かたちのないものについて 05.
バレンタインのチョコレートはおおむね好評だった。
私のように「チョコレートくらい好きなときに渡せばいい」という人もいたし、目を細めて「すてきね」とチョコレート買う人もいた。
そして私は前者のように口では言いつつ、結局、後者のようにチョコレートを用意した。
バレンタイン用の包装紙に包まれた、カリタスの宝石のようなチョコレート達。包装紙以外はいつもとなにも変わらないけれど、私はここよりもおいしいチョコレートショップを知らないので仕方ない。
「ジャンさん、出かけてきますね」
休日、いつもよりずいぶん遅い時間に起き出してリビングへやってきたジャンさんへ声をかける。ジャンさんは、作り込まれた私の顔とおろしたてのワンピースを見て、「あの男のところか」と不機嫌そうな声を出した。
「はい」
「……あんなことがあった後なのに、お前は相変わらず能天気だな」
「へへ、まあ」
「褒めてねーぞ」
寝ぐせのついた頭をぼりぼりと掻きながら、ジャンさんはソファーにどかりと腰を下ろした。
例の事件の後、カリタスに戻った私を、ジャンさんは信じられないくらいの強さで抱きしめた。あまりの強さで骨が軋む音さえ聞こえてきそうなほどだった。感動の再会であることも忘れて「痛いよ! 離して!」と、ショコラティエには不必要なほど付いた腕の筋肉を叩いていたが、「……無事か?」と漏れ出た声があまりに憔悴しきっていたので、大人しく抱かれることにした。「無事だよ」と返すと、腕の力は少しだけ弱まった。
「……おかえり、リズ」
「ただいま、ジャンさん」
「ゆっくり休め」
「……うん」
父親の声に促され、私はそのまま目を閉じ、次に目が覚めたのは2日後だった。
「まだ休んでろ」という声を無視し、すっかり片付いていたカリタスに立ったのは3日後からだ。ジャンさんは呆れ顔だったが、怪我はないので問題ない。
店に立って接客をしているほうが、ずいぶん気楽だった。
けれど、ジャンさんに死ぬほど心配をかけたのは事実だ。
「というわけで、ジャンさん!」
「あ?」
「これどうぞ!」
まだ半分眠りの中のジャンさんの前に、包みを差し出した。
「……なんだこれ?」
「バレンタインのプレゼントですよ、ジャンさん」
ジャンさんは驚いた顔でそれを受け取った。「開けてください」と両手で示すと、ジャンさんは丁寧に包装紙をはがして、箱を開けた。
「ほー、コーヒー豆か」
箱の中には可愛らしいデザインの紙袋が6つ。中にはそれぞれ種類が違う豆が入っている。
「随分高級な豆まで……高かっただろ」
「いえ! 全然。ジャンさんへの気持ちを表わすには安すぎるくらいでしたよ」
ふざけて言うと、ジャンさんは「それもそうだな」と笑った。
「……ジャンさん、いつもありがとう」
「おう」
「それから、心配かけて、ごめんなさい」
「ん」
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
お互いに頭を下げて、なんだか照れ笑い。
長く二人でいるけれど、こうやって改まって感謝の言葉を口にすることは少ない。気恥ずかしいけれど、こういうきっかけがなければ言わないので、バレンタインデーも悪くない。
「じゃあ、そろそろ出ますね」
「おう。また変な道に入るんじゃないぞ」
「はい」
「気を付けてな、リズ」
「はぁい。行ってきます!」
◇
足取り軽やかに、ブライスさんの家へと向かう。
まだ冬は終わらない。人々は、冷たい空気から身を隠すように、背中を丸め早足で過ぎていく。
レオーニさんは、まだ店には顔を出さない。彼の安否が気がかりだったけれど、「生きてるぞ」とジャンさんが教えてくれたので、ほっとしている。店に来てくれたら、マシュマロと生クリームをたっぷり乗せたホットチョコレートを飲みながら、カリタスのおいしいチョコレートを紹介したい。
いつか、二人で笑える日は来ると思う。
そして、あの猫の行方も探している。あれから何度か街に出てみたけれど、まだ見つかってはいない。実は、正直なところ、もう見つからないような気もしている。でも、もし会えたら、たくさん撫でて「ありがとう」と言おうと思う。
今日も結局、猫には合えないまま、気が付くとブライスさんの家の前だった。
いつものように呼び鈴を鳴らすと、すぐにルイスさんが顔を出す。
「よお、お嬢ちゃん。体調はどうだい?」
「ルイスさんこんにちは。おかげさまで、すっかり元気です」
「そうか、それはよかった」
挨拶もそこそこに、いつものように3階のブライスさんの私室へと案内される。
ノックをすると、内側から扉が開いた。「リズ」と柔らかな声と共に浮かべられた笑顔で、私の心は毎度のごとく高鳴る。我ながら単純極まりない。
「こんにちは、ブライスさん!」
「寒かっただろう」
「大丈夫です。いただいたマフラーのおかげでいつも暖かいです!」
元気いっぱいですよと笑うと、ブライスさんが視線を合わせ私の鼻先に小さなキスを落とした。
「鼻、真っ赤だよ」
死んだ。
いや、正確には死んでいないけれど、心の中で私が胸を抑えて倒れている。ときめきの暴力によって完膚なきまでに倒された哀れな私が。
「さあ、どうぞ」
「あ、は、はい」
けれど今日はこんなことで死んでいる場合ではない。今日は決死の覚悟で来た。
自分に気合を入れなおし、ブライスさんにエスコートされ部屋の中央に置かれたテーブルセットに腰かける。テーブルの上にはすでにティーセットが、淡い色の花が挿された花瓶と一緒に用意されている。ブライスさんのきれいな手がポットから私のカップに優雅な手つきで紅茶を注ぐ。フルーツのいい香り。
「いい香りだろ」
「はい」
「リズっぽいなって、選んだんだ」
「あ、は、はい」
こういう時の正解は、多分、「そうなんですか、ありがとう、嬉しい」とほほ笑むことだ。でも、できない。美しい銀髪に縁取られた花のような笑顔を向けられて、そんな余裕ぶれる人間がいるなら教えて欲しい。
どぎまきしながら紅茶を一口飲んで、私は鞄の中に忍ばせておいたチョコレートを取り出し、机に置いた。
「……あの!」
「うん?」
「チョコレートを持ってきたんです!」
「うん」
やけに元気のいい声が出た。
ブライスさんは、そんな私を見て不思議そうに首を傾げる。
そりゃそうだ。私がここに来る時の手土産の99%はうちのチョコレート。わざわざ気合を入れるのも変な話。
「……うちの、チョコレートです」
「うん。そうだね?」
そんなことを言いたいんじゃないのに。
わざわざ見れば分かることを、改めて口にしながら、自分の情けなさに乾いた笑い声が漏れた。
ブライスさんの表情もますます陰る。
「どうしたの?」
「いや、その……あの……お、おいしいチョコレートです」
「うん。知ってるよ、リズ」
ブライスさんはうちの店の超常連。そんなこと今更言われたって、困ってしまうだろう。分かっている。わかっているのに、思っていることが口から出ない。
とりあえず食べなよ、と促されるままにチョコレートつまんで口に運んだ。宝石のように完璧に美しいチョコレートは、割れると中からどろりとしたものが溢れた。どうしよう、味が全然分からない。
全力疾走でもしているかのように心臓がバクバク音を立てている。ブライスさんに聞こえているんじゃないだろうかと不安になる。
「いえ、その、つまり」
「つまり?」
「ば、バレンタインデーです」
「……バレンタイン?」
ブライスさんはきょとんとした後、すぐに「ああ」と答えを引っ張り出した。
「なんだっけ、誰かが殺された日だったかな」
「え!?」
予想もしていなかった物騒な答えに、私は思わず食べかけのチョコレートを落とした。
「大切な人に贈り物をする日だって、聞きました、けど……」
「贈り物?」
ブライスさんはすぐに「そっちか」と笑った。
「ずいぶん古い風習の話だね」
「はい。わざわざ日を決めてチョコレートを贈るなんて、少し変な気もしますけど……」
「なるほど、それでチョコレートか」
「はい」
「いいね、嬉しい。ありがとう」
「いえ……」
ブライスさんは嬉しそうにはにかんで、チョコレートを口に運んだ。「おいしいよ、ありがとう」と甘くて優しい声が、心を満たしてくれる。でも、これじゃあいつもと変わらない。
だから私は、今日は覚悟を決めてきたのだ。
「でも……」
「ん?」
「あ……」
「ん、なんだい?」
「あげたいのは、それだけじゃないんです!」
言った。言ってしまった。一気に汗が噴き出す。ここまで来たらやるしかないぞ! と心の中の私が崖から飛び降りたのと同時に、立ち上がる。ブライスさんが目をまん丸にしてこちらを見ているが、まともに目を見てしまったら多分羞恥心で死ぬので見ないようにする。
椅子に腰かけたままのブライスさんの前に立ち、強く自分の両手を握った。手のひらは汗でじっとりと濡れている。
「もう一つあげたいものがあるんです」
つま先を見たまま、半ば叫ぶように言った。
「あの、その……」
「どうしたの、リズ」
「えっと」
「なに?」
「つまり、その、私ごと、もらってくれませんか」
ぷつり、と会話の流れが切れたのが私にも分かった。
ブライスさんは、私のどんな他愛のない話にだってしっかり相槌を打ってくれる。そんな優しいブライスさんが、言葉を失うというのは、多分、よほどのことだ。
沈黙は重い。「やっぱり嘘です!」と笑ってしまえればどれだけ楽だろう。でも、時間は決して戻らない。
「……リズ」
ブライスさんの冷たい手が、私の熱い手に触れた。
「顔をあげてくれる?」
心臓は今にもはじけそうだった。
小さく頷いて、顔を上げる。ブライスさんは少し困ったような顔をしていた。
「震えてるね、リズ」
「はい……す、すみません」
「謝るようなことじゃないけど」
ブライスさんの指が、私の手の甲をゆっくりとした動きで撫でる。
「……心の準備ができたの?」
「……できてません」
心の準備は、多分死ぬまでできない。私はブライスさんの美しい一挙手一動にも多分慣れないし、甘い言葉にも慣れない。いつも、そしてこれからも、ひーひー言いながら、今みたいに情けなく顔を真っ赤にするだけだ。
「でも……」
「ん?」
「でも、あなたにあげたいんです、その贈り物っていうか……いや、なんか、すごく恥ずかしいことをしているのは分かっているんですけど……」
あの時は笑ったけれど、ジャンさんの言う通り。
私は、“愛は目に見えないから、形を与えて、目に見えるようにしてやりたくなった”のだ。
「……ブライス」
いつもの呼び方から、たった二文字減らしただけなのに、初めて彼の名前を呼んだかのように、心臓がせわしなく動いた。
緊張して恥ずかしい。でも、ブライスさんの目が一瞬大きく見開かれて、まるでホットチョコレートに乗せた生クリームのように優しくとろけたので、恥ずかしさもどうでもいい。
あなたが喜んでくれるなら、なんだっていいや。
「ぜんぶ、あげたいです」
私の愛はもう溢れてしまった。
愛の重さとか、深さとか、しっかり形にしてあげたいけれど、そうするには大きすぎる気もしている。だから、全部あげる以外の方法が思い浮かばない。
「あ、愛してます」
言い切る前に、体が浮いた。抱え込まれ、降ろされたのはベッドの上。
背中が沈み、足の付け根辺りにブライスさんが跨る。手が伸ばされて、指先が頬に触れると大げさなくらい肩が跳ねた。
「……今なら、まだやめられるよ」
「いい、です。やめないで、ください」
「……そう」
ブライスさんの視線が舐めるように頬から首へと流れ、彼の指が追随する。
沸騰しそうな頭で、私は彼を見上げる。
おおよそ欠点の見つからない完璧なこの男性も、歯を立てればあのチョコレートのように違う顔を見せるのかもしれない。私はもう、その片鱗を見ている。
優雅で、穏やかな優しさの裏側には、暴力的で獣じみた彼がいる。
見たいと思う気持ちと、でも見てしまったら元に戻れないんじゃないかという、ほんのわずかな恐怖感がスパイスとなり、私の鼓動の音を早くした。
「リズ……」
熱のこもった声が降ってくる。
ブライスさんの瞳が、獲物を見つけた獣のように光っている。私は、これからこの人に食べられる。怖い。でも、いやらしく舌を舐める彼の口元から目が離せない。
彼の瞳に映ったわたしは、熱に浮かされて泣きそうな顔をしていた。
「ブライス」
愛は、多分、いろんなところにあって、見えないけれど私たちはそれを感じている。でも、形をあげたい。相手に分かって欲しい。自分の愛の重さとか、深さとか、どんな形をしているか、とか。
私は、祈るように彼の掌に自分の頬を寄せた。
「……ひとかけらも、残さないでください」
全部、ひとかけらも残さずに、どうか私の愛を思い知って。
どんな時だって、忘れないように。
End
最初に書いたものより長くなっててしまったバレンタインデー番外編でした。
この二人の話を書くのはすごく好きです。最後までお付き合いいただいた方どうもありがとうございました。
また、別の作品でお会いしましょう。




