聖魔殿堂 1(導師)
聖魔殿堂
――さて。養い子よ。
子供のような声で言う。
だが、その姿は、干からびた果実のようであった。左眼は潰れ、右眼だけが開いているが、その右眼も半分ほどが垂れたまぶたで覆われている。
ただ、半眼でも、その眼の光は生気に満ち溢れていた。
これから冒険に向かう子供のように、強く澄んだ光を放っている。
――われはこの道をゆく。ぬしは好きな道をゆけ。
少年は動じない視線を干からびた子供に向けた。
――では、あなたと同じ道を。
――そういう頓智は無しじゃ。
――なるほど。
少年の口許に笑みが浮いた。
――お別れ、というわけですか。
――そういうことじゃ。
――では。お世話になりました。
少年は頭を下げた。金色の髪が額で揺れる。貌を上げ、干からびた子供を見つめた。
――ご自愛を。
――ぬしもな。
干からびた子供の言葉に、少年は金色の眼を細くした。
笑ったのである。わずかに眼を細めただけであったが。
それきり何も言わず、少年は干からびた子供に背を向けた。
背後で、子供の声が響いた。
――……ら、会いに来い。
深い闇夜だった。
夜になって雲が生じた。
時おり、朧な光が闇空に揺れる。雲の上には月が出ているらしかった。
背後を振り返れば、闇の中に、黒々とした山のような影が見える。街をぐるりと囲む石の壁と、その壁よりもなお高い巨大な建造物群の影だった。
ルエルラメムの王都からまださほど離れていない。
王都から伸びる白い街道が、ぼんやりと闇に浮かんでいる。
周囲には誰もいない。
「ふん。ふん。ふふん」
幾つもの三つ編みを揺らしながら、チャナがくるくると踊っていた。
回るたびに広がるスカートが面白いらしい。
裸足でステップを踏んでいる。
「スカートが気に入ったみたいだな」
チャナの後ろを歩きながら、ヴォルドルーンは口を開いた。
「ん。これ? 好き――」
足を止め、きゃは、と笑う。スカートが、ふわり、と閉じた。
ジハドの母親の服だった。かあさんの服をあげて――とジハドが母親に頼んだのだ。
母親にしてみれば、不可解であっただろう。
とうさんの服を――と言われれば、まだ腑に落ちたかもしれない。
足の折れた息子を連れてきたのは、半裸の男だったからだ。
それでも息子の頼みを聞いて、女物の服と男物の服(父親の服だった)を出してきた。
――古いものですが。
恐縮そうに言われたが、服はきちんと洗われており、清潔だった。
建物の一角にある部屋も、きれいに掃除されていた。埃だけでなく、黴の匂いも無いのは、その小さな部屋に空気の通り道があるからだ。
狭い部屋だったが、住居としての条件はいい。
その場にはいなかった父親を、ヴォルドルーンは想像した。
服はかなりでかい。ヴォルドルーンの体格も平均を超えているが、それよりも遥かに大きなサイズだった。これを着る男はどのような男だと思わざるを得ない。
母親は美しい女だった。
ジハドと同じ色の眼が、泉のように静かな光を湛えていた。
二十代半ばだろうか。それより上には見えなかった。十代でジハドを産んだのだろう。
まだ娘のような女だった。
細い身体は、痩せて、骨の線が見えたが、それでも美しいと言えた。
この女をひとりにするのは不安だろう。治安はお世辞にもいいとは言えない。
女が無事でいられるのは、その場にいなくても、男の庇護が及んでいるからかもしれない。服に見合うだけの体格の持ち主なら、相当に大きな男だ。その男の女だ――と知られていれば、それだけで抑止力になる。
この部屋も、女のために男が用意したものかもしれない。とは言え、血腥さは感じられない。他者から不当に奪ったものには、独特の饐えたような匂いがつきまとうものだが、ひんやりとした部屋は、静謐な空気しか感じられなかった。
女の髪は、腰まであった。
この女に、他人の血で汚れたものを与える気にはなれないだろう。
――あの……?
黙っていたせいか、女が口を開いた。
ヴォルドルーンは非礼を詫び、服の礼を言って、ジハドに別れを告げた。
――また会える?
ジハドが言った。
――約束はできない。それでもいいか?
会おう、と言うのは簡単だが、城からの視線を考えると、安易な約束はできなかった。
――子供だからって誤魔化さないんだね。
ジハドが笑って言う。すぐに事情を察したらしい。
――いいよ。それで。気をつけて。
ヴォルドルーンは眼の端で笑った。
――おまえは賢い。これも。
女物の服に視線を落とした。
――普通は思い至らない。
チャナ――と呼んで、ヴォルドルーンは服を投げた。
入口から部屋を覗き込んでいたチャナが貌を上げた。
大きな水晶玉のような眼が服を映す。小さな角が上下左右に揺れた。
白い腕が伸びた。全裸の少女が服を受け取り、きゃは――と笑った。
まあ、と母親が口許に手を当て、その横で、ジハドによく似た少女(ジハドの姉だろう)が、わ。変身した――と驚きの声をあげた。
ジハドが声をあげて笑い出し、ヴォルドルーンも喉を鳴らして笑った。
「あの子。いいひとだね」
子供のような貌で、チャナが言った。
「いいひと? ジハドのことか?」
「チャナにこれをくれた」
「くれたから、いいひと――という判断基準はどうかと思うが」
ヴォルドルーンは苦笑した。
チャナが不思議そうに首を傾げる。
「まあそれはいずれ教えるとして。それより」
「それより?」
「見えるのだが」
「ん?」
「下着をつけていないだろ」
「あれ。きらい」
きゃはは、と笑いながら、チャナが離れていく。跳ねるような動きだった。
白い足が、闇の中で踊る。
「それ以上離れるな」
ぃぃぃぃぃん――と耳鳴りのような音が響いた。
チャナの貌が振り返り、水晶玉のような眼が大きく開いた。広がったスカートを貫き、石礫が地面を抉る。その時には、チャナを胸に抱いていた。
左腕でチャナを抱き、右手を背後に伸ばした。
開いた掌の前で、飛来した石の礫が宙に止まる。地面を抉ったのは、身体の横をすり抜けた幾つかだ。月のような光が、石の礫を包んでいる。
黄金の腕輪が金色の光を放っていた。
ナム・ヤーマの『封印』か――
闇の中から声が響いた。
ヴォルドルーンは右眼だけで背後を見た。左眼は閉じている。
腕を下ろすと、宙に静止していた石の礫がばらばらと地面に落ちた。
腕輪の光が、す、と消える。
闇の中に、漆黒の影が生じた。蓬髪が揺らぎ、男の貌が浮かんだ。
鼻から耳にかけて、傷のように深い皺が刻まれている。老齢に見えるが、額には皺が無かった。前方に突き出した額の下で、蟷螂のような眼が、炯炯と光を放っている。
知らない貌だった。
だが、その『眼』には覚えがあった。
塔の先端から、ヴォルドルーンを見ていた視線と同じものだった。
男は、ヴォルドルーンの腕輪を、ナム・ヤーマの『封印』――と言った。
それを知る者は他にはいない。
「聖魔殿堂の導師が何の真似です?」
男を見つめ、ヴォルドルーンは言った。




