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《今なら逃げられる》と編集長は不意に思った。《今、例の牛の化物はいない。彼女も油断している……。あの扉から部屋の外へ出られれば、自由になれる!》
「あら、お逃げになりたいの?……別に、逃げてもよろしくてよ、そうしたいのなら」男の表情を読み取り、少女は涼しい顔で言った。「もう少し、お話ししたかったけれど!」
「そういうことなら、おいとまさせてもらう!」
禿頭は勢いよくパイプ椅子から立ち上がると、腹を突き出し、全速力で扉まで駆けた。少女は相変わらず平気な顔でその様子を見ている。男は扉までたどり着くと、あまりにも妨害がないことを不安に思い、息を切らしながら訊ねた。
「いいんだな?……本当に行っちまうぞ!」
「たったいま言いましたでしょう、お好きなようになさいませ」少女は男には興味なさげに、自分の手の爪をまじまじと見つめている。
「それじゃあ、さらば! 短い間だったが、昔話なんかもできて、まあ楽しかったよ! このことは記事に書かせてもらう!」
そう叫んで彼は部屋から飛び出した。
どこまでも続いていそうな長い廊下を全速力で駆ける、駆ける、駆けていく……。
だが一向に出口は現れない。左右には無数の扉が規則正しく並んでいる。なぜだかその様子は立ち並ぶ墓石を思わせた。
編集長は一つ身震いして独りごちた、「おかしいな、方向を間違えたか?……それにしても変だ、この廊下はあんまり長すぎる!……本当に無限に続いているんじゃなかろうか……?」
そう言い終えた次の瞬間、右の扉の一つが開け放たれ、牛頭――力と呼ばれていた――がそこからぬっと現れた。牛頭は編集長を見るとニタリと笑った。
「ひえっ!」
禿頭は踵を返して、もと来た道を走り出した。もう年だとおもっている自分でも、驚くほどの速さだった。
しばらくすると、再び右方(つまり先ほどとは反対の位置)の扉から牛男が出てきた。
咄嗟に後ろを振り返る。やはりそこにもニタニタと笑いながら近づいてくる牛頭が。前を見る、三たびニタニタ笑う牛頭……。
彼の意識はそこで途切れた。
気が付くとまたパイプ椅子に座っている。結局、俺は捕まったのか?……しかし、考えてみると、汗一つかいていないし、疲労感もない。あれほど走ったんだ、もう年だから、本当ならだいぶこたえているはずだ……それが……やっぱり、ただ眠っていただけのような感じもする……。
「お気づきになりました?」少女もまた目の前に座っている。何も変わらない。
「俺は夢を観ていたのか?」ベテラン編集長は目をパチクリとさせた。
「悪い夢を観ていたのですわ。しかたありませんわ、疲れていらっしゃるんですもの……」
「いや、違う、違う!」男は喚いた。「断じて違う! あんたが何かしたんだろう? わかってるぞ! 俺はきっと、怪しげな術に誑かされたんだ……話が違うじゃないか、俺は自由じゃなかったのか?」
「あなたが自由なら、私も何をしようが勝手ですわ」と少女は微笑した。
「こりゃまいったな!……あくまでも、俺はあんたらと仲良く談笑してなきゃあならないと言うんだな……」
「物分かりがいいですわね。でも、これはあなたのためでもありますのよ」
「どういうことだ?」
「この世界には、悪魔よりも恐ろしい輩がいるということですわ。Aと近しいあなたも、狙われる可能性がありますの……」
「悪魔より恐ろしい?……そんな奴らいるのか?……俺はそんな奴らとお近づきになった覚えはない!」
「私たちも、まだ確実なことは何も言えませんの。だけれど、私たちが目覚めたということは、相当の悪党がのさばり始めた、ということですの」
「あんたら、今まで寝てたのか?」
「ええ。……そうですわね、十年くらい寝ていましたわ」
「それはそれは、健康的だな!」男は言ってからやけくそに笑った。《もう何でもこい!》
そのとき、奇妙なことが起こった。彼の視界はぐにゃりと歪み、くらくらと眩暈がした。吐き気さえ覚えた。聞きなれた声が鼓膜をうつ――「助けてください! 助けてください! 僕はここにいます!」思わず頭を抱え、呻いた。
「いかがしましたの?」少女が心配そうに訊ねる。
すると幻聴は消え、吐き気も眩暈も去った。《今のはなんだ? なんだか、マネージャーの声に似ていたな……》
「いや、なんでもない……でも、知っている声が聞こえた……なんだか、助けを求めているようだった……」
「いいですこと……」少女は神妙に囁いた。「どうやら、神……いや、Aという存在を中心にして、彼に関係ある人々が、なにか目に見えない糸のようなものでつながっているような気がいたしますの。それが単なる『絆』とか『縁』というようなものなのか、あるいは誰かが張った『蜘蛛の巣』なのかは、判然としないのですけれど……」
「ああ!……記憶喪失のあいつを拾った時から、なんだかこんなことになるような気はしてたんだ! なにか秘密があるとは思ってたが……ここまで大事になるとはな……」禿頭は大きくため息を吐いた。
「やはり、彼には過去の記憶が無かったのですわね?」と少女は確かめるように訊いた。
「無かった。あの物語作者は、過去の記憶をすっかり忘れていたんだ。あいつの生い立ちやらなんやらも調べたが、どうやら金持ちの息子だったってことくらいしかわからなかった……いま思えば妙な話だ、人一人の素性があんなにつかめないだなんて! なにか圧力がかかっていたとしか……それに、あいつの才能は本物だと思ったから、俺も詳しく調べなかったんだ……あいつには悪いことをした……」
「記憶が戻ったら、彼がどこかに行ってしまうような気がして?」
「そうだ。『謎の覆面作家』ということにしたから、あいつの唯一覚えていた名前を使っても、誰も正体に気づく読者もいなかった。変わった名前だしな……まあ、今じゃ、少しくらい本を読む人間なら、だれでも知っているほどの名前にはなったがね……」
「……記憶を失ったことが、今回の悲劇の遠因になったのですわ。いえ、直接の原因といってもいいかもしれません」
「どういうことだ?」
「編集長さん、驚かずにお聞きになって……Aが創り上げてしまった悪魔というのは……その名を『宮田』と『盥屋』といいますのよ」
編集長は目玉がぽろりと落ちそうになるほど目を見開き、「宮田に、盥屋だって?……久しぶりにその名前を聞くな……しかし忘れもしない……あれは俺の担当した事件だったからな……あの『芸術的テロリズム』事件は……偶然というわけでもないだろうな……特に盥屋なんて名前、滅多にあるもんじゃない」
「目覚めてから、この世界のことをよく調べましたわ。そうしたら、あの二人に関する事件の数々が次々と目に入るでしょう?……驚きましたわ、寒気すらしましたわ……まさかあの悪魔たちの原型になった人物がいたなんて……それに、彼らもまた、同じように世の中を騒がせていたなんて……」
「ちょっと待て、悪魔どもはなにか事件を引き起こしているのか? 聞いた限りだと、まだAのやつを追っかけているだけのような気がするが」
「それは、こちらの世界での話ですわ。『ヴェクサシオンの世界』では、彼らはきっと大きな混乱を招く所業を重ねるはずですわ。いえ、もうすでにしているかも……」そう言った少女の顔に僅かだが影が差した。
「でも、待てよ」編集長は首を傾げて、「いったい、Aとあの二人(もちろん原型の方)の間に、何の関係があるんだ?……Aはノンフィクション・ライターじゃない。実際の事件をもとにして小説を書くことは、ほとんどないんだ。多くは荒唐無稽な、おとぎ話の類さ……まあ、それが受けるといえば受けるんだが……。とにかく、あんな奴らについて何か書こうなんて気持ち、Aは持ち合わせてなかったはずだ……」
「それは」少女は人差し指を立てて、「おそらく彼の過去に関係があるのですわ。私たちもそのことについて調べたのですけれど、収穫は乏しいものでしたわ。あなたの時と同じで、何らかの情報操作が行われているような……それがどういう意味か、今ははっきりとした答えを持たないのですけれど」
「ああ!」禿頭は嘆息した。「謎は深まるばかり。いったいにこの事件、収拾がつくのか?」




