それは特別な名前
日が暮れるまで商会で忙しくしていた私は、タウンハウスに戻った後、夕食を終えて部屋に帰るころには疲れ切っていた。
コナに支えられながらお風呂を済ませ、やっとの思いでベッドに入る。そんな私をやれやれと言った顔で彼女は見つめた。
「お嬢様、お疲れさまでした。本当に、私のお嬢様は手を抜くことをなさらないので、コナは心配です」
私にかけた布団を整えながらコナは小さくため息を吐いた。
そんな彼女を見返した私の口からは、ふふっと笑い声が漏れてしまい、より一層その顔は渋くなる。
「笑い事ではないのですよ。はぁ……もっと気を遣うようにとレイモンドに伝えておきます」
そんな言葉を聞けば、私の笑みはますます深くなる一方だ。
『レイモンドを窘めるなんて、コナくらいね』
そんな言葉を心の中で言いながら、彼女の手を握る。
幼い頃、いつも忙しかった両親の代わりに、彼女のこの手が私を眠りへと誘った。今でもそれは変わらず、特にこうしてちょっと疲れてしまったときには、とても安心するのだ。
私はその手の温もりを感じたまま、目を閉じる。
「お休みなさいませ、お嬢様」
しばらくして、部屋の明かりを消してコナが出ていくのを待ち、私は目を開けた。
身体はとても疲れているはずなのに、寝られなかった。
久しぶりの商会本部での仕事は楽しかった。タウンハウスの書斎や学園のラウンジでは感じられない特別な活気は、私のやる気にも大いに作用した。
そう……楽しかったのだ。
なのに、今、ベッドに入って思い出すのは、ランドルフ様が見知らぬ女性をエスコートしている後ろ姿だった。
連れていた女性がランドルフ様の想い人だろうか。フェリシア嬢の言った家族の集まりに連れていくほどの。フェリシア嬢との婚約を断ったのは、この女性のためだと示すため?
ドレスを贈られた夜会の時から、言葉の端々で私のことを望んでいると感じられた。だから、私自身もランドルフ様の婚約者として立つ未来を、一つの可能性として考えていたのだ。
そして現状は、王家からの正式な申し入れは、今もコランダムには届いていない。他の申し入れは任せるが、これだけは私に知らせず断らないと、お父様にもお兄様にも約束させたのだから間違いない。
フェリシア嬢との婚約は否定し、心に決めた人がいるとランドルフ様は言っていた。想いを遂げられないなら、身分を捨てるとも……。
当然だが、私の立場からどうするつもりかなどと、ランドルフ様や王家に問い合わせるなど出来るはずもない。
それに、言葉では何とでも言える。本心はそこになくても、君を望んでいるということなど、政略結婚なら言えるだろう。
だから、政治的な駆け引きの中で、辺境伯家との繋がりを確保しつつ、想い人を向かえ入れる算段でもしているのだろうかと、私は疑い始めている。
ランドルフ様はそんな不誠実な人ではないと否定する心と、王家としての立場や今日見た景色から考えられるあれこれが、絡まった糸のように固まっていく。
ここでどんなに考えても答えの出ないことなのに、考えることをやめられない。
オニールのそういう場面を見た時は、確かに心がチクリと痛んだ。だが、それだけだった。なのに、今は、目を閉じるとあの場面が浮かんできて、ジクジクと膿んだ傷跡を抉られているような痛みが襲ってくる。
「自覚した時が、失恋の時って、私ったら流石に気の毒ではないかしら」
もしかしたら、そうではないかもしれないと心のどこかで思いながら、期待するほど違ったときの失望が大きいのも分かっている。
だから、今は9割の諦める心と、1割の期待する心くらいがいいのかもしれない。少しだけ、割り切るまででもいいから想い続けてもいいだろうか。
漸くその気持ちに落ち着いた頃には、すでに空は白んでいた。
明日、いや、今日が週末でよかった。
寝不足でもなんとかなるし、何より、今はランドルフ様と会う勇気はないから。
そうして眠りに落ちていった私は、久しぶりに夢を見た。
『……泣かないで』
この景色はコランダムの領地だ。
訓練場の隅で膝を抱えて泣く私。その日は久しぶりにお父様に稽古をつけてもらっていたけれど、上手くいかずに悔しくて悔しくて、訓練が終わった後も部屋に帰らずそこでうずくまっていた。思い出せば出すほど涙があふれてきてどうしようもなくなっていた時に、誰かが隣に座った。
『あなた、だあれ? 初めて見る顔ね』
突然、現れたその子の髪が空と同じ色をしていて、きれいな色だと思った私の涙は、いつの間にか止まっていた。
『僕はランドルフっていうんだ。この前、おじい様たちの屋敷に来たんだよ』
『まぁ、あなたがおじい様たちの新しい子供ね。ん~、おじい様の子供は、お父様ときょうだい? だから、私のおじ様になるのかしら? でも、あなた、私と同じくらいの歳よね? おじ様なんて呼べないわ』
私の言葉に藍色の大きな目をパチリと瞬きした彼は、次の瞬間、笑い出した。
『うん、僕も君におじ様とは呼ばれたくないな。名前でいいよ』
『えっと、じゃぁ、ランドルフ? でもちょっと長くて言い難いわ。そうね……ルフ、ルフはどう?』
ん~と悩む彼は首を横に振る。
『ルフはお兄様たちが僕を呼ぶときのものだから、違うのがいい。君と僕だけの特別な呼び名』
『特別……特別な、う~ん、何がいいかしら。あなたはどう呼ばれたいの?』
『僕にはもう一つの特別な名前があるんだけれど、それは僕のお嫁さんになる人にしか伝えられないんだ。お母様との最後の約束だったから。だから、それを聞くと、君は僕のお嫁さんにならないといけないよ』
『じゃぁ、それはやめとくわ』
『だめなの?』
『ダメよ。だって、お嫁さんになるっていうことは、私とあなたが結婚するってことでしょう? お父様やお兄様がきっと許さないわ。それに……』
『それに?』
『あなたのこと、まだ全然知らないもの。結婚っていうのはね、お父様とお母様みたいに、愛し合った者同士でするものなのよ? だからダメよ』
『どうしても?』
何故、彼がそこまでこだわるのかは分からなかったけれど、特別な名前、そう言われた私は一つだけ思い出した。
お父様だけが知るその名は、私が言葉にしても、聞く資格のある人にしか伝わらないらしい。聞く資格のある人というのが誰なのか、お父様にも分からないらしい。まして、幼い私には理解できるはずもなかった。
ただ、特別な名前と言われたときに、何故だか真っ先にそれが浮かんだのだ。
『じゃぁ、私の特別な名前も教えてあげる。もし聞こえたなら、あなたの特別も聞いてあげるわ』
少しだけ驚いて、だけど綺麗にほほ笑んだ彼は力強く頷いた。
『ルクレツィア……聞こえた?』
『ルクレツィア、君の特別な名前はルクレツィア』
『そうよ、聞こえたのね。約束よ。あなたのも聞かせて』
『僕の名前は……』
その時、ざぁっと強い風が吹いて、私は咄嗟に顔を覆った。
「お嬢様、もうお日様が真上に来てしまいましたよ。そろそろ起きないと、セシル様とシリル様に乗り込まれますよ」
部屋のカーテンを開けながら、コナが私に向かって声を掛けていた。
自分の顔を覆っていた手をどけると、柔らかな日差しが部屋に入り、コナの困ったような顔を照らしている。
「もう、そんな時間?」
未だ夢の中から抜け出せないまま、ぼぅっとした頭で、コナの顔を眺める。
「えぇ、いつもの時間に一度参りましたが、お休みでしたので、レイモンドに予定を確認して、そのままに……。しかし、そろそろ、お二人がそわそわしていらっしゃいましたので、再度参ったしだいです」
「今日は、セシルお兄様もお休みできたのね」
「えぇ、今日は殿下のお呼びがなくなったからだとか」
「……そう」
ランドルフ様に基づく何かしらが、すべて昨日の風景に結びついていくようで、私は苦笑を浮かべるしかなかった。
「お嬢様……?」
そっと、ため息をついて、今度はぐっと背伸びをする。
結局のところ考えていてもどうしようもなかった。
とりあえず、夢の内容を覚えているうちに、お父様にも聞いてみよう。おそらく、これはただの夢ではなく、私の幼い頃の記憶だろうと思っている。
私の特別な名前がどんな意味を持つのか、今なら少しだけお父様も教えてくれそうな気がする。
「流石にお腹が空いたわ。コナ、今日の昼食は何かしら?」
「詳しいメニューは私も存じ上げませんが、料理長が新しいレシピを手に入れたと言っておりましたので、きっと期待できますよ」
「じゃぁ、早くいかなくちゃね」
「はい、お嬢様」
そのためにも、まずはお腹を満たさないといけないわ。
料理長自慢の新しい料理に想いを馳せながら、私はベッドを降りた。
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