霧雨の血
「親父が……?」
頭から冷水を浴びせられたような気分だった。心臓は狂ったように早鐘を打ち、暖かいはずの室内から急速に温度が失われていく。熱に浮かされたように意識がぼやけ、まとまらない思考が頭の中に渦巻いていた。
「そんな……嘘でしょう?」
私ほどではないにしろ、霊夢も相当な衝撃を受けているようだった。両の目を驚愕に見開き、霖之助を見つめている。
「僕も冗談だと思いたいが……本当だよ」
目を伏せた表情で、霖之助は告げる。その沈痛な面持ちが、彼の言の真実性を何より証明していた。
「朝に知らせを受けてね。あの親父さんが倒れるなんて信じられなかったけど……思いのほか病状は深刻で、もう三日も寝込んでいるらしい。永遠亭の八意先生もいろいろと手を尽くしてくれているけど、予断を許さない状況だ」
霖之助の淡々とした物言いからは、ここで自分が取り乱してはいけないという確かな意志が感じられた。しかしそんな彼の言葉も、私にはほとんど届かない。
いまの私は、たとえ頬を張られてもそうとは気づけないほどに混乱していた。整合性を失った思考は嵐のように荒れ狂い、まるで収拾がつかない。
いままで目をそらし続けていた家族の問題。いつかどうにかしなければならないと思っていて、その実、考えることをできうる限り避けていた親父との確執。それがいまになって怒涛のように押し寄せてきたのだ。
忘れもしないあの日、親父との激しい口論の末に私は勘当され、家を追い出された。言うなればその時から、私は霧雨家の人間ではなくなったのだ。そのことのみを考えるのなら、私に赤の他人を心配する義理はない。親父がどこで倒れようが死ぬことになろうが、それに関わることができるのは身内の人間か、あるいは霖之助のようなごく限られた知人だけだ。
でも、そうじゃないのだ。
人間は理屈だけで動く生き物じゃない。いくら家族の縁を切られたからといって、そこではいそうですかといままでのすべてを忘れられるほど、私は合理的にできていないのだ。
私と親父が血の繋がった親子であるという事実は、何があっても変わらない。心配なものは心配なのだ。私はどうしても自分の気持ちに嘘がつけなかった。
なのに、どうして私はこんなに迷うのだろう。親父を見舞いに行きたいのなら行けばいいのに、それでも私の中に住まうもう一人の自分が頑としてそれを許さない。相対する思いは無為なぶつかり合いを演じて、こんなにもやるせなかった。
いますぐにでも親父のところに行くと言って聞かない霊夢を、霖之助がもう遅いからという理由でたしなめる。もっともな彼の意見に霊夢はどうにか踏みとどまったが、その瞳はじれったそうに窓の外を見つめ続けていた。
「香霖。私は、どうしたらいい……?」
どれだけ考えても、答えは一向に私を導いてはくれなかった。ならばと私は、誰より霧雨の家庭事情を理解してくれている霖之助にすがったのだった。
眼鏡の奥の切れ長な瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「それは君が自分の意志で決めることだよ、魔理沙」
「そんな……」
にべもない台詞は、まったく私の予想だにしないものだった。
覚悟を決めて親父の見舞いに赴くか、それとも無視を決め込むか。その判断を、霖之助は私の胸一つに委ねるというのだ。いっそ手を引いていってくれとも思うのに、彼の見出した答えはどこまでも私の中にあるのだった。
「これは霧雨家の問題だ。僕みたいな一介の道具屋が口を挟んでいいことじゃない。だから——どれだけ苦しくても、これは君が考え、決断し、答えを出さなければいけないことなんだ。遅かれ早かれ、君はこの問題に——親父さんに向き合う必要があった」
「…………」
本当ならすぐにでも実家に帰りたい。しかしその思いを縛る過去のしがらみが、がんじがらめに私の決断を鈍らせていた。
過去のできごとに捉われず、いまの自分を見つめる。そんな格好いい決め台詞が吐ければどれだけ楽かと思う。けれど私には無理だった。
そんな強さを、私は持っていないから。
「少し……考えさせてくれ」
だから、いまの私に言えるのはせいぜいがこの程度だった。何とも情けない自分に、苛立ちさえ感じる。
握り締めてくしゃくしゃになった写真を机の上に置き、私は香霖堂の入り口へと歩を進める。
「どこに行くの、魔理沙」
「頭を冷やしてくる」
霊夢の問いに短く答え、私はノブを回す。
「魔理沙」
背中にかけられた声。振り返ることはせず、立ち止まることで私は霖之助に聞く意思を表明する。
「親父さんの容態は深刻とはいえ、いますぐ命に関わるほどのものじゃない。けれどいつ急変するかはわからないんだ。決断するまでの時間はあまりないと思ってくれ」
「……ああ」
「いまだに霧雨の名を背負っている君を、僕は信じているよ」
「…………」
信じている、だなんて。
何てずるい物言いだろうと思いつつ、私は香霖堂を後にした。