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後悔の手で

朝だった。


由紀子が根古の家に来た。


千紗都と麻尋も一緒だった。


根古は台所でインスタントコーヒーを四つ作った。


全員分。


由紀子が根古の前に座った。


「昨日の話の続きです」


「わかっとる」根古はコーヒーを飲んだ。「漆の箱の文字の意味や」


「はい」


根古は三人を見た。


千紗都が地図を持っていた。


麻尋がノートを持っていた。


準備してきていた。


「先に言う」根古は言った。「箱の文字が示す次の器の名前??それは人間の名前やない」


由紀子が根古を見た。


「場所の名前や」


千紗都の手が、地図の上で止まった。


「……鳩吹山の旧鉱山跡と一致しますか」


根古は頷いた。


千紗都が地図を広げた。


テーブルの上に置いた。


「やっぱり」千紗都は静かに言った。「三つの場所が、一直線上にある」


千紗都が説明した。


石捨峠。沼田洞池。鳩吹山旧鉱山跡。


可児市と犬山市の境界に沿うように、三つの場所が並んでいた。


「石捨峠が鍵です。かつて鉱石を運んだ峠道で、玄廊がこの地域で活動した記録が残っています」千紗都は言った。「沼田洞池が鎮め。峠の麓にある古い池で、地元では底なしと呼ばれてきた。そして鳩吹山の旧鉱山跡が核心です。江戸期まで稼働していた鉱山で、廃坑後に坑道の一部が封じられた記録がある」


「誰が封じた」根古は聞いた。


千紗都は少し間を置いた。


「記録では??山の行者、とあります」


根古は手元のコーヒーカップを見た。


守護霊の山伏が、根古の後ろにいた。


何も言わなかった。


「三つが一つの封印システムを構成しています」千紗都は続けた。「石捨峠が鍵、沼田洞池が鎮め、鉱山跡が核心。どれか一つが崩れると、全体が崩れる」


「今、崩れかけとるんか」


由紀子が答えた。


「はい。玄廊が動いています。封じているのか、解放しようとしているのか??まだわかりません」


その時、根古のスマホが震えた。


ロドリゲス斎藤からLINEだった。


「おっさん、石捨峠の動画撮りに行ったら変なもん見た」

「洞窟みたいな場所に、黒い服の連中がおった」

「写真撮った」


根古は由紀子を見た。


由紀子は根古を見た。


根古はスマホに返信した。


「今すぐ来い」


五分後、斎藤が玄関から入ってきた。


首からカメラを下げていた。息が上がっていた。


部屋を見回した。


「……全員集合やな」


千紗都が立ち上がった。「見せてください」


斎藤がカメラの画面を向けた。


石捨峠の斜面だった。


木々の間に、隠れた坑道の入口があった。


黒い服の男たちが四、五人いた。


何かを運び込んでいた。


大きな箱だった。


「……玄廊や」由紀子が言った。


「封印を強化しとるのか」根古は言った。「それとも??」


「解放しようとしているのか」千紗都が続けた。


斎藤が根古を見た。「おっさん、どっちや」


「行かんとわからん」


斎藤は腕まくりをした。


「よし、行こか」


由紀子が斎藤を見た。


「あなたは一般人です。危険です」


「バイヤーやで」斎藤は言った。「この辺の地形は頭に入っとる。穴場さんぽで何度も来とる。案内なしで行けるか?」


由紀子は少し間を置いた。


「……頼みます」


斎藤:「……由紀子さん、初めて頼りにしてくれた」


由紀子:「次はないと思ってください」


斎藤:「ですよね」


根古はヤマトを見た。


ヤマトが根古を見た。


「留守番や」


ヤマトは答えなかった。


軽自動車と斎藤の車の二台で向かった。


石捨峠への道は細かった。


斎藤が先を走った。


脇道を知っていた。舗装が切れた場所も知っていた。どこで車を停めれば監視に気づかれないかも知っていた。


峠の手前で車を停めた。


「ここからは歩きや」斎藤は言った。「抜け道がある。昔、撮影で使うた道や」


全員が降りた。


四月の山だった。木々が新緑になりかけていた。


斎藤が先頭に立った。


由紀子が後ろについた。


根古は最後尾を歩いた。


右手が、歩くにつれて熱くなっていった。


じわり。


じわり。


じわり、と。


「……近い」


斎藤が振り返らずに言った。「もう少しや」


木の間を抜けた。


岩肌が見えた。


斎藤が手を上げて、全員を止めた。


「おった」


岩の影から覗いた。


坑道の入口があった。


古い石組みで固めてあった。玄廊の男たちが三人いた。


荷物を運び終えたらしく、立っていた。


根古は気配を感じた。


坑道の奥から来ていた。


重かった。


古かった。


目覚めかけていた。


「……急ぐ必要がある」根古は小声で言った。


由紀子が根古の隣に来た。


「三手に分かれます」由紀子は小声で言った。「沼田洞池が同時に動いている可能性がある」


「千紗都さんを池に回せ」根古は言った。「峠の入口は斎藤と麻尋に押さえてもらう。ワシと由紀子さんで鉱山の奥へ行く」


麻尋が根古を見た。「わかりました」


斎藤が根古を見た。「俺ら二人で足りるか?」


「足りんかったら叫べ」


「……わかった」


千紗都がスマホで池の方向を確認した。「行きます」


千紗都が音もなく離れた。


斎藤と麻尋が峠の入口を押さえに動いた。


根古と由紀子が坑道へ向かった。


玄廊の男たちが気づいた。


二人が根古たちに向かってきた。


由紀子が前に出た。


根古はそのまま坑道へ走った。


後ろで格闘の音がした。


振り返らなかった。


由紀子を信用していた。


坑道の中は暗かった。


スマホのライトをつけた。


石の壁が続いていた。


空気が冷たかった。


江戸期から続く坑道だった。何百年もの時間が壁に染み込んでいた。


根古の右手が、激しく熱を持った。


足が止まりそうになった。


歩いた。


奥へ進んだ。


やがて、開けた場所に出た。


坑道が広くなっていた。


中央に、古い封印があった。


石を積み上げたものだった。御幣が立てられていた。しかし御幣は朽ちていた。石組みの一部が崩れていた。


崩れた隙間から、何かが滲み出ていた。


形がなかった。


しかし確かにそこにいた。


古かった。


鬼岩の荒神より、はるかに古かった。


「……お前は」


根古は言葉を止めた。


感じた。


怒りではなかった。


後悔だった。


深い、長い、底のない後悔だった。


根古は動かなかった。


後悔とはどういうことか、根古は考えた。


場所に宿るものが後悔を持つとはどういうことか。


怒りや引力や意思なら、今まで相手にしてきた。


でも後悔は??人間のものだ。


「……ここで、何があったんや」


守護霊の山伏が、根古の隣に来た。


いつもの位置だった。


しかし今夜は??前に出た。


根古の前に立った。


封印の核心に向かった。


頭を下げた。


低く、深く、頭を下げた。


根古は山伏を見た。


山伏が語りかけ始めた。


言葉が聞こえなかった。


しかし根古には流れ込んでくるものがあった。


映像だった。


江戸期より前だった。


この場所に、男がいた。


山伏の格好をしていた。


若かった。


男は何かを封じようとしていた。


強い存在だった。


封じるには、代償が必要だった。


男は迷った。


迷って??決めた。


自分の手を、封印の石に押し当てた。


右手だった。


そして封じた。


完全に封じた。


男は封印の前に倒れた。


動かなかった。


映像が消えた。


根古は封印の前に立っていた。


山伏がまだ頭を下げていた。


根古は言った。


「……お前がやったんか」


山伏は答えなかった。


根古は続けた。


「お前が封じた。右手を使って。そしてここに残った」


山伏が顔を上げた。


根古を見た。


その目に、根古は初めて見るものを見た。


後悔だった。


長い、長い後悔だった。


「……何を後悔しとるんや」


山伏は答えなかった。


でも根古には伝わってきた。


封じたことではなかった。


封じ方だった。


完全に封じたつもりだったが??完全ではなかった。


ほんの少しだけ、残した。


意図的に残した。


それが何百年後に、こうして目覚めかけている。


「……それがお前の後悔か」


山伏は根古を見ていた。


根古は封印に向き直った。


「わかった」


右手を上げた。


根古の右手の熱が、封印の核心に向かっていった。


魂剥離ではなかった。


山伏がやったことと??同じことをしようとしていた。


補完だった。


山伏が残した隙間を、根古の右手で塞ぐことだった。


「……手伝えよ」


山伏が根古の隣に立った。


二人の手が??根古の右手と、山伏の右手が??封印に向かった。


重なった。


激しい熱が来た。


根古の体が、震えた。


膝が笑った。


立っていられなかった。


それでも動かなかった。


右手を封印に向け続けた。


やがて??目覚めかけていたものが、静かになっていった。


後悔が??消えなかった。


ただ、眠りについた。


封印が、安定した。


根古は膝をついた。


右手が燃えるように痛かった。


山伏の気配が、根古の傍にあった。


「……山伏」


根古は床の石に手をついたまま言った。


「お前、何百年ここにおったんや」


山伏は答えなかった。


「封じた後、ここを離れられんかったんか」


答えなかった。


「……そうか」


根古は顔を上げた。


封印を見た。


安定していた。


「お前が根古家に憑いたのは??ここを直す人間を探しとったからか」


山伏は、初めて小さく頷いた。


根古は少し間を置いた。


「……ご苦労さんやったな」


その時、由紀子が坑道に入ってきた。


スマホのライトを持っていた。


根古の姿を見て、駆け寄った。


膝をついた根古の顔を見た。


「終わりましたか」


「終わった」


「大丈夫ですか」


「寝込む。三日は動けん」


由紀子は根古の右手を見た。


震えていた。


昨年の第十三話の夜と同じように??由紀子は根古の右手を両手で包んだ。


少しだけ。


根古は由紀子を見た。


由紀子は根古を見た。


何も言わなかった。


それだけだった。


外に出た。


峠の入口で、斎藤と麻尋が玄廊の二人を押さえていた。


斎藤が擦り傷だらけだった。


「おっさん、終わったか」


「終わった」


「よかった」斎藤は地面に座り込んだ。「これ、バイヤーの仕事やないで」


「ご苦労さん」


「……カレー奢ってくれるか」


「奢ったる」


麻尋が根古を見た。


「根古さん、大丈夫ですか」


「大丈夫やない。でも生きとる」


麻尋が小さく笑った。


千紗都から連絡が来た。


「沼田洞池、落ち着きました。水の色が戻っています」


由紀子が電話を受けた。


「わかった。合流して」


全員が合流した。


五人で峠の入口に立った。


夕暮れが近かった。


西の山が橙色になっていた。


斎藤が立ち上がった。


「俺の車、五人乗りやから」


千紗都が斎藤を見た。「よう知っとったな」


「バイヤーやもん。段取りは大事や」


根古は峠を振り返った。


石捨峠。


何百年も前から、この場所を守ろうとした男がいた。


後悔を抱えたまま、ここに残っていた。


「……山伏」


根古は小声で言った。


守護霊の山伏の気配があった。


いつもより近くにいた。


「……一つだけ聞く。お前の名前はなんや」


山伏は答えなかった。


でも今夜は??答えなかったことが、まだ言えないという意味に感じられた。


「わかった。急がん」


根古は斎藤の車に向かった。


五 エピローグ

帰り道。


斎藤の車に五人乗った。


しばらく誰も喋らなかった。


山道を下りた。


国道に出た。


斎藤がカーラジオをつけた。


演歌が流れた。


麻尋が窓の外を見ていた。


千紗都が目を閉じていた。


由紀子が、根古を見た。


根古は前を向いていた。


由紀子:「根古さん」


根古:「なんや」


「山伏の守護霊が、この地の封印と繋がっていた。あなたが鍵です。玄廊もそれを知っている」


根古は前を向いたまま言った。


「……ワシ、温泉行きたかっただけなんやが」


斎藤が笑った。


麻尋が笑った。


千紗都が、かすかに笑った。


由紀子だけが笑わなかった。


でも窓の外を見る目が、少し和らいだ。


根古はそれを見なかった。


見ていたかもしれないが、見なかった。


家に帰った。


ヤマトが玄関で待っていた。


根古がしゃがむと、頭を押し付けてきた。


二回。


「ただいま」


ヤマトは答えなかった。


布団に入った。


右手が痛かった。


天井を見た。


山伏の後悔のことを思った。


何百年も、ここにいた。


誰にも言えないまま。


一人で抱えたまま。


「……そういう後悔もあるんやな」


守護霊の山伏が、根古の頭上にいた。


今夜はいつもより近かった。


根古は目を閉じた。


「……ゆっくり聞かせてくれ。急がんから」


山伏は答えなかった。


でも根古には、この守護霊がいつもより少しだけ、軽くなった気がした。


ヤマトが根古の胸の上に乗ってきた。


重かった。


「……どかんでええ」


ヤマトは動かなかった。


根古は目を閉じた。


春の夜だった。


石捨峠から遠く離れた場所で、根古は眠った。

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