ベリーの記憶
ザイオンを殺した百足男の話になります。
本編第三部3-14「復元」の直後です。
痛い。
物凄く痛い。
慣れ親しんだ森の中を、這いずって逃れながら、百足男は心の中で悲鳴を上げていた。
あれは駄目だ。
人間の形をしているが、人間じゃない。
素速さだけが自分の取り柄だから、こちらの動きに追いついてくるような、戦闘能力の高い化け物には敵わない。
(父さん……助けて、父さん!)
恐怖と痛みのあまり、百足男は父を呼ぶ。
彼、百足男を作り出した禁断の魔術師は、もうこの世にはいない。
死がどういうものか、百足男は知っている。
これまでに百足男は、父の命令で多くの命を奪ってきたから。
それでも、父ほどの強い存在が死んでしまったなんて、百足男は未だに信じることができない。
(金眼の悪魔め……)
燃え上がる父の姿を、百足男は思い出した。
金眼の悪魔の棲む家に、父は潜入しようとして失敗した。
悪魔の飼っている恐ろしい龍が、父を燃やした。
百足男の、唯一の家族を──
身体を分断された直後、どうにか森の中に潜り込んだ百足男は、茂みに潜んで銀の髪の怪物を窺っていた。
逃げて行った足の方を銀の髪の怪物は見ている。
下半身の方が、高さがあるから目立つ。
頭がないので、追いかけられたら易々と捕まるだろう。
百足男は石を拾った。
全く関係のない茂みに放り投げたのに、銀の髪の怪物はそちらを無視して、真っ直ぐに百足男のいる辺りを見た。
(まずい)
急いで茂みの奥に潜り込む。
そのままじっと息をひそめて、待った。
怪物はウロウロと茂みの周囲を探していたが、百足男のいる場所はわからなかったようで、諦めて離れていった。
(足を探してくっつけないと)
充分に時間が経ってから、百足男は移動し始めた。
廃拠点を囲むように繁茂している深い森は、彼の庭のようなものだ。
そう簡単に見つかりはしない。
だが、何か変だと彼は感じていた。
あの男、銀の髪の怪物に百足男は一度殺されたような記憶がある。
父の仇である、金眼の悪魔を倒した時のことだ。
瓦礫が大量に降ってきて、魔法障壁で防いでいたら、魔力切れを起こした。
銀の髪の怪物に、目をナイフで突き刺された。
だがそれより一瞬早く、百足男の爪が金眼の悪魔を切り裂いていた。
手応えはあった。
吹き出した大量の血を、確かに目にした。
なのに全てが夢だったかのように、その直後、気が付いたら森の中にいた。
侵入者が現れたと気づいて駆け付けた、廃拠点のすぐ外だ。
そこから様子を窺っていたことは覚えている。
広場からここまで、移動してなどしてはいないはずなのに。
なぜ再びこの場所に戻ってきているのか?
混乱しているところに、銀髪の怪物が探しに来た。
逃げようとしたのに、それよりも速くあの怪物は動いた。
訳がわからないうちに、身体が二つに分かれていた。
足が勝手に動いたのは、直前に、巣に逃げ込もうと考えていたせいだろう。
切断された神経がその意思を遂行して、そちらに向かったんだ。
足と反対方向に逃げた百足男は、大回りして巣を目指した。
(足は、くっつくだろうか)
父が生きていたら、くっつけてくれただろう。
だが、もう父はいないのだ。
百足男は再び、悲しみと恐怖、そして強い憎しみに打ち震える。
あの時は逃げることしかできなかった。
だが今日、偶然にも憎い仇と遭遇して、復讐を果たすことができた。
金眼の悪魔が浮かべた、驚いた顔を百足男は思い出して、うっすらと嗤った。
奴は、近付いても全く気づかなかった。
死ぬとわかった瞬間、あの悪魔はどんな気持ちになったかと考えていると、百足男の気持ちは少し晴れた。
(僕はやったよ、父さん)
彼は満足だった。
このまま、たとえ死ぬことになっても。
百足男が異形の怪物だと知って近付いてくる者は、これまでにいなかった。
父だけが、彼の家族だった。
(いや……一人だけ、いたな。近付いてきた者が)
今よりもずっと幼い頃の記憶が蘇った。
好奇心から外に出た百足男は、森で迷ったのだ。
父の言いつけを守らなかったことを、百足男は後悔した。
父も百足男も、異形の怪物だ。衣服で身体を隠せば人間に擬態することはできるが、バレたら狩られる。
絶対に人に近付いてはならない。父が不在の時は、巣から出てはならないと言い聞かされていたのに。
一日中森の中を歩き回ったあげく、魚の焼ける良い匂いにつられて、川原に辿り着いた。
百足男はとてもお腹が空いていた。
思い返せば、前日の昼に父が餌箱に入れておいてくれた乾燥肉が最後の食事だ。
川原には一人の少年がいて、魚を焼いているところだった。
殺してでも奪おう。
そう思って、近付いていくと、少年が振り返った。
「お前も家出してきたのか?」
長いものを突きつけられて、百足男は身構えたが、目の前には串刺しの焼けた魚があった。
「食べろよ」
少年は、屈託なく笑っていた。
「調子に乗って採り過ぎたんだ」
考えるには、腹が空き過ぎていた。
受け取ってむしゃぶりつきながら、見知らぬ相手にどうしてあんな風に笑いかけられるのかと、百足男は不思議に思った。
彼は今、薄布しか羽織っていない。
腹の部分には、節くれ立った前肢が何本も突き出ている。突き出た部分はむき出しなので、一目で異形の者とわかるはずだ。
「何が傍系のエルフ族だ」
少年は食べながら、一人で愚痴っている。
十歳ぐらい──作られて八年経つ百足男よりも少し年上に見えた。
「どうして力の使い方を、他人に決められなくてはならない? 俺は俺だ。なあ、お前もそう思うだろう?」
少年は緑色の髪をしていた。
人族ではなく、エルフ族だ。
迂闊に攻撃しなくて良かった、と百足男は思う。
エルフ族は魔法が使える。
傍系なら使える魔法も多種多様だ。
エルフ族は外見と実際の年齢が乖離しているので、実は成人だという事もあり得た。
返り討ちにあって、呆気なく死んでいたかもしれない。
こんな森の奥に一人でいる、ということは、相当自分の強さに自信があるのだろう。
夕暮れを迎えて、川の水面がキラキラと輝いていた。
百足男は二つ目、三つ目と串をもらいながら、少年の愚痴を聞き続けた。
「傍系のエルフ族は、無冠のエルフたちを守りながら、直系のエルフに従わなくてはならないそうだ。せっかく強い魔力を持って生まれてきたのにさ。ひたすら人のために生きるなんて──母さんはいつもそうやって忙しくして、俺が病気になってもそばに居てくれないんだ」
少年は、汁気たっぷりのベリーも分けてくれた。
「これ、甘酸っぱくて美味いぞ」
食べながら、百足男は頷いた。
「うま……い。うま……」
「お前、喋れるのか」
少年はゴワゴワした百足男の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「俺はね……」
少年はふいに涙ぐんだ。
「お前みたいな弟がいて、母さんがいて、父さんがいて。そんな普通の生活が欲しかっただけなんだよ。傍系だからっていうだけで、どうしてバラバラに暮らさなくちゃいけないのか、わからないんだ」
弟。
自分が人間だったら、あの少年は家族に迎えてくれただろうか。
そんなもしもの話を考えたって、何の役にも立たない。
食事が終わると少年は帰っていって、百足男も自分の巣に戻った。
外に出たことがバレて父に叱られ、殴られたような気がするが、随分昔のことでよく覚えていない。
森の奥にある巣に辿り着くと、そこに足がいた。百足男は足を抱き締めた。
(痛い……痛いよぅ)
一晩中傷口を合わせて、押さえていた。
だが、傷口はくっつかずに、朝になると下半身は動かなくなっていた。
心臓がなくて、体液が行き渡らないからだ。
上半身も、下半身がないと栄養がとれなくて、いずれは死ぬだろう。
下半身の千切れた部分に手を入れて、百足男は、冷たくなった内臓を撫でた。
(父さん……)
父を亡くした今、百足男を助けてくれる者などいない。
(痛い……寒い……)
このまま暗い巣穴で、誰にも知られずに朽ちていくのか。
そう思うと、無性に悲しくなった。
彼は死期を悟り、巣穴から這い出る。
長い時間をかけて森を進み、彼は川原に辿り着いた。
あれから何度か来てみたが、一度もあの少年とは会わなかった。
下流に、石で囲った焚き火の痕がある。
その傍で、百足男は力尽きた。
甘酸っぱい、ベリーの味。
……食べたのはあれきりだったが、美味しかった。
名前も知らぬ少年の顔が、思い浮かんだ。
あの時、もっと上手く喋れたら。
弟にしてくれと、言えただろうか?
視界が次第に暗くなっていく。
痛みはもう、遠くへ消えていた。
閉じることのできない彼の眼球が、光を失う前に人影を捉えた。
薄れていく意識の中で、誰かが、ゴワゴワな彼の髪を撫でてくれた気がした。
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