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『月曜の歌』  作者: こうた
第三章 埋もれた歌

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第三十話 最初の音

崖下の黒い穴に降りた瞬間、世界は完全に“意味”を失った。


音がないのではない。


音という概念そのものが剥がれ落ちている。


足を踏み出しても、岩を蹴っても、呼吸をしても、何も返ってこない。


ただ、身体の内側だけが異様にうるさい。


心臓の鼓動だけが、自分を現実に繋ぎ止めていた。



---


「ここ……何もない。」


真琴の声は聞こえない。


だが唇の動きで分かる。


悠真も同じように頷く。


音を失った世界では、言葉はただの“形”だった。



---


黒い空間は、洞窟ではなかった。


天井も壁も境界も曖昧で、空間そのものが溶けている。


歩くたびに、足元の感覚が変わる。


石のはずなのに柔らかい。


水のはずなのに固い。


現実の定義が崩れている。



---


そのときだった。


悠真の“内側”で、音が鳴った。


ポン。


心臓とは違う。


何かが“始まった”ような一音。


続いて真琴も顔を上げる。


同じものを感じている。



---


二人の周囲に、わずかな光が生まれる。


いや、光ではない。


音の形だ。


波紋のように広がる透明な揺らぎ。


それが空間に触れるたび、かすかな“響き”が戻ってくる。



---


「これが……最初の音?」


悠真の問いに、返事はない。


だがその直後、空間が答えるように震えた。


ポン……ポン……ポン……。


規則的ではない。


しかし確かに“リズム”がある。


まだ歌ではない。


だが、歌に向かっている。



---


穴の奥へ進むほど、その音は増えていく。


重なる。


割れる。


また重なる。


やがてそれは、人の鼓動のように聞こえ始めた。


真琴が立ち止まる。


「これは……生命?」


悠真は首を振る。


「違う。」


「生命になる前だ。」



---


やがて空間の中心に出る。


そこには何もないはずだった。


だが――


“何もない”こと自体が、ひとつの存在としてそこにあった。


見えない中心。


触れられない核。


そしてそこから、音が生まれていた。



---


ポン。


一音。


それだけで空間が震える。


ポン。


二音目。


世界の輪郭が少しだけ濃くなる。


ポン。ポン。ポン。


音が増えるたび、空間が“現実”へ近づいていく。


悠真は気づく。


「これ……世界を作ってる。」



---


その瞬間だった。


背後から声がした。


「やっと……ここまで来た。」


美紗だった。


しかし今の彼女は、もう完全な姿ではない。


半分は人。


半分は“音の影”。



---


真琴が振り返る。


「美紗……あなたは?」


美紗はゆっくり首を振る。


「私は封印じゃない。」


「私は“調律”だった。」



---


悠真は息をのむ。


「調律……?」


美紗は奥を指差す。


そこには、音の中心があった。


まだ歌ではない“最初の音”。


それを整え、閉じ込める役割。


それが美紗だった。



---


「でも今は……違う。」


美紗の声が揺れる。


「もう、押さえきれない。」


「最初の音が、名前を欲しがってる。」


真琴が問う。


「名前?」


美紗は頷く。


「名前を持った瞬間、それは歌になる。」


「そして歌は……人を呼ぶ。」



---


空間が震え始める。


ポン、ポン、ポンという音が速くなる。


まるで何かが目を覚まし、呼吸を始めたように。


悠真の胸が締め付けられる。


「名前をつけたら終わりだ。」


真琴も理解する。


「でも、つけなければ……永遠に生まれ続ける。」



---


美紗は微笑む。


それは覚悟の表情だった。


「だから私は……ここにいた。」


「ずっと。」


その身体が少しずつ“音”に溶けていく。



---


そのとき、最初の音が一瞬止まった。


空間が静止する。


そして――


悠真の中に、言葉が浮かぶ。


理由はない。


だが、確かに“呼ばれている”。



---


真琴が震える声で言う。


「悠真さん……今、何を?」


悠真は答えない。


ただ、目の前の“存在”を見つめる。


それはまだ何でもない。


だが、確かにそこに“ある”。



---


そして、悠真は口を開いた。


「――」


その瞬間。


世界が息を吸った。



---


――第三十一話「命名」へ続く。

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