第1話「境界の薬局で」
1
夕方の薬局は、いつもより静かだった。
三条雪菜は、処方箋の束を整理しながら、ふうと小さく息をついた。
薬剤師5年目。仕事には慣れたが、慣れないこともある。
それは――患者の「視線」だ。
「……また見られてる」
白衣越しでも分かるほどの胸のふくらみ。
顔は普通なのに、胸だけがやたらと目立つ。
雪菜はそれが昔からコンプレックスだった。
だが、仕事中は気にしていられない。
薬剤師は、患者の不安を受け止める役目でもある。
「次の方、どうぞ」
呼びかけると、入口に立っていた男性がゆっくりと近づいてきた。
その瞬間、雪菜は違和感を覚えた。
(……服装、変わってる)
男性は、まるで舞台衣装のような古風なコートを着ていた。
深い青の布地に銀の刺繍。
日本ではまず見ないデザインだ。
「こちらの薬ですね。お名前を確認します」
雪菜が処方箋を受け取ると、男性は静かに頷いた。
「……三条雪菜殿、でよろしいか」
「えっ、あ、はい。雪菜で合ってます」
(殿? なんで敬称がそんな……)
男性は三十代前半ほど。整った顔立ちだが、どこか影がある。
目の奥が、常に何かを警戒しているようだった。
「症状は、咳と倦怠感ですね。薬の説明をしますね」
雪菜は慣れた口調で説明を始める。
だが、男性はどこか落ち着かない様子で、周囲を見回していた。
「……この世界は、静かだ」
「え?」
「いや、こちらの話だ。続けてくれ」
(この世界? どういう意味?)
奇妙な言葉に戸惑いながらも、雪菜は説明を続けた。
「では、飲み方をお伝えしますね。まず――」
男性の手に触れた瞬間だった。
胸の奥に、冷たい風が吹き抜けたような感覚が走る。
そして――
雪菜の脳に、知らない声が流れ込んできた。
『門は開いた。境界は薄れた。選ばれし者が、こちら側へ……』
「っ……!」
雪菜は思わず手を離した。
「どうした?」
「い、いえ……すみません。少し、手が滑って」
(今の……何? 声? 思考?)
男性は雪菜をじっと見つめた。
「……聞こえたのか」
「え?」
「いや、こちらの話だ。薬を頼む」
男性は薬を受け取ると、出口へ向かった。
だが、扉の前でふと振り返る。
「三条雪菜殿。あなたは――向こう側に呼ばれている」
「むこう……?」
「境界が開く。気をつけることだ」
そう言い残し、男性は去っていった。
雪菜はしばらく動けなかった。
(向こう側? 境界? 何それ……)
胸の奥に残る、あの冷たい感覚。
そして、流れ込んできた“声”。
雪菜は、自分の手を見つめた。
(触れたら……聞こえた? まさか、そんな……)
だが、あの感覚は確かに現実だった。
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2
薬局を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
雪菜は帰り道を歩きながら、さっきの出来事を思い返していた。
(あれは……幻覚? 疲れてる?)
薬剤師はストレスが多い。
患者の相談、クレーム、医師との連携。
心がすり減ることもある。
(でも……あんな“声”が聞こえるなんて)
雪菜は首を振った。
「考えすぎだよね……」
そう呟いた瞬間だった。
街灯の光が、ゆらりと揺れた。
風もないのに、影が伸びる。
まるで雪菜の足元を飲み込むように。
「え……?」
アスファルトが、ざらりと変質した。
黒い舗装が――
灰色の石畳へと変わっていく。
「ま、待って……何これ……」
周囲の建物が、ゆっくりと形を変える。
コンクリートのビルが、古い石造りの家へ。
電柱が、鉄製の街灯へ。
空気が冷たい。
風が、どこか湿っている。
気づけば――
雪菜は見知らぬ街の中央に立っていた。
「……え?」
周囲の人々が、雪菜の白衣を見てざわつく。
「異邦の者だ……」
「見たことのない衣だ」
「治癒師か?」
言葉は聞き取れる。
だが、発音がどこか古めかしい。
そして――
雪菜は気づいた。
(触れてないのに……声が聞こえる)
人々の思考が、微弱に流れ込んでくる。
ざわざわとした不安、好奇心、警戒心。
(どうして……?)
雪菜は胸を押さえた。
(私……どうなってるの?)
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3
「そこの君、待ちなさい!」
鋭い声が響いた。
振り返ると、銀の鎧をまとった男性が歩いてくる。
背が高く、整った顔立ち。
鋭い青い瞳が雪菜を捉えた。
「その衣……見たことがない。名を名乗れ」
「えっと……三条雪菜です。薬剤師で……」
「薬剤師? 治癒師の一種か?」
(治癒師? この世界ではそういう扱い?)
男性は雪菜の手を取った。
「危険だ。まずは保護する」
「え、あの、ちょっと……!」
触れられた瞬間――
雪菜の脳に、彼の思考が流れ込む。
『この者は危険ではない。だが、境界が開いた夜に現れた……
王都の混乱を防ぐためにも、保護しなければ』
(責任感……孤独……)
雪菜は思わず彼を見つめた。
「あなた……」
「私は王都騎士団副長、レオン・ヴァルターだ」
レオンは雪菜の手を離し、真剣な表情で言った。
「境界の門が開いた。君が現れたのは、その直後だ」
「境界……?」
「詳しい話は後だ。まずは安全な場所へ」
レオンが歩き出すと、雪菜は慌ててついていった。
(どうして……私が呼ばれたの?)
胸の奥で、また冷たい風が吹いた。
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4
レオンに連れられた先は、王都の中央にある大きな建物だった。
石造りの壁、重厚な扉。
まるで城の一部のようだ。
「ここは騎士団本部だ。君を保護する」
「保護って……私はただの薬剤師で……」
「だが、境界の門が開いた夜に現れた。偶然とは思えない」
レオンは雪菜を応接室へ案内した。
そこには、もう一人の男性がいた。
白いローブをまとい、細い指で書物をめくっている。
鋭い目つきの、知的な雰囲気の男。
「レオン、その者が“異邦の治癒師”か?」
「そうだ。名は三条雪菜」
男は雪菜をじっと見つめた。
「……ふむ。珍しい衣だな。素材も見たことがない」
「えっと……これは白衣で……」
「白衣? 聞いたことのない言葉だ」
男は雪菜に近づき、手を伸ばした。
「少し触れてもいいか?」
「え、あ……はい」
指先が触れた瞬間――
雪菜の脳に、彼の思考が流れ込む。
『この者は異邦人。だが、魔力の流れが奇妙だ……
精神の層が二重になっている? 興味深い……』
(この人……頭の回転が速い……)
男は口元をわずかに緩めた。
「私は宮廷薬師アーヴィンだ。君の知識には興味がある」
(薬師……薬剤師みたいな役職?)
アーヴィンは雪菜の白衣を指でなぞるように見つめた。
「この衣、機能性が高そうだ。どんな素材だ?」
「えっと、ポリエステルと綿で……」
「ぽり……えすてる? 聞いたことがないな」
レオンが咳払いした。
「アーヴィン、質問は後にしろ。雪菜が疲れている」
「ふむ、確かに。では後でゆっくり聞こう」
アーヴィンは興味深そうに雪菜を見つめた。
(この人……距離が近い……)
雪菜は少し頬が熱くなるのを感じた。
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5
応接室を出ると、廊下で大柄な男が待っていた。
「おい、レオン。そいつが噂の異邦人か?」
「ガルド、騒ぐな」
男は筋肉質で、粗野な雰囲気。
だが、目はどこか優しい。
「治癒師なら、怪我人の治療を頼みたいんだがな」
「私は薬剤師で……治療はできないんですけど……」
ガルドは雪菜の肩に手を置いた。
「まあ、できる範囲で頼むよ」
触れられた瞬間――
雪菜の脳に、彼の思考が流れ込む。
『この者は弱そうだが……悪い奴じゃねえ。
それに、あの子を助けられるかもしれねえ……』
(誰かを……守りたい人がいる?)
雪菜はガルドを見つめた。
「あなた……誰かを助けたいんですね」
「……おい、なんで分かるんだ?」
レオンが雪菜を見た。
「やはり……能力が発現しているな」
「能力……?」
アーヴィンが説明した。
「この世界には“精神を蝕む病”が流行している。
思考が漏れ出し、他人に影響を与える病だ」
「思考が……漏れる?」
「君の能力は、その病と関係している可能性がある」
雪菜は息を呑んだ。
(私……どうしてこの世界に?)
レオンが静かに言った。
「雪菜。君が来た夜、境界の門が開いた。
この世界は今、危機に瀕している」
「危機……?」
「君の力は――この世界を救う鍵になるかもしれない」
その瞬間だった。
雪菜の胸に、冷たい風が吹き抜けた。
周囲の思考が、一斉に流れ込んでくる。
『境界が……』
『異邦の者……』
『救いになるのか……』
『門が開いた……』
『精神の層が……』
『あの子を……助けたい……』
『選ばれし者……』
「っ……!」
雪菜は頭を抱えた。
「雪菜!」
レオンが支える。
アーヴィンが駆け寄る。
ガルドが肩を押さえる。
思考が、雪菜の脳を押しつぶすように流れ込む。
(だめ……こんなの……)
視界が白く染まる。
そして――
雪菜は意識を失った。
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第1話 終
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