石捨峠から遠く離れた場所で、根古は眠った。




