始まり
父の運転する車の窓の外を見たことのない景色が流れていく。街灯やネオンが虚しく光って見えた。
(これからどうなるのだろうか…)
12歳になったばかりの僕は必死に頭を廻らせた。
「ひろゆき。」
父が小さな声で呟いた。独り言なのか、自分を呼んでいるのか迷うようなか細い声だった。
運転席の父の横顔を無言で見ていると、父が続けてこう言った。
「兄貴なんだから、しっかりするんだぞ。」
この時不安が確信になった。
「うん。」
出来るだけ元気に返事をしたつもりだったが、涙が溢れだした。
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「もう母さんは帰ってこない。」
数年ぶりに家に帰って来た父は開口一番そう言った。
「嘘だ!」
「嘘じゃない。もう帰ってこない。」
そう言うと、父が荷物をまとめはじめた。
僕は直ぐに母に電話をかけた。
(おかけになった電話は…)
無表情なガイダンスが流れる。
「分かっただろ。さあ、行くぞ。かずきはどこや?」
呆然と立ち尽くす僕に父が問う。
「かずき!」
父の声に弟のかずきが走って現れた。かずきは根っからの父親っ子だ。久々の再開に笑顔が溢れる。
「父さんと出かけよう。」
「うん!」
6歳下のかずきは状況を知らず、ニコニコとしている。
「お前はどうする?」
鋭い視線と言葉が僕に突き刺さる。
「嫌だ!」
「父さんももう帰ってこないぞ。生きていけると思うのか?」
小六の僕にはとてつもなく重い言葉だった。
母さんは帰ってくる。僕らを置いたまま出ていったりしない。そう信じてはいたが、もしかすると…という思いが拭いきれなかった。
そうして、僕らは家を出た。
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「着いたぞ。」
いつの間にか眠っていた僕の体を揺すりながら父は言った。
「今日はここに泊まれ。」
窓の外を見ると、校舎の様な建物があった。
僕は、それが"今日"だけでないことは分かっていた。
父に連れられその建物に入ると職員が笑顔で迎え入れた。
「こんばんは。」
緊張と不安から言葉が出ない。
「あら、緊張してるかな?」
その後、部屋に案内され暫くすると父が現れた。
「頼むぞ。」
そう言って僕の頭に手を置いた。
「明日…」
「宜しくお願いします。」
僕の言葉を遮る様に父は職員に言った。
弟は事態が飲み込めていないのだろう。部屋にあるおもちゃで呑気に遊んでいる。
(終わった)
そう思った。
その晩不安で一睡も出来なかった。ただ、涙は出なかった。
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小学校最後の夏休み。サッカークラブに入っていた僕は最後の大会を控え、今まで以上に張り切っていた。弱小チームの僕らの目標はとにかく1勝する事。これまでは負けて当たり前という空気であったのだが、最後という事で皆目の色を変えた。
毎日朝からお昼まで練習があり、片道1時間を自転車で帰る。肌はチョコレートのように焼けている。
家に帰り昼食を済ませると、今度は自転車で弟を迎えに保育園に向かう。
3年前の夏休みから繰り返されている日常だ。
両親は、僕が小四になった直後に離婚をした。少し特殊なのだが、元々家族で住んでいた家に親権は父が持ち母と暮らすという形だった。
ただ、僕が中学校、弟が小学校に上がるのを節目に親権を母に移し、母の実家に引っ越す事になっていた。
その際に親権が問題となった。父は親権を譲らないと主張しており、母は調停を起こした。その事を僕は事細かに聞いていた。
そして、あの日を迎えたのだ。
「今日はちょっと遅くなるから、かずきのこと宜しくね。何かあれば電話してね。」
「分かった。」
「遅くても6時には帰るからね。」
母はそう言って調停に向かった。
サッカー、弟の迎えと日課を終え母の帰宅を待った。
しかし、6時になっても母は帰らなかった。心配になった僕は母に電話をしたが、
(おかけになった電話は…)
と、ガイダンスが流れるだけ。
7時過ぎ、チャイムが鳴った。母が帰って来たと思い玄関に向かうと、そこに立っていてのは父だった。
「もう母さんは帰ってこない。」